詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(100 )

2014-02-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(100 )

「ヒルガオ」

漢人は「セン」といつて心の中で反動する             ( 110ページ)

 この作品も長いので1ページ1行を選んでみる。
 「セン」は「ヒルガオ」の中国語(?)の呼び方。このあと、ミルトン、ランボー、羅馬人、希人は「ヒルガオ」をどう呼ぶかが書かれていく。「音」がカタカナで再現される。どのように描写しているか、ということだけではなく、必ず「音」が書かれている。このことは、西脇が「もの(対象)」そのものに対して接近しているだけではなく、必ず「音」として「もの」を把握していることを意味するだろう。
 この詩には、たとえば「あの花のうすもも色は/地球上何属にも見られない/薄暮の最高の哀愁の色だ」というような行があるので、西脇が「絵画的詩人」であるというふうにとらえる人もいると思う。
 私は、そういうイメージの結晶のような部分よりも、「音」を手がかりに散らばっていくイメージの方が西脇の本質であると思う。イメージを固定化するのではなく、壊していく。乱していく。そういう部分が好きだ。乱調のなかで、乱調を越えて輝く美しさが好きだ。

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1 コメント

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西脇順三郎ー100 (大井川賢治)
2024-02-17 22:22:33
詩における音の意義、何か大変示唆的に思えます。というよりも、この先の時代の、詩作における、一つの大きな課題のように感じました。
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