西脇順三郎の一行(100 )
この作品も長いので1ページ1行を選んでみる。
「セン」は「ヒルガオ」の中国語(?)の呼び方。このあと、ミルトン、ランボー、羅馬人、希人は「ヒルガオ」をどう呼ぶかが書かれていく。「音」がカタカナで再現される。どのように描写しているか、ということだけではなく、必ず「音」が書かれている。このことは、西脇が「もの(対象)」そのものに対して接近しているだけではなく、必ず「音」として「もの」を把握していることを意味するだろう。
この詩には、たとえば「あの花のうすもも色は/地球上何属にも見られない/薄暮の最高の哀愁の色だ」というような行があるので、西脇が「絵画的詩人」であるというふうにとらえる人もいると思う。
私は、そういうイメージの結晶のような部分よりも、「音」を手がかりに散らばっていくイメージの方が西脇の本質であると思う。イメージを固定化するのではなく、壊していく。乱していく。そういう部分が好きだ。乱調のなかで、乱調を越えて輝く美しさが好きだ。
「ヒルガオ」
漢人は「セン」といつて心の中で反動する ( 110ページ)
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「セン」は「ヒルガオ」の中国語(?)の呼び方。このあと、ミルトン、ランボー、羅馬人、希人は「ヒルガオ」をどう呼ぶかが書かれていく。「音」がカタカナで再現される。どのように描写しているか、ということだけではなく、必ず「音」が書かれている。このことは、西脇が「もの(対象)」そのものに対して接近しているだけではなく、必ず「音」として「もの」を把握していることを意味するだろう。
この詩には、たとえば「あの花のうすもも色は/地球上何属にも見られない/薄暮の最高の哀愁の色だ」というような行があるので、西脇が「絵画的詩人」であるというふうにとらえる人もいると思う。
私は、そういうイメージの結晶のような部分よりも、「音」を手がかりに散らばっていくイメージの方が西脇の本質であると思う。イメージを固定化するのではなく、壊していく。乱していく。そういう部分が好きだ。乱調のなかで、乱調を越えて輝く美しさが好きだ。