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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(198 )

2011-03-22 10:38:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」。
 音のことばかり書いているので、ときには「意味」のことも。「意味」になるかたどうか、わからないけれど。

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ
秋の日に野原を走るこの
悲しみの悲しみの悲しみの
すべての連結の喜びの
よろこびの苦しみになる
かも知れないまたの悲しみのかなしみ

 「悲しみ」ということばの繰り返しの途中に「喜び・よろこび」ということばが出てくる。これは「悲しみ」とは相いれないことばである。もうひとつ「苦しみ」も出てくるが、苦しくと悲しいは近いことばである。苦しくて悲しいという表現は一般的に成り立つ。喜びで悲しい(うれしくて悲しい)は、いっしょの次元ではなく(併存ではなく)、喜びの一方で悲しい気持ち、うれしいけれど悲しいという対立した(矛盾した)感じのときにかぎられる。
 けれど、西脇は、ここに「喜び」ということばを持ってくる。
 そのとき「連結」ということばをつかっている。「連結」は「併存」でも「対立(矛盾)」でもない。併存も対立も、そこに接点はあるだろうけれど、それは結び合ってはいない。

 詩を定義して、いままで存在しなかったものの出会い、かけはなれた「もの」の出会いという言い方があるが、西脇はその「出会い」を「連結」という状態にしてしまう。しっかり結びつけてしまう。
 ここに西脇のおもしろさがある。そして「日本語」のおもしろさがある。外国語を知らないから、私の感想は間違っているかもしれないが、日本語というのはなんでも「連結」してしまう。どんな外国語も、そのまま取り入れて、「併存」させるというより、日本語そのものに結びつけてしまう。
 日本語のなかにおいてでも、西脇は、この詩の「悲しみの悲しみの悲しみの」と「の」をつかうことで、どんどんことばを「連結」させてしまう。
 そうすると、そこから「喜び・よろこび」が生まれてくる--これが西脇の「哲学」なのだ。そして、その「喜び・よろこび」を、私の場合は「音」のおもしろさ、たのしさ、「音楽」として感じる、ということになるのかもしれない。

 ことばを「連結」するのが「喜び・よろこび」なら、いま、ここに、ふつうにあることばを「ほどく」(連結から解除する、結び目を解体する)というのも「喜び・よろこび」である。
 ことばがほどかれたとき、そのほどけめは乱れる。そこに乱調の美がある。
 しっかり結びつけられた結び目、その独特の形も美しいが、硬く結びつけられていたものが(がんじがらめにこんがらがっていたものが)、解きほぐされたとき--これもまたうれしくて、笑いだしたくなるねえ。

すつぱいソースを飲みにそれは
ザクロの実とセリとニラを
つきまぜた地獄の秋の香りがする
アベベが曲つたところから
左へ曲つて
花や実をつけたニシキギや
マサキのまがきをめぐつて
われわれは悲しみつづけた

 「アベベ」はエチオピアのマラソン選手だろう。東京オリンピックでアベベが走った道。そこを曲がる。ふいに、そこにはいないアベベを「連結」するとき、いまという「とき」がほどかれる。時間が自由になり、その解放感のなかでことばが自由になる。
 「連結」は「解体」(解放)でもあるのだ。





詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房



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