『1999』(1998年)の「美しい断崖」。繰り返し田村が書いてきたことが、ここでも書かれている。「肉眼」の問題である。
ネパールの草原では月は東に陽は西に
その平安にみちた光景には
心を奪われたくせに
「美しい断崖」にはなってくれない
きっとぼくの眼は
肉眼になっていないのだ
ただ視力だけで七十年以上も地上を歩いてきたにちがいない
まず熟性の秘密をさぐること
腐敗性物質という肉体のおだやかな解体を知ること
ある対象を見る。それは「視力」の仕事である。「肉眼」の仕事は「対象」を超えて何かを見る力である。それは「対象」の向こうにあるのではなく、その内部にある。「対象」の内部にあって、「熟性」するもの。
「腐敗性物質」とは人間のことだが、その「肉体のおだやかな解体」とは何だろうか。死だろうか。それとも生だろうか。それは死であり、誕生である。ふたつが結びついたものだ。田村にとって、あらゆる存在は、生と死のように矛盾したものが固く結びついている。その結びつきこそ「美しい断崖」だ。生にとって死は断崖。死にとっても生は断崖である。矛盾したものがぶつかるとき、そこに「断崖」があらわれてくるのだ。
愛が生れるのはその瞬間である
視力だけで生きる者には愛を経験することはできない
生物は「物」である
生物の本能もまた「物」である
だが
視力が肉眼と化したとき
物は心に生れ変る たとえ
地の果てまで旅したとしても
視力だけでは「物」は見えない
肉眼によって
物と心が核融合する一瞬
一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある
「視力」が「肉眼」になるためには何が必要か。「ぼく」の解体である。「ぼく」だけにかぎらないが、あらゆる存在は「形」をもっている。視力が見るのは「形」である。その内部ではない。
「本能」ということばを手がかりに考えてみる。「本能」は「人間」の(あるいは生物の)内部にある。その内部こそ、田村にとっては「物」である。(外部は「物」にはなっていない。「物」以前の何かである。)
視力が「肉眼」になるとは、「視力」が「内部」を見る力を獲得するということだが、それは「内部」そのもの、本能そのもの、「いのち」そのものに生まれ変わることと同義である。
「視力」が「内部」のもの、「肉眼」になったとき、あらゆる存在の外部は解体し、形が存在する前の、「未分化」の存在になる。あらゆるものが「未分化」の状態で平等に結びつく。
「人間」の内部にあるもの。それは、たとえば仮に「心」と呼ばれたりする。
「肉眼」によって、「心」と「物の内部・本能」が出会う。そのときのことを、田村は強烈なことばで書いている。
核融合する一瞬
それは単なる「融合」ではない。「核融合」。激しい爆発。出合った「心」と「物」が融合するだけではなく、そのとと、その周囲にあった存在もすべてとかして爆発する。世界が一変する。そういう瞬間。
矛盾→解体→生成。田村のことばの特徴として、そういうことを何度か書いてきたが、そのときの生成は世界の破壊でもある。
一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある
消えないもの--それは何か。破壊する力である。核融合は「未分化」そものもさえも破壊するかもしれない。それは、矛盾した夢である。けれど、矛盾しているから、そこに、ほんとうの何かがある。田村の夢がある。祈りがある。
半七捕物帳を歩く―ぼくの東京遊覧 (1980年)田村 隆一双葉社このアイテムの詳細を見る |
谷内さんがいつも言われるように、田村隆一の詩のテーマの一つは矛盾です。今回も、この詩を、矛盾→解体→生成という一連の流れとして、まとめられておられます。
ここで、小生は、ふっと、学生時代に読んだ、毛沢東の「矛盾論」を思い出しました。矛盾論では、世の中の矛盾はいつか破綻し解体し、必ず、新たなものが生まれるというものでした。どこかに共通するものを感じています。