『小鳥は笑った』には鎌倉の詩がたくさんある。そのうち、私は「白波」と「冬」に強くひかれる。特に「白波」の次の部分。
道をたずねようとしたとたん、道をたずねられていることになれている(辟易している)魚屋のおかみさんが、教える代わりに「地図を見て」と言う。いや、「チズ!」とだけ叫ぶ。田村は、私が書いたようなことは省略して、単に「チズ!」という一声があったという事実だけを書いているのだが、この省略--そこに、詩がある。
詩とは異質なものの出会い。
人間にとって、いちばん異質なものとは、人間以外のものではなく、人間でありながら自分とは違う時間を生きている人間、つまり「他人」である。
田村にとって、この作品のなかで近しい人は、『新篇鎌倉志』を書いた人であり、またその本にしたがってブラブラ歩いている人である。遠い人、「他人」とは、そういうブラブラ歩きの人から道を聞かれてうんざりしている人--つまり、魚屋のおかみさんである。ふたりが出会うとき、ふたりの向き合う「ベクトル」はまったく逆である。いわば「矛盾」している。(こういうとき、矛盾ということばはつかわないだろうけれど、いままで私がつかってきた「矛盾」にはこういう組み合わせも含んでいるので、あえて「矛盾」と書いておく。)
そして、その「ベクトル」は、単に方向をもっているだけではなく、「過去」をもっている。そして、そのふたつのベクトルがぶつかったとき、長い「過去」をもっているベクトルが短い「過去」しかもたないベクトルを破壊してしまう。膨大な過去が、一気に噴出してきて、少ない過去をけちらかしてしまう。
「チズ!」と一声叫ぶだけで、おかみさんが何度道を聞かれたか、そういう経験をしてきたかがすぐわかる。そして、その一声といっしょに見えてくる地図の、その書き込みによって、いったい何を聞かれたかもわかる。
その一気に噴き出してきた「他人の過去」に詩人が打ち勝つ方法はない。道を尋ねようとしていた自分を否定し、地図をみつめ、そして単に場所だけではなく、いやむしろ、場所というよりも、別の田村(田村に先だっておかみさんに道を聞いた人)のめざしていたひととのやりとりまで聞いてしまう。田村は「杉本観音」の場所を聞こうとした。しかし、別の田村は杉本寺や報国寺などを聞こうとした。この瞬間の、「他人」の「自己」への闖入。--そこに、詩がある。「他人」の闖入により、「自己」が破壊される一瞬。そこに詩がある。
「冬」では、田村の「十三秒間隔の光り」という作品に対する土砂からのはがきが引用されている。田村は「岡田港」の灯台と思ってその作品を書いたが、それは「風早崎」の灯台であり、光りの間隔も十三秒ではなく、三十秒周期だという。
それが「事実」であるかどうかは問題ではない。
いつでも「他人」は田村の予想外のことばであらわれる。その「予想外のことば」のなかに、田村は驚く。その驚きの中に詩がある。他人のことばが闖入してきて、一瞬、田村のことばを破壊するのだ。
田村のことばを破壊するのは、たとえばオーデンの詩、エリオットの詩、あるいは西脇の詩のことばというような「文学」だけではない。
文学とは関係なく(といってしまうと語弊があるかもしれないけれど)、それぞれに自分の時間を生きている「他人」のことばも、同じように田村のことばを破壊する。「他人」のことばの方が破壊力が強いかもしれない。
そして、そういう田村を破壊することばを田村は正確に受け止めている。拒絶するのではなく、受け入れて、自分を解体する手がかりにしている。
田村は、鎌倉を歩き回りながら、田村を破壊してくれることば、自然を探している--それがこの詩集だと思う。
「杉本観音は、海道より北にあり」
と『新篇鎌倉志』にあるが、その「海道」を、いま金沢八景行きのバスが走っていて、ぼくは「わかれ道」でおりて、ブラブラ歩くことにする。「わかれ道」のそばに、魚屋があって、「ちょっとお伺いしますが」の、「ちょっと」と云ったとたん、ゴム長をはいたいせいのいいおかみさんが、デバ包丁をふりかざして、「チズ!」と一声。なるほど、店の横手に自家製の地図が打ちつけてあって、その杉板に、杉本寺や報国寺、荏柄天神などの所在が黒のボールペンで描かれている。
道をたずねようとしたとたん、道をたずねられていることになれている(辟易している)魚屋のおかみさんが、教える代わりに「地図を見て」と言う。いや、「チズ!」とだけ叫ぶ。田村は、私が書いたようなことは省略して、単に「チズ!」という一声があったという事実だけを書いているのだが、この省略--そこに、詩がある。
詩とは異質なものの出会い。
人間にとって、いちばん異質なものとは、人間以外のものではなく、人間でありながら自分とは違う時間を生きている人間、つまり「他人」である。
田村にとって、この作品のなかで近しい人は、『新篇鎌倉志』を書いた人であり、またその本にしたがってブラブラ歩いている人である。遠い人、「他人」とは、そういうブラブラ歩きの人から道を聞かれてうんざりしている人--つまり、魚屋のおかみさんである。ふたりが出会うとき、ふたりの向き合う「ベクトル」はまったく逆である。いわば「矛盾」している。(こういうとき、矛盾ということばはつかわないだろうけれど、いままで私がつかってきた「矛盾」にはこういう組み合わせも含んでいるので、あえて「矛盾」と書いておく。)
そして、その「ベクトル」は、単に方向をもっているだけではなく、「過去」をもっている。そして、そのふたつのベクトルがぶつかったとき、長い「過去」をもっているベクトルが短い「過去」しかもたないベクトルを破壊してしまう。膨大な過去が、一気に噴出してきて、少ない過去をけちらかしてしまう。
「チズ!」と一声叫ぶだけで、おかみさんが何度道を聞かれたか、そういう経験をしてきたかがすぐわかる。そして、その一声といっしょに見えてくる地図の、その書き込みによって、いったい何を聞かれたかもわかる。
その一気に噴き出してきた「他人の過去」に詩人が打ち勝つ方法はない。道を尋ねようとしていた自分を否定し、地図をみつめ、そして単に場所だけではなく、いやむしろ、場所というよりも、別の田村(田村に先だっておかみさんに道を聞いた人)のめざしていたひととのやりとりまで聞いてしまう。田村は「杉本観音」の場所を聞こうとした。しかし、別の田村は杉本寺や報国寺などを聞こうとした。この瞬間の、「他人」の「自己」への闖入。--そこに、詩がある。「他人」の闖入により、「自己」が破壊される一瞬。そこに詩がある。
「冬」では、田村の「十三秒間隔の光り」という作品に対する土砂からのはがきが引用されている。田村は「岡田港」の灯台と思ってその作品を書いたが、それは「風早崎」の灯台であり、光りの間隔も十三秒ではなく、三十秒周期だという。
それが「事実」であるかどうかは問題ではない。
いつでも「他人」は田村の予想外のことばであらわれる。その「予想外のことば」のなかに、田村は驚く。その驚きの中に詩がある。他人のことばが闖入してきて、一瞬、田村のことばを破壊するのだ。
田村のことばを破壊するのは、たとえばオーデンの詩、エリオットの詩、あるいは西脇の詩のことばというような「文学」だけではない。
文学とは関係なく(といってしまうと語弊があるかもしれないけれど)、それぞれに自分の時間を生きている「他人」のことばも、同じように田村のことばを破壊する。「他人」のことばの方が破壊力が強いかもしれない。
そして、そういう田村を破壊することばを田村は正確に受け止めている。拒絶するのではなく、受け入れて、自分を解体する手がかりにしている。
田村は、鎌倉を歩き回りながら、田村を破壊してくれることば、自然を探している--それがこの詩集だと思う。
あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)田村 隆一風濤社このアイテムの詳細を見る |