2016年09月17日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面に「辺野古訴訟 国が勝訴」という見出しと記事が乗っている。翁長知事による普天間飛行場移設先(辺野古)の埋め立て承認取り消し処分を、高裁名は支部が「違法」と判断したというニュースである。
その「判決のポイント」に、
とある。
ということは、もし沖縄県民が(知事が)、辺野古がだめだと主張するためには、辺野古という場所が「不合理」であるということを証明しなければならないことになる。「不合理」の証明など、できない。
普天間の安全確保、経済発展という、国の考えた「合理」は完結している。その完結している「合理」を国が前面に出してくるとき、それに対する「不合理」は存在しない。
だから普天間を出発点にして「合理/不合理」を考えるのではなく、辺野古を出発点にして考える必要があるのだが……。
滑走路を造るには、土地が狭い、から「不合理」と主張すれば、土地が狭いなら海面を埋め立てて土地をつくればいい、ということになる。実際、その方向で計画が進んでいる。
海面を埋め立てるのでは、自然破壊になると主張すれば、自然への影響を最小限に抑える工法をとる、ということになる。
「ことば」はどうとでも組み立てることができる。そして、その組み立て方に問題がなければ「論理的=合理的」ということになる。
「合理/不合理」ではなく、基地ができるのはいやだという、そこに住む人の「気持ち」が大事なのだ。その気持ちを、どうやって解消するか。
納得する(説得させる)ためには、話し合いが必要だ。話し合いの中から、打開策を探していかなければならない。そのために「交渉」というものがあるのだと思うが、国の判断に「不合理」がない限り、住民は国の判断に従うべきだというのでは、「地方自治」の否定になってしまわないか。
これでは次々に「国の判断」が「地方」に押しつけられることになる。
どんな「判断」も「合理的」なものを含んでいる。そうしないと、「主張」できない。「全面的に不合理な判断」など、想定することができない。
ちょっと気になり、現行憲法と自民党憲法改正草案を比較してみた。
いろいろ細部にも言いたいことがあるのだが、端折る。
改正草案の方が、格段に条文が長くなっている。そして、私が一番注目するのは、その長くなったなかの、つまり現行憲法にはない、「第九十三条第三項」である。
「地方自治」の「章」なのに、ここに「国」が登場している。「国と地方自治体」は「協力しなければならない」と定めている。このときの「協力」とは「地方自治体」に「国」が「協力する」ではないだろう。「地方自治体」よりも先に「国」ということばが書かれている。これは、「国」に対して「地方自治体」は「協力しなければならない」ということである。「国」の言うことを、聞け、ということである。つまり、「自治」の否定。
今回の高裁那覇支部の判決は、そういう意味では「憲法改正草案」の「先取り」なのである。安倍が改正草案を先取り実施しているのと同じように、司法も安倍にあわせて(安倍に媚を売って?)改正草案を先取りしている。
安倍も司法も、改正草案を「指針」にして行動している。現実をつくり得ようとしている。
いま起きていることを、いまの憲法と結びつけて問題提起すると同時に、常に改正草案と関連づけることで安倍が何をしようとしているか、これから何が起きるかを見ていく必要がある。そうすることで改正草案の危険性を指摘し続けなければならない。
(参院選期間中に、大急ぎで問題点を指摘したときは、「個人」のことにばかり目が行っていて、地方自治などの部分は読みとばしてしまっていた。「ニュース」にあわせ、改正草案の問題点を指摘し続けたい。)
その「判決のポイント」に、
国防と外交は国の本来的な任務で、国の判断は不合理でない限り尊重される
とある。
ということは、もし沖縄県民が(知事が)、辺野古がだめだと主張するためには、辺野古という場所が「不合理」であるということを証明しなければならないことになる。「不合理」の証明など、できない。
普天間の安全確保、経済発展という、国の考えた「合理」は完結している。その完結している「合理」を国が前面に出してくるとき、それに対する「不合理」は存在しない。
だから普天間を出発点にして「合理/不合理」を考えるのではなく、辺野古を出発点にして考える必要があるのだが……。
滑走路を造るには、土地が狭い、から「不合理」と主張すれば、土地が狭いなら海面を埋め立てて土地をつくればいい、ということになる。実際、その方向で計画が進んでいる。
海面を埋め立てるのでは、自然破壊になると主張すれば、自然への影響を最小限に抑える工法をとる、ということになる。
「ことば」はどうとでも組み立てることができる。そして、その組み立て方に問題がなければ「論理的=合理的」ということになる。
「合理/不合理」ではなく、基地ができるのはいやだという、そこに住む人の「気持ち」が大事なのだ。その気持ちを、どうやって解消するか。
納得する(説得させる)ためには、話し合いが必要だ。話し合いの中から、打開策を探していかなければならない。そのために「交渉」というものがあるのだと思うが、国の判断に「不合理」がない限り、住民は国の判断に従うべきだというのでは、「地方自治」の否定になってしまわないか。
これでは次々に「国の判断」が「地方」に押しつけられることになる。
どんな「判断」も「合理的」なものを含んでいる。そうしないと、「主張」できない。「全面的に不合理な判断」など、想定することができない。
ちょっと気になり、現行憲法と自民党憲法改正草案を比較してみた。
(現行憲法)
第九十二条
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
(改正草案)
第九十二条
地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。
第九十三条
地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は、法律で定める。
2 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で定める。
3 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない。
いろいろ細部にも言いたいことがあるのだが、端折る。
改正草案の方が、格段に条文が長くなっている。そして、私が一番注目するのは、その長くなったなかの、つまり現行憲法にはない、「第九十三条第三項」である。
国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。
「地方自治」の「章」なのに、ここに「国」が登場している。「国と地方自治体」は「協力しなければならない」と定めている。このときの「協力」とは「地方自治体」に「国」が「協力する」ではないだろう。「地方自治体」よりも先に「国」ということばが書かれている。これは、「国」に対して「地方自治体」は「協力しなければならない」ということである。「国」の言うことを、聞け、ということである。つまり、「自治」の否定。
今回の高裁那覇支部の判決は、そういう意味では「憲法改正草案」の「先取り」なのである。安倍が改正草案を先取り実施しているのと同じように、司法も安倍にあわせて(安倍に媚を売って?)改正草案を先取りしている。
安倍も司法も、改正草案を「指針」にして行動している。現実をつくり得ようとしている。
いま起きていることを、いまの憲法と結びつけて問題提起すると同時に、常に改正草案と関連づけることで安倍が何をしようとしているか、これから何が起きるかを見ていく必要がある。そうすることで改正草案の危険性を指摘し続けなければならない。
(参院選期間中に、大急ぎで問題点を指摘したときは、「個人」のことにばかり目が行っていて、地方自治などの部分は読みとばしてしまっていた。「ニュース」にあわせ、改正草案の問題点を指摘し続けたい。)