「午後の訪問」のつづき。
梅の古木(こぼく)が暗い農家の庭から
くもの巣だらけの枝を道の上にさしのべて
旅人(たびびと)の額(ひたい)をたたくのだ。
その実はまだびろーどのように柔(やわらか)い。
野原の祖年に一つもいで人間を祝福した。
あの白いいばらの花もこひるがほの花も
人間の悲劇を飾るものだ。
この辺には昔(むかし)、オセアニアという
理想国があつたかも知れない。
この盆地を初めて耕(たがや)した者は
春に薔薇を摘み秋には林檎を摘んだのだ。
この短い旅のはて、ようやくお湯屋へ
たどりついたが、友は留守……
『ではさようなら』……
世田ヶ谷で古い茶釜を買つて帰つて来た。
きのう読んだ部分には「悲しみ」ということばがあった。最後の部分には「悲劇」ということばがある。どちらも、「よそぞめ」とか「いばら」「こひるがほ」の花とか、自然が出てくる。
非情、あるいは非人情としての自然。
そういうものと向き合いながら、人間は孤独を知る。それを「旅」という。「旅人」とは、野を歩き、自然の非人情を知り、その非人情によってあらわれていく人間の淋しさをことばにする人のことだ。
そういう「旅」をしたあと、「旅人」はもう、「友」にあう必要はない。もう、ことばはつかってしまった。自然のなかで、つかってしまった。
ことばにしてしまえば、もう、友に語る必要はないのである。
ここから、きのう読んだ部分のおもしろさが、ふっと、浮かび上がってくる。
西脇は友人とは会話しなかった。だから、その会話の記録は、この作品にはない。けれど、西脇は、老人と話をした。草木の名前を聞いた。そして、そのことはきちんとことばとして書かれている。
老人のことば--きのう、その特質について書かなかったが、そのことばは、西脇に西脇の知らないことをつげる。単に「よそぞめ」という名前だけではなく、その花を暮らしのなかでどんなふうにつかっている。どんなふうに、その花とむきあっているか、をつげる。それは、西脇にとっては「他人」のことばである。「他人」のことばにふれて、西脇は、また「他人」になる。「他人」として生まれ変わる。ここにも、「旅」の要素がある。いままでの自分をふりすて、新しいもののなかで生まれ変わるのが「旅」である。
そして、「他人」と「他人」は、まるで友人以上に親密な何かに触れる。花、自然を自然のまま愛する「いのち」として。
老人と西脇が会話するとき、その会話は「こんな草むらにもれきく、キリギリスの/ような会話」と書かれていた。老人がキリギリス、西脇が草むらか、あるいは老人が草むら、西脇がキリギリスか。どちらがどちらであってもいい。草と昆虫という別個のものが「共存する」。その「共存」が、草とキリギリスを、同時に分け隔てる。
この共存と分離--共存と分離しながら、「会話」をして生きていく--ということのなかに、「淋しさ」がある。「悲しみ」がある。「悲劇」がある。
説明はできないけれど、私は、そう感じる。
![]() | 最終講義西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫実業之日本社このアイテムの詳細を見る |