西脇順三郎の一行(10)
「失楽園/世界開闢説」
西脇の詩にはことばがグロテスクなくらいあふれている。そして多くの場合、そのことばは「もの」そのものの手触りとして、そこに「ある」。その「ある」が強すぎて、そのためにグロテスクな感じがする。
詩の2行目「一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる」には「ある」ということばはつかわれていないが、「タリポットの樹」が「ある」、そこに「音響」が「ない」という形で「ある」。そして「成長」が「ある」。この「ある」の特徴は、それ自体に人間が関与しないことである。人間の存在を無視して、それは「ある」。
これに対して「ゴールデンバットをすいつゝ」は違う。そこには「吸う」という動詞がしっかり関係している。そのために「もの」の「ある」ということのグロテスクさが緩和されている。そして、その結果と言っていいのかどうかよくわからないが(その結果、と私は言いたいのだが……)、「ゴールデンバット」が「もの(たばこ)」であることから自由になって、「音楽」になっている。
言い換えると。
この一行は「意味」としては「たばこをすいつつ」ということであって、その「意味」を伝えるだけなら「たばこ」「ハイライト」「セブンスター」「マルボーロ」でもいいはずなのだが、詩は意味ではないので、ここでは「ゴールデンバット」でなくてはならないのだ。
「ゴールデンバット」という派手な音だけが、他のグロテスクな「もの」の「ある」に対抗しうるのだ。「ある」という動詞に頼らずに、別な形でしっかりと存在する。それは--うまくいえないが「ある」ではなく「なる」なのだ。
「ゴールデンバット」という「もの(たばこ)」が、「ゴールデンバット」という「音楽」に「なる」。そういうことが、ここでは起きている。
「失楽園/世界開闢説」
ゴールデンバットをすいつゝ
西脇の詩にはことばがグロテスクなくらいあふれている。そして多くの場合、そのことばは「もの」そのものの手触りとして、そこに「ある」。その「ある」が強すぎて、そのためにグロテスクな感じがする。
詩の2行目「一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる」には「ある」ということばはつかわれていないが、「タリポットの樹」が「ある」、そこに「音響」が「ない」という形で「ある」。そして「成長」が「ある」。この「ある」の特徴は、それ自体に人間が関与しないことである。人間の存在を無視して、それは「ある」。
これに対して「ゴールデンバットをすいつゝ」は違う。そこには「吸う」という動詞がしっかり関係している。そのために「もの」の「ある」ということのグロテスクさが緩和されている。そして、その結果と言っていいのかどうかよくわからないが(その結果、と私は言いたいのだが……)、「ゴールデンバット」が「もの(たばこ)」であることから自由になって、「音楽」になっている。
言い換えると。
この一行は「意味」としては「たばこをすいつつ」ということであって、その「意味」を伝えるだけなら「たばこ」「ハイライト」「セブンスター」「マルボーロ」でもいいはずなのだが、詩は意味ではないので、ここでは「ゴールデンバット」でなくてはならないのだ。
「ゴールデンバット」という派手な音だけが、他のグロテスクな「もの」の「ある」に対抗しうるのだ。「ある」という動詞に頼らずに、別な形でしっかりと存在する。それは--うまくいえないが「ある」ではなく「なる」なのだ。
「ゴールデンバット」という「もの(たばこ)」が、「ゴールデンバット」という「音楽」に「なる」。そういうことが、ここでは起きている。