西脇順三郎の一行(90)
西脇の詩の行は一行で完結した「意味」をもたない。西脇の詩の一行は「断片」である。「切断」されている。それは前の行、あるいは次の行とつながって「意味」になることが多いのだが、つなげて「意味」を追っているとき、何か間違っているという感じに襲われる。私が「西脇の一行」という無謀な感想を書きつらねているのは、その「何か間違っている」(意味にしてはいけない)何かを、なんとかつかみ取りたいからである。
ふつう、ことばは「意味」によって補強される。「意味」がわかると、そこには何らかの「価値」が存在しているように感じてしまう。西脇の一行は、その一行自体を取り上げると説明しにくいのだが、詩をつづけて読んでいると、読む度に一行一行が独立/分離していく感じがする。「意味」をつくりながら、「意味」から離れていこうとしているように感じられる。「意味」から離れてしまうと、ことばというのは頼りなくなるはずなのに、西脇の詩の場合は違う。離れていくことで、全体を「強固」にする感じがある。ぶぶんとしてあまりにも「強さ」をもちすぎているということだろうか。
あ、抽象的に書きすぎた。
この行が魅力的なのは、「むく」という動詞が含まれているからである。「あのあつい皮の内側は」と書いても「意味」はかわらない。かわらないけれど、何かが違う。「むく」という動詞がはいり込むと、そこに西脇が動いて見える。皮の内側に何かがあるという「事実」は変わらないのだが、「むくと」という動詞がはいり込むと、「むく」ことによって西脇が「内側」を発見するという動きにかわる。「内側」に何かあるというのは「普遍の事実」ではなくて、「西脇の発見した事実」になる。
一行のなかに、「肉体」が深く関係している。「肉体」が存在し、動いている。
「動詞」が含まれないときでも、そこには西脇の「肉体」がある。「肉体」がおぼえていることがある。たとえば「教養」というものもそのひとつかもしれない。「嗜好」というものそのひとつだろう。
「壌歌 Ⅱ」
あのあつい皮をむくとうち側は ( 102ページ)
西脇の詩の行は一行で完結した「意味」をもたない。西脇の詩の一行は「断片」である。「切断」されている。それは前の行、あるいは次の行とつながって「意味」になることが多いのだが、つなげて「意味」を追っているとき、何か間違っているという感じに襲われる。私が「西脇の一行」という無謀な感想を書きつらねているのは、その「何か間違っている」(意味にしてはいけない)何かを、なんとかつかみ取りたいからである。
ふつう、ことばは「意味」によって補強される。「意味」がわかると、そこには何らかの「価値」が存在しているように感じてしまう。西脇の一行は、その一行自体を取り上げると説明しにくいのだが、詩をつづけて読んでいると、読む度に一行一行が独立/分離していく感じがする。「意味」をつくりながら、「意味」から離れていこうとしているように感じられる。「意味」から離れてしまうと、ことばというのは頼りなくなるはずなのに、西脇の詩の場合は違う。離れていくことで、全体を「強固」にする感じがある。ぶぶんとしてあまりにも「強さ」をもちすぎているということだろうか。
あ、抽象的に書きすぎた。
この行が魅力的なのは、「むく」という動詞が含まれているからである。「あのあつい皮の内側は」と書いても「意味」はかわらない。かわらないけれど、何かが違う。「むく」という動詞がはいり込むと、そこに西脇が動いて見える。皮の内側に何かがあるという「事実」は変わらないのだが、「むくと」という動詞がはいり込むと、「むく」ことによって西脇が「内側」を発見するという動きにかわる。「内側」に何かあるというのは「普遍の事実」ではなくて、「西脇の発見した事実」になる。
一行のなかに、「肉体」が深く関係している。「肉体」が存在し、動いている。
「動詞」が含まれないときでも、そこには西脇の「肉体」がある。「肉体」がおぼえていることがある。たとえば「教養」というものもそのひとつかもしれない。「嗜好」というものそのひとつだろう。