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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(59)

2014-05-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(59)          

 「エンデュミオンは人間の中でもっとも美しい若者。月の神セレナが恋をし、神は最高神ゼウスに願い、永遠にその姿で眠らせた。」と中井久夫は注釈に書いている。「エンジュミオンの像を前にして」はその像を見た「私」の感想を書いている。

これがエンデュミオンの像か。
世に知られたエンデュミオンの美しさよ。
私はみつめて驚くばかり。

 しかし、この三行からは具体的な美しさはわからない。どこかが、どのように美しかったのか。その具体的な描写がなければ、それは詩ではないのではないか。
 その具体的な描写をするかわりに、カヴァフィスは少し手の込んだことをしている。この三行の前に、像を見るために「私」はどんなふうにしてそこへやってきたかを書いている。その様子を具体的に書くことでエンデュミオンの美しさを語る。「私」がしてきた準備をはるかに上回る美しさがある。それはことばでは言えない。自分のしてきたことはことばになるが、エンデュミオンの美しさはことばにならない。

白いラバ四頭に銀の牽き具をつけ、
純白の戦車を駆って、
ミレトスの港からトモスに着いた、

 「白」の強調。それは「銀色」に輝く白である。そこに金属が含まれるから「戦車」の強さと直結する。「白いラバ」の白はほんとうの白ではないが、「銀」の白をへて「戦車」に結びつくことで、あらゆる白が「純白」へと昇華する。その豪華な運動。それを上回る美しさ。ただし、「白」は「喪の色」でもある。死ぬことによって完結し、完結することによって二度と失われることのなくなった美--それが強調される。

犠牲獣を焼き、酒を地に注ぐ儀式のために、
緋色の三段櫂船で
アレクサンドリアから海をわたってきた私--。

 その旅は、最初から「白」で統一されていたわけではない。出発のときは「緋色(生)」に満ちていた。「犠牲獣」も血の色、儀式に流されるのも血の赤。さらに緋色の豪華な「三段櫂船」。それは「私」が生きている証拠でもある。
 その生の緋色と、エンデュミオンの死の白が対照的に描かれている。
 旅の順序としてはアレクサンドリアからミレトスが船、ミレトスからトモスが陸になり、詩に書いてある順序と前後するが、これはあえて逆に書いてある。死(白)→生(緋)→像(死)と進むことで、間にはさまった生(緋)が死と像を逆に強調する。緋→白→死(像)では、美にであったときの不思議な混乱と躍動がなくなってしまう。





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