中井久夫訳カヴァフィスを読む(41)
「没入した」は、やはり男色の世界を描いている。
「快楽」ということばが三回出てくるが、その「意味」は三回とも違う。
最初の快楽は「現実」の方に属している。ひとが一般にいう快楽、肉体が感じる快楽である。
次の快楽は肉体が感じる快楽というよりも脳裡が感じる快楽である。一種の幻想である。それはほんとうは快楽ではなく、苦悩かもしれない。苦悩かもしれないけれど、脳裡が快楽と判断しているもの。
あるいは、能裡が妥協している快楽かもしれない。
いや、そうではない。まだ手に入らない快楽を能裡が追い求めている。あるに違いないと信じている快楽である。肉体は快楽を感じている、けれど脳はもっと快楽があるはずだと信じてそれを追いかけている。
この追い求めているという感じがなくならないと、ほんとうの快楽とは言えないかもしれない。「完全に没入した」とは言えないだろう。
最後の快楽は「快楽の英雄」という形で書かれている。絶対的な快楽、理想としての快楽。彼は、それを真似る。ただし、快楽そのものをではない。それは真似られない。だから、せめて「快楽の英雄」の酒の飲み方を真似る。肉体でなぞる。
この三回の快楽の繰り返しで、彼が実は快楽を手に入れていないこと、忘我、エクスタシーに達してはいないことがわかる。エクスタシーに達していれば、快楽を求めるとは書くはずがない。だから、「完全に没入した」と書いてはいるけれど、彼は没入などしていないのだ。没入できずに苦悩している。
快楽ということばが三回出てくるが、それがどんな快楽なのか、肉体を刺戟することばが書かれていないのはそのためである。また肉体がいっさい出て来ないのもそのためである。そのとき眼は何を見たのか、耳は何を聞いたのか、手は何に触ったのか、声はどんなふうにのどを駆け抜けたのか。快楽という限りは、せめて、そういうことを書かないと快楽の描写にならない。
カヴァフィスは、苦悩をまぎらわせるために、彼は「強い酒」を飲んでいる。求めている快楽のかわりに、酒の酔いのなかで、苦悩を忘れようとしている。「英雄」のふりをして、快楽を知っているふりをして。その「ふり」のなかに没入している。
「没入した」は、やはり男色の世界を描いている。
おのれを縛らなかった。完全に没入した、
快楽に、半ばは現実だが
半ばはわが脳裡のくるめきである快楽に。
きらびやかな夜に没入して
強い酒を飲んだ、
快楽の英雄のやり方で。
「快楽」ということばが三回出てくるが、その「意味」は三回とも違う。
最初の快楽は「現実」の方に属している。ひとが一般にいう快楽、肉体が感じる快楽である。
次の快楽は肉体が感じる快楽というよりも脳裡が感じる快楽である。一種の幻想である。それはほんとうは快楽ではなく、苦悩かもしれない。苦悩かもしれないけれど、脳裡が快楽と判断しているもの。
あるいは、能裡が妥協している快楽かもしれない。
いや、そうではない。まだ手に入らない快楽を能裡が追い求めている。あるに違いないと信じている快楽である。肉体は快楽を感じている、けれど脳はもっと快楽があるはずだと信じてそれを追いかけている。
この追い求めているという感じがなくならないと、ほんとうの快楽とは言えないかもしれない。「完全に没入した」とは言えないだろう。
最後の快楽は「快楽の英雄」という形で書かれている。絶対的な快楽、理想としての快楽。彼は、それを真似る。ただし、快楽そのものをではない。それは真似られない。だから、せめて「快楽の英雄」の酒の飲み方を真似る。肉体でなぞる。
この三回の快楽の繰り返しで、彼が実は快楽を手に入れていないこと、忘我、エクスタシーに達してはいないことがわかる。エクスタシーに達していれば、快楽を求めるとは書くはずがない。だから、「完全に没入した」と書いてはいるけれど、彼は没入などしていないのだ。没入できずに苦悩している。
快楽ということばが三回出てくるが、それがどんな快楽なのか、肉体を刺戟することばが書かれていないのはそのためである。また肉体がいっさい出て来ないのもそのためである。そのとき眼は何を見たのか、耳は何を聞いたのか、手は何に触ったのか、声はどんなふうにのどを駆け抜けたのか。快楽という限りは、せめて、そういうことを書かないと快楽の描写にならない。
カヴァフィスは、苦悩をまぎらわせるために、彼は「強い酒」を飲んでいる。求めている快楽のかわりに、酒の酔いのなかで、苦悩を忘れようとしている。「英雄」のふりをして、快楽を知っているふりをして。その「ふり」のなかに没入している。