西脇順三郎の一行(84)
「全くきこえない」なら、それは「音」ではない。でも、西脇は「音」と書く。それ読むとき、不思議なことに私には「音」が聞こえる。この「聞こえる」はとても変な感覚だ。まわりにある音が、その「きこえない音」に向かって吸い込まれていく。消えていく。消えつづけていく。消えたと思ってもまだ消えていなくて、はてしなく消えていくという「運動する音」なのである。
この「運動する音」というのは、この行につづく「出しているがそれも/果てしない永遠に向かつて/あこがれているのだ」という行によって強調されている。
音が消えた瞬間の「無」になった「音」ではなく、「無」を生み出しつづける音。「生み出しつづける」という動きがあるために、その振動のために、「音」が聞こえる--と書いてしまうと理屈っぽくなるし、強引にもなるのだが……。
わきで全くきこえない音を (96ページ)
「全くきこえない」なら、それは「音」ではない。でも、西脇は「音」と書く。それ読むとき、不思議なことに私には「音」が聞こえる。この「聞こえる」はとても変な感覚だ。まわりにある音が、その「きこえない音」に向かって吸い込まれていく。消えていく。消えつづけていく。消えたと思ってもまだ消えていなくて、はてしなく消えていくという「運動する音」なのである。
この「運動する音」というのは、この行につづく「出しているがそれも/果てしない永遠に向かつて/あこがれているのだ」という行によって強調されている。
音が消えた瞬間の「無」になった「音」ではなく、「無」を生み出しつづける音。「生み出しつづける」という動きがあるために、その振動のために、「音」が聞こえる--と書いてしまうと理屈っぽくなるし、強引にもなるのだが……。