西脇順三郎の一行(92)
「クソニンジン」が野卑で野蛮で、その教養にそまっていなところ、雅語からはるかに遠いところが清潔で美しい。
ひとが暮らしている現場で動くことばには偶然と必然が固く結びついている。その強固さにはどんな雅語もかなわない。雅語というのは嘘だからである。教養というのもきっと嘘なんだろうなあと感じる。
教養のひとが、こういうことばをつかうところに、また「笑い」がある。健康なコッケイがある。
「壌歌 Ⅱ」
土手の下のクソニンジンの繁みの中に (104 ページ)
「クソニンジン」が野卑で野蛮で、その教養にそまっていなところ、雅語からはるかに遠いところが清潔で美しい。
ひとが暮らしている現場で動くことばには偶然と必然が固く結びついている。その強固さにはどんな雅語もかなわない。雅語というのは嘘だからである。教養というのもきっと嘘なんだろうなあと感じる。
教養のひとが、こういうことばをつかうところに、また「笑い」がある。健康なコッケイがある。