「言葉のない世界」は刺激的な行にあふれている。
2連目の行は1連目の行の反復・言い直しである。「真昼の球体だ」は「正午の詩の世界だ」。1連目になくて2連目にあるもの。「詩」。「詩」が付け加えられている。このことによって、この作品が「詩」をテーマにしていることがわかる。そして「詩」を「球体」と考えていることも、わかる。
作品を書き出したとき、田村はまだテーマを見つけてはいない。テーマがあって書きはじめているわけではない。書くこと、書いた瞬間にことばが動く--そして、そこからテーマが発生する。というより、発見されるのだ。「球体」は「詩」として発見され、そのその発見へ、発見のなかへとことばはさらに進んで行く。
しかし、その進行は、簡単なことではない。
「おれは垂直的人間」と「おれは水平的に人間にとどるまことはできない」という行のあいだでは、まだ何も発見されていない。単に「垂直」と「水平」が対比されているだけで、「垂直」の実質は何もわからない。
これは「1」をもう一度言い直し、言い直すことで、ことばの動きのベクトルを補強している。いったんひきさがり、原点からことばを再加速させ、飛躍しようとしている。そして、実際に、「3」から飛躍する。「球体」と「詩」は別のことばで、「球体」も「詩」も感じさせないことばで語られはじめる。
なぜ、そういう飛躍になってしまうのか。そんな飛躍をしなければならないのか。
この行の意味が、ここにある。飛躍の理由がここにある。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて」というのは、一種の論理矛盾である。ことばをつかえば、その瞬間から「言葉のない世界」は存在し得ない。そういう不可能性へ向かってことばは突き進むのだから、どこかで「矛盾」を超越しなければならない。ふっきらなければならない。それが「飛躍」なのだ。
「現代詩」のことばは、どんな「飛躍」でも受け入れる、ということを出発点にしている。日常の論理を逸脱しても、その運動を受け入れるということを前提としている。それはことばを洗練させるというよりも、ことばの可能性をさぐる、日本語に何ができるかを発見・発明するということを詩の目標にしているからだ。
「飛躍」のなかに、少しだけ「飛躍以前」の残骸が残っている。その残滓によって、「飛躍」が「飛躍」であることがわかる。「真昼」は「1」にでてきたことばである。「1」の「球体」は「陽」である。「詩」は太陽のようなものとして、ここで象徴的に語られていることになる。
それにつづく行は、かなり複雑である。
「岩の死骸」と言ったあと、その「死」のイメージとは逆のことばが何回かつづく。「活火山」「大爆発」「エネルギー」「溶岩」。そして、そういう、「死」を否定するようなことばを受けて、「の死骸」ともとに戻る。
ここでは、ことばはまだことば自身の動きを発見していない。予感はしているが、どう進んでいいかは、まだわかっていない。
そういうあいまいな(?)というか、予感だけの径路をとおって、ことばは動きをととのえる。
前に書いたことを言い直しながら、徐々に言いたいことを見つけ出していく。生み出していく。
詩は、先の引用部分のあと、1行の空き(小さな飛躍)のあと、突然濃密になりはじめる。
「岩」とは実は「田村以前の詩」であることが、ここまでことばが動いてきて、はじめてわかる。それは「死骸」である。たしかにその詩もかつてはエネルギーそのものだっただろうけれど、詩になってしまった瞬間、死骸になった。それは「言葉の世界」なのだ。「言葉のない世界」を覆い隠している否定すべき存在だ。
田村は、ここでは、そういう死骸から脱けだし、新しい詩のなかに生まれかわりたいと欲望している。「言葉」の世界から脱出し「言葉のない世界」へ生まれ変わりたいと欲望している。その欲望だけは、はっきり自覚できる。
でも、その新しい詩とは何か。はっきりしない。はっきりしないけれど、予感がある。インスピレーションが、田村を直撃する。
「観察」と「批評」。
田村は「観察」は肯定するが「批評」を否定する。「批評」がはじまるとき、死がはじまるのだ。「世界」(対象)を観察しているとき、そこにはまだことばはない。それを語るとき、つまり「言葉の世界」がはじまるとき、そこに批評が加わり、その批評によって「世界」のもっているエネルギーの、まだ形をもっていないエネルギーそのものは、ひとつの「枠」のようなもの制御される。そして死んでしまう。死骸になる。
そうならないような、ことばの動かし方はないのか。
ことばがエネルギーを死骸におとしめることなく、エネルギーのまま、目の前に存在するようなあり方はないのか。
--そんなふうに、田村は「現代詩」を定義しながら、ことばを動かす。
(この項、あすにつづく。)
1
言葉のない世界は真昼の球体だ
おれは垂直的人間
言葉のない世界は正午の詩の世界だ
おれは水平的に人間にとどるまことはできない
2連目の行は1連目の行の反復・言い直しである。「真昼の球体だ」は「正午の詩の世界だ」。1連目になくて2連目にあるもの。「詩」。「詩」が付け加えられている。このことによって、この作品が「詩」をテーマにしていることがわかる。そして「詩」を「球体」と考えていることも、わかる。
作品を書き出したとき、田村はまだテーマを見つけてはいない。テーマがあって書きはじめているわけではない。書くこと、書いた瞬間にことばが動く--そして、そこからテーマが発生する。というより、発見されるのだ。「球体」は「詩」として発見され、そのその発見へ、発見のなかへとことばはさらに進んで行く。
しかし、その進行は、簡単なことではない。
「おれは垂直的人間」と「おれは水平的に人間にとどるまことはできない」という行のあいだでは、まだ何も発見されていない。単に「垂直」と「水平」が対比されているだけで、「垂直」の実質は何もわからない。
2
言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない
これは「1」をもう一度言い直し、言い直すことで、ことばの動きのベクトルを補強している。いったんひきさがり、原点からことばを再加速させ、飛躍しようとしている。そして、実際に、「3」から飛躍する。「球体」と「詩」は別のことばで、「球体」も「詩」も感じさせないことばで語られはじめる。
なぜ、そういう飛躍になってしまうのか。そんな飛躍をしなければならないのか。
言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて
この行の意味が、ここにある。飛躍の理由がここにある。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて」というのは、一種の論理矛盾である。ことばをつかえば、その瞬間から「言葉のない世界」は存在し得ない。そういう不可能性へ向かってことばは突き進むのだから、どこかで「矛盾」を超越しなければならない。ふっきらなければならない。それが「飛躍」なのだ。
「現代詩」のことばは、どんな「飛躍」でも受け入れる、ということを出発点にしている。日常の論理を逸脱しても、その運動を受け入れるということを前提としている。それはことばを洗練させるというよりも、ことばの可能性をさぐる、日本語に何ができるかを発見・発明するということを詩の目標にしているからだ。
3
六月の真昼
陽はおれの頭上に
おれは岩の大きな群れのなかにいた
そのとき
岩は死骸
あるいは活火山の
大爆発の
エネルギーの
溶岩の死骸
「飛躍」のなかに、少しだけ「飛躍以前」の残骸が残っている。その残滓によって、「飛躍」が「飛躍」であることがわかる。「真昼」は「1」にでてきたことばである。「1」の「球体」は「陽」である。「詩」は太陽のようなものとして、ここで象徴的に語られていることになる。
それにつづく行は、かなり複雑である。
「岩の死骸」と言ったあと、その「死」のイメージとは逆のことばが何回かつづく。「活火山」「大爆発」「エネルギー」「溶岩」。そして、そういう、「死」を否定するようなことばを受けて、「の死骸」ともとに戻る。
ここでは、ことばはまだことば自身の動きを発見していない。予感はしているが、どう進んでいいかは、まだわかっていない。
そういうあいまいな(?)というか、予感だけの径路をとおって、ことばは動きをととのえる。
前に書いたことを言い直しながら、徐々に言いたいことを見つけ出していく。生み出していく。
詩は、先の引用部分のあと、1行の空き(小さな飛躍)のあと、突然濃密になりはじめる。
なぜそのとき
あらゆる諸形態はエネルギーの死骸なのか
なぜそのとき
あらゆる色彩とリズムはエネルギーの死骸なのか
「岩」とは実は「田村以前の詩」であることが、ここまでことばが動いてきて、はじめてわかる。それは「死骸」である。たしかにその詩もかつてはエネルギーそのものだっただろうけれど、詩になってしまった瞬間、死骸になった。それは「言葉の世界」なのだ。「言葉のない世界」を覆い隠している否定すべき存在だ。
田村は、ここでは、そういう死骸から脱けだし、新しい詩のなかに生まれかわりたいと欲望している。「言葉」の世界から脱出し「言葉のない世界」へ生まれ変わりたいと欲望している。その欲望だけは、はっきり自覚できる。
でも、その新しい詩とは何か。はっきりしない。はっきりしないけれど、予感がある。インスピレーションが、田村を直撃する。
一羽の鳥
たとえば大鷲は
あのゆるやかな旋回のうちに
観察するが批評はしない
なぜそのとき
エネルギーの諸形態を観察だけしないのか
なぜそのとき
あらゆる色彩とリズムを批評しようとしないのか
「観察」と「批評」。
田村は「観察」は肯定するが「批評」を否定する。「批評」がはじまるとき、死がはじまるのだ。「世界」(対象)を観察しているとき、そこにはまだことばはない。それを語るとき、つまり「言葉の世界」がはじまるとき、そこに批評が加わり、その批評によって「世界」のもっているエネルギーの、まだ形をもっていないエネルギーそのものは、ひとつの「枠」のようなもの制御される。そして死んでしまう。死骸になる。
そうならないような、ことばの動かし方はないのか。
ことばがエネルギーを死骸におとしめることなく、エネルギーのまま、目の前に存在するようなあり方はないのか。
--そんなふうに、田村は「現代詩」を定義しながら、ことばを動かす。
(この項、あすにつづく。)
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いのちは直観するだけ、とベルグソンなら言うかもしれない。