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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(69)  

2014-05-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(69)          

 「美」に捕らえられると、「美」から逃れられなくなる。「美」は自分で発見するのものだが、それはほんとうに自分で見つけたものなのか。逆に「美」の方から見つけられてしまった--ということはないのか。
 「じっとみつめた」という詩は、そんなことを考えさせる。

身体の数々の線。紅の唇。官能の肢体。
ギリシャの彫刻から盗んだかの髪は
櫛けずらずとも常に美であった。
白い額にはらりとかかっていた髪よ。
いくとおりもの愛の姿よ。私の詩心が求めるままに
……私の若かった夜な夜な、
私の夜な夜な密かに出会った姿よ--。

 「じっとみつめた」の主語は基本的には「私(カヴァフィス)」だろう。カヴァフィスが若い男をじっとみつめ、そこにギリシャ彫刻の美しさを見出している。特に髪が気に入ったらしい。
 でも、それは「みつめる」というよりも、カヴァフィスの「嗜好」を若い男に押しつけているということかもしれない。「私の詩心が求めるままに」、彼を作り替えている。理想の像に仕立てている。そして、そのときその理想というのは、実はカヴァフィスの教養である。カヴァフィスが見てきたギリシャの彫刻。その美に合うに、詩人は若い男を描写している。
 この詩では髪に焦点があたっているが、別の男を描く場合は髪ではなく、肩や首、目や唇ということもあるだろう。髪だけがカヴァフィスの美の基準ではないだろう。
 そうであるなら、(という私の推論はかなり飛躍したものになるのだが)、それは相手の男がカヴァフィスの記憶(肉体がおぼえていること)のなかから引き出した「美」かもしれない。カヴァフィスの教養のなかにはいくつもの「美」がある。その「美」を青年が見つけ出し、彼の髪をつかって整えなおしている。髪によって、カヴァフィスの髪に関することばが整えなおされている。そういうこともあるのではないだろうか。
 「私の若かった夜な夜な」の「若かった」ということばは、こうした体験が若い時代からつづいていることを語っているのだが、すべてのことは「出発したところ」から逃れられないのかもしれない。
 カヴァフィスが美を発見したのではなく、美の方がカヴァフィスのことばを発見し、それを操っている。自分でみつけたものなら、それを捨てることができる。見つけられてしまい、とらえられてしまっているから、カヴァフィスは逃げられない。夜がくるたびに、つかまえられてしまう。繰り返される「夜な夜な」が、そう語っている。

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