goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)

2014-09-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)   

 「愛の物語を聞けば」は、カヴァフィスが何よりもことばの世界を重視していたことがわかる。

きみよ、大いなる愛の物語を聞けば、すべからく審美家として感動せよ。
これだけは忘れるな、きみが気ままでずっと幸せだったのは、
きみの想像力がずいぶん創り出してくれたおかげなのだ。

 「愛の物語を聞けば」の「聞く」という動詞。「聞く」のは「他人の愛の物語」である。自分で体験するのではなく、間接的に体験する。ことばをとおして。
 このとき、カヴァフィスが「読む」ではなく「聞く」ということばをつかっているのは、詩人が「音(声)」こそがことばだと感じていた証拠になるだろう。「音(声)」は聞いた先から消えていく。それを消えないようにするには、自分の「肉体」で反復するしかない。耳と口をつかって、ことばを動かす。「声」に出す。実際に他人に聞こえるように言わなくても、自分に聞こえるように「肉体」のなかで「声」を出す。
 「肉体」のなかでひびく「声」。これは「想像力」と呼ばれるものかもしれない。自分の「肉体」のなかで、ことばが「声」になってひびく。他人には聞こえないが、自分には聞こえる「声」。それが「想像力」の出発点である。
 カヴァフィスは、その「無音の声=想像力の声」をいちばんすばらしいものだと言う。次のように。

何よりもまずこれだ。あとはきみも人生の中で
けっこう楽しんだ経験に過ぎぬよ。

 「愛の物語」を構成することば、その「想像力の声=無音の声」を自分の「肉体」で「無音」のまま反復し、そこにあるリズムとメロディー、ハーモニーに感動するとき、「きみ」自身の「経験」が花が開くように開く。
 そして、カヴァフィスは、ちょっと残酷(?)なことも言う。

それほど大したものではなくて手頃な現実、
きみの味わった愛とさほど変わらぬ愛だよ。

 「物語」のなかの「愛」と、「きみ」が知っている「愛」とさほどかわらない。これは「大いなる愛の物語」にとっては残酷極まりないことばだが……。
 逆に言えば、「きみ」の「愛」も、ことば次第で「大いなる愛の物語」なるということでもある。ことばが「手頃な現実」をたった一つの全体的な「現実」、つまり詩に変える。そして、それを詩に変えるためには「審美眼」が必要である。審美家になって、ことばの細部をしっかりみつめる。強いことばで「愛」を語るとき、それは「大いなる」ものとして誕生する。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 野村喜和夫「詩論のエートス... | トップ | 北川透『現代詩論集成1』(3) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

カヴァフィスを読む」カテゴリの最新記事