中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)
「愛の物語を聞けば」は、カヴァフィスが何よりもことばの世界を重視していたことがわかる。
「愛の物語を聞けば」の「聞く」という動詞。「聞く」のは「他人の愛の物語」である。自分で体験するのではなく、間接的に体験する。ことばをとおして。
このとき、カヴァフィスが「読む」ではなく「聞く」ということばをつかっているのは、詩人が「音(声)」こそがことばだと感じていた証拠になるだろう。「音(声)」は聞いた先から消えていく。それを消えないようにするには、自分の「肉体」で反復するしかない。耳と口をつかって、ことばを動かす。「声」に出す。実際に他人に聞こえるように言わなくても、自分に聞こえるように「肉体」のなかで「声」を出す。
「肉体」のなかでひびく「声」。これは「想像力」と呼ばれるものかもしれない。自分の「肉体」のなかで、ことばが「声」になってひびく。他人には聞こえないが、自分には聞こえる「声」。それが「想像力」の出発点である。
カヴァフィスは、その「無音の声=想像力の声」をいちばんすばらしいものだと言う。次のように。
「愛の物語」を構成することば、その「想像力の声=無音の声」を自分の「肉体」で「無音」のまま反復し、そこにあるリズムとメロディー、ハーモニーに感動するとき、「きみ」自身の「経験」が花が開くように開く。
そして、カヴァフィスは、ちょっと残酷(?)なことも言う。
「物語」のなかの「愛」と、「きみ」が知っている「愛」とさほどかわらない。これは「大いなる愛の物語」にとっては残酷極まりないことばだが……。
逆に言えば、「きみ」の「愛」も、ことば次第で「大いなる愛の物語」なるということでもある。ことばが「手頃な現実」をたった一つの全体的な「現実」、つまり詩に変える。そして、それを詩に変えるためには「審美眼」が必要である。審美家になって、ことばの細部をしっかりみつめる。強いことばで「愛」を語るとき、それは「大いなる」ものとして誕生する。
「愛の物語を聞けば」は、カヴァフィスが何よりもことばの世界を重視していたことがわかる。
きみよ、大いなる愛の物語を聞けば、すべからく審美家として感動せよ。
これだけは忘れるな、きみが気ままでずっと幸せだったのは、
きみの想像力がずいぶん創り出してくれたおかげなのだ。
「愛の物語を聞けば」の「聞く」という動詞。「聞く」のは「他人の愛の物語」である。自分で体験するのではなく、間接的に体験する。ことばをとおして。
このとき、カヴァフィスが「読む」ではなく「聞く」ということばをつかっているのは、詩人が「音(声)」こそがことばだと感じていた証拠になるだろう。「音(声)」は聞いた先から消えていく。それを消えないようにするには、自分の「肉体」で反復するしかない。耳と口をつかって、ことばを動かす。「声」に出す。実際に他人に聞こえるように言わなくても、自分に聞こえるように「肉体」のなかで「声」を出す。
「肉体」のなかでひびく「声」。これは「想像力」と呼ばれるものかもしれない。自分の「肉体」のなかで、ことばが「声」になってひびく。他人には聞こえないが、自分には聞こえる「声」。それが「想像力」の出発点である。
カヴァフィスは、その「無音の声=想像力の声」をいちばんすばらしいものだと言う。次のように。
何よりもまずこれだ。あとはきみも人生の中で
けっこう楽しんだ経験に過ぎぬよ。
「愛の物語」を構成することば、その「想像力の声=無音の声」を自分の「肉体」で「無音」のまま反復し、そこにあるリズムとメロディー、ハーモニーに感動するとき、「きみ」自身の「経験」が花が開くように開く。
そして、カヴァフィスは、ちょっと残酷(?)なことも言う。
それほど大したものではなくて手頃な現実、
きみの味わった愛とさほど変わらぬ愛だよ。
「物語」のなかの「愛」と、「きみ」が知っている「愛」とさほどかわらない。これは「大いなる愛の物語」にとっては残酷極まりないことばだが……。
逆に言えば、「きみ」の「愛」も、ことば次第で「大いなる愛の物語」なるということでもある。ことばが「手頃な現実」をたった一つの全体的な「現実」、つまり詩に変える。そして、それを詩に変えるためには「審美眼」が必要である。審美家になって、ことばの細部をしっかりみつめる。強いことばで「愛」を語るとき、それは「大いなる」ものとして誕生する。
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