西脇順三郎の一行(30)
ふつうなら「利根川と筑波(山)を左にみて」と書くだろう。その方が何を見たかイメージがはっきりするからである。しかし、西脇は「わざと」カタカナまじりで書く。まるで外国の風景のように。
ではなく。
私は、そのとき実は風景を思い描かない。「河」は河になって水を流そうとするが、水の流れになって動こうとするが、それは瞬時に「ツクバ」という音によって消えてしまう。風景が消える。
そして、「音楽」がかわりに聞こえる。「トネ」「ツクバ」。カタカナで書くと奇妙な音だ。それがほんとうに日本語にあるかどうかわからない。つまり、わけのわからない「音」だけがそこにあって、その音を聞きながら「左」を見る。視覚は「方向」だけを見て、ものを見ない。風景を見ない。
もちろん視覚には何かが飛び込んできて、それは網膜に像を結ぶけれど、それは「無意味」。「意味」があるとすれば、「左」だけ。
「左」といっしょにあるのは「音」だけである。
このあと詩は「話をしながら/歩いたのだ」というように「ことば(会話/対話)」の世界へ入っていくが、これは自然な成り行きである。
西脇は「視覚」で歩くのではなく、「聴覚」で歩くのだ。歩くと(動くと)聴覚が覚醒するのである。
「粘土」
トネ河とツクバを左にみて
ふつうなら「利根川と筑波(山)を左にみて」と書くだろう。その方が何を見たかイメージがはっきりするからである。しかし、西脇は「わざと」カタカナまじりで書く。まるで外国の風景のように。
ではなく。
私は、そのとき実は風景を思い描かない。「河」は河になって水を流そうとするが、水の流れになって動こうとするが、それは瞬時に「ツクバ」という音によって消えてしまう。風景が消える。
そして、「音楽」がかわりに聞こえる。「トネ」「ツクバ」。カタカナで書くと奇妙な音だ。それがほんとうに日本語にあるかどうかわからない。つまり、わけのわからない「音」だけがそこにあって、その音を聞きながら「左」を見る。視覚は「方向」だけを見て、ものを見ない。風景を見ない。
もちろん視覚には何かが飛び込んできて、それは網膜に像を結ぶけれど、それは「無意味」。「意味」があるとすれば、「左」だけ。
「左」といっしょにあるのは「音」だけである。
このあと詩は「話をしながら/歩いたのだ」というように「ことば(会話/対話)」の世界へ入っていくが、これは自然な成り行きである。
西脇は「視覚」で歩くのではなく、「聴覚」で歩くのだ。歩くと(動くと)聴覚が覚醒するのである。