詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫「涼しくて風通しがよくて気持ちのいい場所」

2013-03-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「涼しくて風通しがよくて気持ちのいい場所」(「朝日新聞」2013年03月12日夕刊)

 中上哲夫「涼しくて風通しがよくて気持ちのいい場所」は、とてもあいまいなところがある。中上にとってはあいまいではないだろうけれど、私にはあいまいにみえるところと言えばいいのかもしれない。

大きな傘のような木の下で
来世を夢見ながら
ねむるインドの男たち

ジャングルの木陰のハンモックで
赤子のように
昼寝(シエスタ)をむさぼる熱帯の男たち
(ハンモックの発祥の地らしいのだ)

あんなふうに生涯をおくれたらなあ
という友人に異論はないけれども
ダンテ・アリギエリの煉獄(れんごく)のような
窓も空調設備もない
ビルの地階の管理人室ですごした日々に
わたしが思っていたのは
ビクーニャの目をもった妻と
でこぼこのじゃが芋のような子供たちと
神に祈りつつ
コンドル舞うアンデスの高地で物言わず暮らす男たちのことだった
かれらはいうのだ
この風景のなかまに生まれて
年老いて死んでいくのは
なんという幸せなのだと

 1連目、2連目は、インドの風景のように見える。昼寝と書いて、なぜか「シエスタ」とスペイン語のルビを振っているのが、よくわからないが、まあ、「インドの男」ということばが出てくるからインドなのだろう。インドは熱帯だし、ジャングルもどこかにあるだろう。
 3連目の「友人」というのは、そのインドの男たちを目撃してきた友人なのか。それとも「わたし(中上?)」と一緒にインドを旅して、男たちを目撃し、その場で感想をもらしたのか。
 どっちでもいいけれど。
 そのあとの「わたし」。これは中上? 中上はビルの管理人室で、昼寝を楽しんでいるインドの男たちではなく、アンデスの高地で暮らす男たちのことを夢見ていた。アンデスの動物・ピグーニャの目を持つ妻がいて、アンデスが原産のじゃがいものような子供がいて、という暮らしを夢見ていた。
 そうだと仮定して、次の「かれら」とは誰? アンデスの男たち?
 それともインドの男たち? インドの男たちはハンモックで昼寝しながら、「わたし(中上?)」と同じようにアンデスの夢を見ている? そしてアンデスの風景のなかで年老いて死んで行くことを幸せと感じている?
 いや、そうではなくて、アンデスの男たちが、自分たちの暮らし、ビクーニャの目をもった妻とじゃがいもみたいな子供と「物言わずに」(つまり、中上のように詩などは書かずに)、年老いて死んでゆくのは幸せだと感じている?
 たぶん、これだろうなあ。中上の書いていることは。
 でも、それって、中上がアンデスの男たちから直接聞いたことば? ビルの管理人室で「思っていた」のだから、きっと「かれら」の「思い」も中上(わたし)の「思い」に違いない。「わたし(中上)」は「わたしの思い」をかってに「かれらの思い」として語っているにすぎない。
 そうだとすると、「かれら」とは「わたし」にすぎない。「かれら」はほんとうはいないことになる。
 そんなふうに考えると、「友人」の存在もあやうい。とても「あいまい」だ。それはもしかしたら、ある瞬間の「わたし」かもしれない。あるときの「わたし」。あるとき「わたし」はハンモックで昼寝をするインドの男の生涯にあこがれた。でも、ビルの地階の管理人室で働いたので、いまは「地階」の反対の「高地・アンデス」の男たちの暮らしをあこがれの目で見ている、という具合にとらえることができないわけではない。
 「主語」がとても「あいまい」なのである。
 で、その「主語(登場人物)」があいまいという視点からもう一度詩を読み直すと……。
 「インド」というのはアジアのインド? 違うかもしれない。
 アンデスの先住民を「インディオ」という。アンデスも「インド」なのである。1連目を読んで、私は、最初「インド」をアジアのインドと思った。「来世」ということばから釈迦なんかも想像し、インドに違いないと思った。けれども、それは間違いかもしれない。
 中上は最初からアンデスを描いているだけなのかもしれない。南米の先住民が話すことばはスペイン語ではないけれど、いまはスペイン語を話す。(スペインに征服されていた時代があったから。)だから昼寝を「シエスタ」といっても何の不思議もない。「来世」ではなく「シエスタ」に注目して、最初からアンデスを想像すべきだったのかもしれない。
 でも、そうすると、「あんなふうに生涯を遅れたらなあ/という友人」というのは、どういうこと? あこがれの暮らしが南米・アンデスなら、「わたし」のあこがれとあまり差はない。
 いや、そうではないのだ、きっと。
 1、2連目は、アンデスのふもとのジャングル。そこでは男たちがハンモックで「シエスタ」をしている。南米だから、スペイン語。「友人」はその平地、ジャングルでの男たちの生涯にあこがれる。けれど、「わたし」は平地ではなく、アンデスの高地にあこがれる。コンドルの舞う空に近いアンデスに生きる男たちにあこがれる……。

 なんだか、どれが「正解」なのか、わからなくなる。
 わからないのだけれど、それでいいような感じがする。「いま/ここ」ではないどこか。アジアのインドでもいい。アンデスのインディオでもいい。ハンモックで昼寝をしているのもいいし、高地でじゃがいもを作っているのでもいい。どこであっても、そこにある「風景」と一体になって暮らせれば「幸せ」なのだ、と夢見る。
 そのとき「わたし」は「インドの男」なのか「インディオ」なのか、「友人」なのか「かれら」なのか--そういう「区別」はどうでもいいのだ。「区別」をしなくたっていい、というより、それは区別できないものなのかもしれない。
 区別されずに、ただ「一体」であること--そこに「幸せ」がある。区別されず「一体」であるとき、そこは「涼しくて風通しがよくて気持ちがいい場所」なのだ。
 「一体」になるために、ときには「主語」を放棄する、放棄してみるということも大切かもしれない。






エルヴィスが死んだ日の夜
中上 哲夫
書肆山田
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする