詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広瀬大志『激しい黒』

2013-03-28 23:59:59 | 詩集
広瀬大志『激しい黒』(思潮社、2013年03月25日発行)

 最初の詩「激しい雨(だったから死んだ)」は、どうやって書かれたのだろうか。どうやってつくられたのだろうか。ことばはどうやって動いたのだろうか。

持ち合わせている光景をすべて独り占めしたいから今日も。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。
「死だけが充分な広がりを持つ」朝のうちからまた動きだすのは欲望の尺度なのか教えて誰か。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。
だからどんどん先走っていくから追いつけないってそれでも。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。
おまえが知りたいと望んでいる真理は地面を見つめてばかりいるから天体を隠す夜を根絶やしにしてやろう。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。

 書き出しの行を引用してみたが、「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」がくりかえし出てくる。
 この行を広瀬はどうやって書いたか。
 これは、私にとってはとても重要なことがらである。私は、いまワープロで書いているが、昔は手書きだった。広瀬がいつから詩を書いているか、いつからワープロをつかっているか知らないが、手書きでは、こういうくりかえしはむずかしい。
 と、思う。
 同じことばを書くのに飽きるし、書いているうちに違うことを思いついて、同じ行を最後まで書くのが面倒くさくなる。はやく思いついたことを書いてしまいたい、書かないと忘れそうな気がしてくる。途中まで書いて、先に別の行を書いてしまうという「脱線」も起きる。
 少なくとも、私は手書きの場合は、こんなふうには書けない。
 そして、こういう詩を書くとき、私がワープロをつかうなら、その行を毎回手入力するということはない。コピー&ペーストで書いてしまう。いま、私が広瀬の詩を引用したとき、私はコピー&ペーストをつかった。
 で、そうすると、「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」という1行が、無機質になっていく。どんどん「無意味」になっていく。コピーされるたびに、稀薄になっていく。
 これでいいのかな?
 広瀬が同じことばをくりかえしたのは、そのことばを稀薄にするためだったのかな?

 ふつう、くりかえしは、ことばを濃密にする。大事だからこそ、何度でも同じことを言う。もう聞きました、と言われても、もう一回念を押すけれど……、という具合。
 で、念押しをするたびに、あ、あのことも言わなきゃ、このことも言わなきゃ……と思い出し、話がくどくどと長くなる。聞いている側にとっては、話し手が少しずつ思い出して追加してくることなんか、たいていさっき聞いたことのくりかえしにしか聞こえないのだけれどね。
 そして、そのだんだん長くなってくるくだくだしい「こと」のなかに、話し手の「人柄」のようなものがあふれてきて、「聞いたこと」と「その人」が「一体」になる。そういうことが起きる。

 さて。
 この広瀬の詩の場合は?
 うーん。
 私はわからないのである。
 「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」のあと、行は変わるのだけれど、それがほんとうに変わったのかわからない--と書いてしまうと、変な言い方になるが。「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」の前の行、後の行の接続と切断がわからないのである。

屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ意味。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ目的。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ屋根。
屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ雨。

 最後になって、一行に「意味/目的/屋根/雨」が追加される。その変化は、広瀬の「肉体」にとって、どんな影響があるのか。「肉体」のどこからそのことばが出てきたの。それがわからない。切断と接続の間に「肉体」を感じることができない。
 わからないのに、こういう言い方をしてしまうのは危険なのだけれど、どうも機械的にことばがコピー&ペーストされている感じがする。「屋根を直すと言って激しい雨だから死んだ。」を一行一行手書きしていたら、やはり同じことばの運動になったかなあ。

 ことばは、書かれるたびに(言われるたびに)、同じことばであっても違ってくる、と私は思っている。同じなのに違ってくるから、それにつづくことばも影響されて違ってくるのだが、それが違ってくることによって、あ、それは聞いた。同じことだ。という感想も生まれる。人間の考える「こと」は、どんなにことばが違っても同じ、という「矛盾」がそのときに噴出し、その矛盾を生きるのが人間だということがわかる。「ことば」が違っても「肉体」にできることは違わない、「肉体」にできることは同じという、変な生き物が人間なのだ。
 同じは違うであり、違うは同じなのだ。
 この矛盾が、コピー&ペーストでは機能しない。同じはあくまで同じ。違うはあくまで違うのまま。そうすると、そこには「並列」だけがのこる。「並列」という「分離」だけがのこる。そして「並列の分離」は広がりになるかというと、「広がり」にもならない。
 別な言い方をすると、AとBが「並列」している。その数はどれだけ増えようとAとBがある、と言ってしまえばおしまい。その「並列」が50か49か、あるいは10000 か9999かは、「頭」では一瞬のうちに「違い」として提出できるけれど、「肉体」にはそれができない--つまり「違い」にならない、という問題が起きる。そして、「頭」で10000 と9999が「正確」に識別できるから、そこにある「違い」を「肉体」にまで影響のあるものにできるかというと、--うーん、私は、そんなむちゃくちゃな、と思ってしまうのである。

 うまく言えないのだが、うーん、広瀬は「頭」がいい人間なのだろうなあ、と思う。その「頭」の世界に、私はついていけないなあと感じる。コピー&ペーストに、「肉体」がついていけない。
 引用するときもそうだが、詩を読むときもおなじなのだ。私の「肉体」のなかで「省略」が起きてしまう。「省略」されないものだけが詩なのに。目が「省略」するだけではなく、「のど」も「耳」も「省略」してしまう。ずぼらになってしまう。それは私には「いのち」の省略にも思える。

 で、こういう作品を読んだ後、

私の一人は6月9日の朝9時少しまわった時刻にふじみ野駅前の
路上にて死んだ鳩の頭を踏む(ぐしゃり)
私の一人は何年首をのばせば把手に届くだろうと
のんびり考えている(ぐしゃり)
私の一人は絞首索結びに縮みあがる影嚢の方に興味を持ちつつ
驚いて足をあげる(ぐしゃり)
                        (回走のオペレーション意象」)

 という魅力的な行を読んでも、こにあるのはほんとうに「肉体」かなあ、と思ってしまう。「頭」でつくりだした「肉体」なのかもしれないなあ、と。
 「頭」で「肉体」がつくりだされたって悪いわけではないし、それはそれでおもしろいと思うのだけれど--実際(?)、「私の一人は……」の数行は書き出しのバリエーションなのだから「頭」がつくりだしたものと言っていいものなのかもしれないけれど。たとえ「頭」がつくりだしたものであっても、それが「頭」という印象を与えないか、逆に、えっ「頭の肉体」って、こんな具合に動くのかと感じさせてくれるといいのだけれど。ここでは、私は少しだけ「頭が押し広げていく肉体(頭が拡大した肉体/頭と肉体がいったいになったあり方)」ってこうなのか、と思い、わくわくしたのだけれど。


激しい黒
広瀬 大志
思潮社
コメント
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