詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山口洋子『魔法の液体』(2)

2013-03-12 23:59:59 | 詩集
山口洋子『魔法の液体』(2)(思潮社、2013年02月28日発行)

 山口洋子の不思議な「素直」は「鴉」という作品にも感じられる。

アッアッア
きみの木の下
背中の耳でカ行のない鳴き声をききながら
なぜかきみをオスだときめ
草を抜き小石をひろい畝をつくる
鴉はカアではないか
逃げない鴉
わたしの身体の内側には
いつのまにか出来てしまって消えない
金属光りした黒色の
きみの嘴や羽がぴったりはまりこめる鋳型がある
アッアッア

 畑仕事をしていたらカラスが鳴く。「カア」ではな「アッアッア」と聞こえる。変だと思う。山口の肉体はカラスは「カア」と鳴くと「覚えている」。それは「鋳型」になってしまっている。まあ、これは、たいていのひとの「鋳型」であるのだけれど。金属のように光る黒い嘴と羽も。
 で、たとえそれが「アッアッア」と聞こえたとしても、たかがカラスの鳴き声。「カアカアカア」と「鋳型」にはめ込んで描写してしまったって誰も困らないのだけれど、山口はそうしない。
 そこに、山口のもうひとつの「素直」がある。
 「他人」をありのままに受け入れるだけではなく、自分の肉体が感じていることも「ありのまま」に受け入れる。そういう「素直」がある。「アッアッアッ」と聞こえるから「アッアッア」と「ありのまま」ことばにする。
 でもね、そういうふうに「ありのまま」を受け入れることは……。

アッアッア
気を引かせる
わたしは振りむかない
曖昧ないい顔はみせない
見上げればまっすぐに飛び込んでくるだろう
ぬるり濡れ羽色の
芯のみえない
わたしは 鴉になる
------
のは
いやだ

 「アッアッア」を「ありのまま」受け入れれば、それは、山口が「新しいカラス(アッアッアと鳴くカラス)」になってしまうことだ。いや、人間がカラスになるということはないから、それは「方便(比喩)」なのだが、方便であっても、言ってしまうとそれが「事実」にすりかわってしまうことがある。ことばは方便を「事実」にしてしまうことがある。「さっきそういったじゃないか」と批判の「言質」を取られるようなものだ。それはいやだな、と山口は言う。
 素直になると、それはときどき、自分が自分でなくなるということを引き起こしてしまう。それは、困る。いやだなあ。カラスになるより人間でいたい。詩人でいたい。
 で、このときの「身体の内側に」ある「鋳型」、それからその鋳型(つまり身体の内側)に飛び込んでくる--という具合に、山口は「ことば(比喩)」を「身体」の問題としてとらえているところが、私にはとてもおもしろく感じられる。
 ことばを意識の問題ではなく「身体」の問題と考えているから、「アッアッア」という声を「ありのまま」受け入れると、つまり「カア」ではなく「アッアッア」という変化を受け入れると、「身体」そのものがカラスになってしまうという感じになる。だから、いや、という。それは単なる「音の認識」ではないのである。
 「カア」と聞こえるか「アッアッア」と聞こえるかを「身体」の問題と考えるのは、山口の「身体」が「素直」だからである。
 この「素直」は、ちょっとうろたえる。反抗する。その最終連も、とてもおもしろい。

唖唖 烏乎 嗚呼
文字が鳴く
ア行でいきているきみがひどく偉く思え
カアだと思っているのはわたしだけなのか
きみはそのうちニャアと話しかけてきたりして
人語(ひとご)のひとつも創れない
越すに越せない
鴉よ
アッアッア
せっつくのはやめろ
やっぱり
脇目も振らず カアッと
カアッと

 カラスが「ニャア」と鳴くことはない。ここにはナンセンス(無意味)がある。牛がウグイスの声で鳴いたというのは「ほんとかなあ」に似ている。ほんともなにも、そんなことはありえない。で、そのナンセンスを利用して、つまり、「アッアッア」というのは単なる表記の問題だから、どうということはないのだ、無意味なことなのだとふりきろうとするのだが。
 もしかして「アッアッア」というのはカラスのつくりだした「うそ(ほんとうではない/方便)」であり、「方便」であるなら、カラスがニャアという鳴き声つくりだしても問題ではないのだし。
 カラスでさえ、そういうもの、山口が知らなかったものをつくりだせるのに、山口は人間のことばとしての「うそ(きみは体に川を飼っている、とういようなことば/うそ/方便)」つくりだせないでいる。造語能力として、カラスに負けている。
 それはまるでカラスに、ほら詩をつくってみろ、しゃれたことばを書いてみろとせっつかれているようなものである。それがいやならカラスになって「アッアッア」と鳴け。
 ああ、いやだ。カラスが「カア」ときまりきったことばで鳴きさえすれば山口は詩人にもどれるのに--と書いているわけではないが、そういうようなことを思っている、と言えば言い過ぎになるのだろうか。
 まあ、そうかもしれないが。
 あるいはカラスが「ニャア」と鳴けば、また違ったふうに動いていけるのに。そう思っているのかもしれない。
 ここにナンセンス(無意味)と素直(正直)のぶつかりあいのようなものがあって、それがとてもおもしろい。
 これはきのう書いた日記の書き出しにもどってしまうけれど、私が「わかっている」(と思い込んでいること)を書こうとすると、どんどん複雑になり、何も説明できないことになってしまうということろへはまり込んでしまう。
 たぶん。
 あ、ここがおかしい。ナンセンスだ、と笑ってしまえばよかったのだろうなあ。









魔法の液体
山口 洋子
思潮社
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ミヒャエル・ハネケ監督「愛、アムール」(★★)

2013-03-12 10:44:04 | 映画

監督 ミヒャエル・ハネケ 出演 ジャン・ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァ、イザベル・ユペール

 ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」「白いリボン」は好きだが。人間の本能のようなものをさらしだしてみせる強さがある。
 今回の「愛、アムール」は好きになれない。老老介護に疲れたからなのか、あるいは愛ゆえに、愛する妻の苦しみをこれ以上見ることに耐えられなくなったのか。そのどちらも「本能」の行動なのだが。
 うーん。
 私は、エマニュエル・リヴァの、この映画での演技が、一か所を覗いて、嫌いだ。そういう演技をさせてしまったハネケが嫌いだ。脳の血管の障碍、手術後の後遺症。その、病人の姿をそのままなぞった演技が、気に食わない。半身不随から言語障碍へと進行していき、寝たきりで介護を受ける。その、なまなましい演技が好きになれない。まるでほんとうの病気の人である。その迫真(?)の演技は、まるで演技ではなく、ほんもの、という印象を与える。その場で病人の姿を見ているような苦しさ、切なさがある。だから、それは「うまい演技」なのかもしれないけれど。
 うーん。
 違うなあ。
 映画はストーリーを見ると同時に役者を見るものである。ストーリーに役者が隠れてしまう(役だけを演じてしまう)映画というのは、私は、どこか「間違っている」と感じてしまう。「ほんもの」に見えてしまう演技というのは「間違っている」と思う。
 この映画の対極にある映画、たとえばクエンティン・タランティーノ監督「ジャンゴ 繋がれざる者」。私はストーリーを見るというよりも、役者を見ている。サミュエル・L・ジャクソンがほんとうはどういう人間か知らないが、そこで黒人差別主義の黒人を演じている。あ、サミュエル・L・ジャクソンって、こんなに愚かな、こんなにひどい男なのだと思い、あきれて、笑ってしまう。これはサミュエル・L・ジャクソン本人に対する「誤解」というものだろうが、そういう「誤解」をさせてくれるのが「演技」というものである。だから、「ジャンゴ」について書いたときに触れたのだが、ディカプリオのストーリーのクライマックスでの「迫真の演技(真剣な演技)」は、いただけない。えっ、ディカプリオってこんな男だった?と思わせてくれない。そこには、演じられた「役」のキャラクターしかない。そのキャラクターがディカプリオそのものになっていない。「役」に乗っ取られて、「役」を突き破っていかない。「ほんもの」が出てこない。--この「ほんもの」というのは、ほんとうのディカプリオというのではなく、偽物であっていい。偽物なのに、えっ、こいつ、こんな男かという「人間」の本質みたいなものがディカプリオの顔をして出てこないと映画はおもしろくない。クリストフ・ヴァルツという人間はどういう人間なのか、私はもちろん知らないけれど、映画を見ていると、「役」ではなく、瞬間的に「なま」の人間を見ているような感じになる。そういうのが、「演技」というものだと思う。それをみせるのが「役者」だと思う。ふつうの人がもっていない「顔」をもっている人間の特権だと思う。
 あ、私はどうも「愛、アムール」について書きたくないらしい。ほんとうに、いやな映画だ。まあ、そういう「いやな」感覚を呼び覚ます--というのが今回の映画の狙いだとすれば、それはそれでハネケらしい仕事と言えるのかもしれないけれど。
 エマニュエル・リヴァの演技は大嫌いだけれど。一か所だけ。あ、ここはすごいと思ったのが、ジャン・ルイ・トランティニャンから果物をすりつぶしたものをスプーンで食べさせてもらうシーン。最初の一杯はトランティニャンがなれていなくて、うまく食べさせられないのだが、2杯目を促すとき、目の輝きが一瞬かわる。「さあ、食べさせて」と誘うような、「食べたいのよ」と訴えるような目をする。こんな流動食なんかいやだ、という気持ちを突き破って、胃袋が反応し、それが目の輝き、トランティニャンを見つめるまっすぐな力になる、その一瞬。あっ、と思わず声がでそうになる。その欲望の目は、その一瞬だけで、次からはまた拒絶の目になるのだが。--なんというか、「間違えた」ように輝く目の、その「間違いようのない本能」のような瞬間が、私を貫く。
 エマニュエル・リヴァがほんとうにしたいことは何なのだろう。彼女の肉体がほんとうに欲求しているのは何なのだろう。そしてそれは精神とどんな具合に闘っているのか。そのことを考えさせてくれる。そういう意味では、あの一瞬の目の輝きだけで「主演女優賞」に値するとは思うけれど。
 他のシーンが、あまりにも「精神的」すぎる。「心理的」すぎる。肉体を見ている感じがしない。「苦悩」そのものを見せつけられている感じがする。その苦悩がだんだんトランティニャンを侵蝕していくというのは、まあ、とてもよくわかるけれど。その分、役者の特権、肉体的特権というものが映画では否定されて、あまりうれしくない。
 --というような視線で見てはいけない映画なのかもしれないけれどね。
     (2013年03月10日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3)

 10日、ユナイテッドシネマで14時すぎからの3D映画を見る予定だった、誰かさん、見ることができましたか? 券売機のなかにチケット(2000円)が残ったままだった。劇場のひとにチケットを預けたのだけれど。








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