詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田由紀乃「沈丁花」

2013-03-07 23:59:59 | 現代詩講座
山田由紀乃「沈丁花」(「現代詩講座@リードカフェ」2013年02月18日)

 2月の「現代詩講座」は「チャタレー夫人」を50ページまで読んで、そこからインスピレーションを得たものを書いてみよう、というのがテーマ。もともと「詩は嘘つき。嘘を書いてみよう」ということを出発しているのだが、なかなか「嘘」を書きにくいようなので、わざとそういうテーマにしてみたのだが。
 山田由紀乃「沈丁花」は50ページまでのどの行を利用したのか、よくわからないが、次のような作品。

沈丁花の香りがたちこめていた
バス停のベンチにとても老いた女(ひと)が掛けていた
わたしが横に掛けたとき
悲痛な寒々としたため息がそのひとからもれた

身体の内というよりも
命の内側の底から
吐き出されたもののように
わたしには聞こえた
バスが来てそのひとはステップを上がった

残ったわたしの足元にさっきのため息が
お婆さんの雛形のような姿で歩きだした
わたしはつい後を追っていた

川のほとりに明るむ窓が見えた
廃材を集めて組み立てたような家の造りの
壁も窓も温もりがある
「ただいま ここに帰ってくれば身も心も幸福になる
ねえ あなた」

男はうんうんとうなずいて
ここにも沈丁花の香りがたちこめている

 わからないところもある--というより、わからないところだらけなのだが、「わかる」。特に3連目が「わかる」。
 「残ったわたしの足元にさっきのため息が/お婆さんの雛形のような姿で歩きだした」というのは、文法的には変である。変なのだけれど……ベンチにいっしょに腰かけていた女がバスに乗って去っていく。ベンチに残ったわたしの足元にため息が「残っている」。そして、そのため息がお婆さんのような形で歩きだした、と知らず知らずのうちに読んでいる。「残った」ため息と、「残ったわたし」が奇妙な形で交錯し、重なる。
 で、歩き出したのが「ため息」なのか、それとも「わたし」なのか、よく「わからない」。でも、「わたし」がその「ため息」の後を追ったということが「わかる」。追っているうちに、「わたし」はより「ため息」に近づいたかもしれない。
 こういう「主語」の混同が、私は好きである。その「主語」の混同(融合)に私自身がのみこまれていく。そんな感じがする。
 そして、そういう「主語」の融合の後で、ほら、

川のほとりに明るむ窓が見えた

 という行が出てきたとき、それは「わたし(山田)」が見たのか、「ため息お婆さん」が見たのか、わからない。「ただいま」と言ったのは、「ためいきお婆さん」ではなく「わたし」のように思えてしまう。廃材の家に温もりを感じているのは「ため息お婆さん」ではなく「わたし」に思える。
 男がうんうんとうなずいているのを見ているのは「ため息お婆さん」ではなく「わたし」のように思える。それがたとえ「ため息お婆さん」の連れ合いの男だとしても、「わたし」の男のように見える。
 なぜ、そういうことが起きるかというと。
 そこには「こと」があるからだね。「もの」ではなく「こと」がある。
 外から帰る、家に帰るという「こと」がある。「家に帰ること」は「ため息お婆さん」にも「わたし」にも共通する「こと」である。そして帰ったら「ただいま」という「こと」も共通する。男がそれに「うんうんとうなずく」という「こと」も共通する。
 「こと」が共通すると、そこには「わたし」が紛れ込むのである。その「こと」をしているのは誰かであると同時に「わたし」である。「わたし」の「肉体」が覚えている「こと」が重なり、主語をすりかえる。
 これは、3連目から突然動きだしたものではない。
 1連目から始まっている。バス停でお婆さんが腰かけている。横に座ると、ため息が聞こえる。それは「そのひとからもれた」のだけれど、それを聞いた瞬間、「わたし」も同じため息をもらしたという「こと」を思い出す。ため息をもらした「こと」がなければ、他人がため息をもらしても、それに対して人は反応はしない。すくなくとも、「悲痛な寒々とした」という印象はもたない。
 それは、私がいつも書く例でいえば、道で誰かが倒れて腹を抱えて呻いている。それを見ると、あ、この人は腹が痛いのだと思う。自分の腹が痛いわけではないのに、それがわかる。それは自分も腹が痛いという「こと」を体験し、肉体がそれを覚えているからだ。「うんうん」は痛い。「腹を抱える」は痛い。
 --そして、ある種のため息は「悲痛」であり、「寒々としている」。それは「悲痛」で「寒々しい」ため息をもらした「こと」があるから、自然に感じ取ってしまうのだ。ことばでお婆さんが「悲痛」だと言ったわけではない。「寒々しい」と言ったわけではない。けれど「肉体」はそれをわかってしまう。そして「わかった」ときから、二人は二人でありながら「ひとり」である。「ひとり」であるからこそ、そこに残った「ため息」を吸い込んで、「ため息お婆さん」になって歩いていくのである。
 そして「ため息」をついていたのだけれど、わが家で「ただいま」と声を掛ければ、そのときから「わたし」は「ため息お婆さん」であるだけではなく、その帰りを待っていた男にもなる。
 ここに書かれていることは「ため息」のつらさなのかもしれないが、それと矛盾する「あたたかさ」もある。それが不思議な主語の「融合」によって、知らず知らずに生まれている。あ、これが「いきる」ということかなあ……。
 そんな感じになる。

 ところで、この詩は、きのう読んだ広瀬弓の詩ではないけれど、ほんとうはまだつづきがある。あと2連ある。それは、山田が「この詩はほんとうにあったこと」というふうに説明したけれど……。うーん。「ほんとう」かどうかは、意味がない。そこに書かれていることに、読者が「一体感」を覚えれば、それは「ほんとう」。「一体感」が消えれば、それが「ほんとう」だとしても作り物。
 「説明」や「補足」を、断ち切ってしまった方が、「ほんとう」は動きはじめる。「肉体」のなかに入ってきて、読者の「肉体」が「覚えていること」を動かす。

 もし、このあとにあと2連書くとしたら、どんな具合にことばを動かすか。そういうことを考えると、そこからまた詩が始まるかもしれない。



 次回の「現代詩講座@ブックカフェ」も「チャタレー夫人の恋人」のつづき。チャタレー夫人になるのもいいし、森番になるのもいいし、一本の木、木漏れ日になってみるのもいい。どんな「こと」のなかに自分の「こと」を重ねて世界をつかみ取るか。そこで書かれることは「嘘」を出発点としているが、どうしても「ほんとう」が出てくる瞬間がある。そこが、きっとおもしろい。






詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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