詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山口洋子『魔法の液体』

2013-03-11 23:59:59 | 詩集
山口洋子『魔法の液体』(思潮社、2013年02月28日発行)

 すぐれた詩には、どんな詩にも何か言い換えのきかないことばというものがある。そのことば自体は知っていることばであるし、「意味」はわかるのだが、その「わかる」を具体的に言おうとするとつまずいてしまう。ことばが、作品全体を貫いていて、「意味」をはっきり特定しようとすると、複雑で、何がわかっているかを説明できないのである。
 山口洋子『魔法の液体』の「ひまわり」にもそういうことばがある。

なんだか顔の奥が重い
だんだんうなだれて行く
わたしの凋落はとても素直にはじまる

 ひまわりが盛りを過ぎて枯れていく--その様子をひまわりになって、ひまわりから書いているのだが……。「素直に」。これが、この詩の「わかる」けれど「わからない」、「わからない」けれど「わかる」ことば。キーワードだ。
 「素直に」はというのは、枯れていくことに「抵抗せずに」かもしれない。「どたばたせずに」かもしれない。「あきらめたように」かなあ。「すべてを受け入れる」かなあ。それって、「あきらめて」ではなく「納得」ということかなあ……。
 「意味」を特定しようとすると、「わからない」のだが、花が盛りを過ぎて枯れていくのはあたりまえのことであり、「素直に」もなにもないよなあ。
 だから、これは「ありのままに」ということかなあ。

すごしやすくなった
ひとはそんなことばを交わし
ほんの少しまえ
いくどもカメラを向けられ
飛びっ切りのスマイルで応え
パラソルの女性たちや黄色いこえではしゃぐこどもたちを
それはよいきもちで
ぐっと高いところから眺めては
自信に満ちあふれていた
そう わたしはサンフラワー
太陽が大好き
夏が大好き
だが
わたしの凋落はとても素直にすすむ
すっかりうなだれ立ち枯れる
縮れた葉は震えはしない
わたしの顔で遊んだチョウはもう来ない あんなに
わたしをつついたスズメはもうむこう
金色の波に楽しんでいる
わたしは棒
褐色の棒

 盛りのころのひまわりの姿がいきいきと見えてくる。ひまわりが感じているであろうこころもくっきり見えてくる。秋になると枯れていくひまわりの姿がとても自然に浮かんでくる。そして、そのなかに「素直に」だけが、独特の感じで動いている。生きている。全体のことばをひきしめて、紙にはりつかせている。本に食い込んでいる。
 これが、詩、なのだ。
 「とても」と強調しているのもいいなあ。
 この詩から、「わたしの凋落はとても素直にはじまる」と「わたしの凋落はとても素直にすすむ」という2行を省略しても、豪華だったひまわりが枯れていくという「物語」にかわりはない。けれど、その2行、そして「素直に」がないと、この作品は詩にはならない。単なる「擬人法」のことばの動きにすぎないものになる。
 「素直に」には擬人法を超えるものがある。
 「素直に」は比喩のようであって、比喩ではない。比喩を超えて……。「ありのまま」なのだ。「比喩ではない」を逆の言い方で言うと「ありのまま」になるから、とりあえず、そう言うしかない。「ありのまま」というのは……。山口とひまわりが「一体」になって、そこに「ある」ということ。それを、「ありのまま」つかみとっている。何もまじえず、つまり比喩を経由しないで、じかにつかみとっている。
 「ありのまま」とは直接性なのだ。

 でも、この「ありのまま」の定義は、これでいいのなかなあ。よくわからない。うまく言えない。どう説明していいかわからないが、「ありのまま」なのだと思う。「ありのまま」とは説明できないもの、説明のまじっていないもの……。
 それは、ちょっと「俳句」の「ありのまま」に似ている。世界がひとつに結晶して、「ありのまま」にある。その「ありのまま」を見た感じ。
 あ、これでは何も言っていることにならないね。同じことばを繰り返しているだけだ。
 どう言いなおせばいいのだろう。
 そう思っているとき、もう一篇、なんとも不思議な感じのことばにであった。「素直に」と同じような、ごくありふれたことばなのだが。
 「川おと」という作品。

きみは体に川を飼っている
と もっぱらのうわさ
川は流れつづけて
南へ流れて
南のさきで海につづいて
だからきみのこころは綺麗さっぱりからっぽだ

 と、とても魅力的に、それこそ「詩」という感じでことばが動いていく。ことばの動きにしたがって「意味」も動いていくように見える。読む先から、新しい何かを見ている感じになるね。
 でも、私がびっくりしたのは、この書き出しではない。

というのはうそだろう

 と、この詩は、いま書いたことを「うそ」と呼ぶ。ひっくりかえしてしまう。--ここにびっくりしたのでもない。
 そのあとの展開。

その川は大きくて広くて
とうとうとして
牛の太郎が
浅瀬で
きみに
背中をあらってもらい
太郎は不覚にも
ほーほーけきょけよって鳴いたんだってね
ほんとかなあ
そういえば
夏には鮎がおどりはねるんだって

 「ほんとかなあ」にびっくりした。
 「ほんとう」であるはずがない。牛が「ほーほーけきょけよって鳴いた」というのは「うそ」である。
 「きみ」の体のなかに川があって、それは流れつづけているので、きみのこころは空っぽだというのは「比喩」であり、「比喩」であるから「ほんとうではない」という以上に「うそ」である。「比喩」には、何かしらの「願い(夢)」のようなものがあり、そういう「夢」を見る「気持ち」そのものには「うそ」はない。そういう「気持ち」の「ほんとう」にささえられて「比喩」は動いている。
 でも牛がウグイスの声で鳴くというは「うそ」というより「間違い」。つまり「ほんとう」ではない。
 それなのに、「ほんとかなあ」という。
 ここに不思議な「素直」がある。前半の「比喩」のことばを叩き壊してしまうまっすぐな力がある。前半の「比喩」なんて(ことばがつくりだすストーリーなんて)、牛がほーほーけきょけよと鳴くというのとたいして違っていないと断言する乱暴な「素直」さがある。つまり……。ことばにしてしまえば、それは全部「うそ」。「ほんとう」はことばとは無関係に、「いま/ここ」にある「もの」のなかにある。「うそ(ほんものではない)」である「ことば」によって「きみは体に川を飼っている」というのも、牛がウグイスのように鳴くというのも同じことばの運動。「川を飼っている」のほうは何かこころを刺戟するセンチメンタルな「意味」を浮かび上がらせるのに対して、牛がウグイスの声で鳴くというのは「意味」を浮かび上がらせないというだけ。

 で、それは、ちょっと引き返してみるとまた別なことも教えてくれる。
 牛がウグイスのように鳴くというのは「うそ」はいうよりも「間違い」と、私はさっき書いたのだけれど。
 体のなかを川が流れている、そしてそのためにこころが空っぽになるというのは「間違い」ではないけれど、「うそ」。「うそ」をとおしてしか言えない「ほんとう」のことを言うための「うそ」。言い方をかえると、感動を引き出すための「虚構(ほんとうではない/うそ)」。つまり、方便。そこには「素直」とは別の何かが働いている。「わざと」が働いている。
 牛がウグイスのように鳴くというのも「わざと」言われた「うそ」には違いないだろうけれど、それは何かを暗示させるための「うそ(比喩)」ではない。そこには「意味」という「意図」がない。体のなかを川が流れている、そしてそのためにこころが空っぽになるには、センチメンタルな「意味」をつくりだすという「意図」がある。でも牛がウグイスのように鳴くは「無意味」。
 「無意味」は、素直。--というのは、私の直感の意見であり、ほかにもっとそれにふさわしい言い方があるのかもしれないけれど。
 「無意味」というより「意味」になることを拒んだ清潔な感じといえばいいのかな。「意味」なんかいらない。ただ「ありのまま」で十分。そういう感じを思い起こさせる何か。それが強烈な「素直」になって私にぶつかってくる。いいなあ。思わず、私はうなってしまう。







魔法の液体
山口 洋子
思潮社
コメント
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