詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「詩のつづきにいると」

2013-03-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「詩のつづきにいると」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)

 ときどき、感想なんかいらない、ただ好きといってしまえばいいという詩に出会う。「好きな人」を見つけたときのようなものだ。なぜ好きかなんて、わからない。突然、あ、このひとが好き、好きでたまらないというのと似ている。松岡政則「詩のつづきにいると」はそういう作品である。くさのさなえの『キルギスの帽子』を読み、そのなかの一篇「村の一角」を読んだあとのことを書いている。松岡はくさのの詩が好きになり、私はくさのの詩が好きになった松岡の詩が好きになってこの文章を書いているのだが……。あ、ごっちゃになってしまいそう。--で、松岡にもどって、松岡がどんなふうにくさのが好きかというと。

「村の一角」のつづきを夢想する
みっつ先のバス停でのりこみ
くさのさなえのななめうしろに坐る
ビシュケク行きの小型バス
キルギス人もウズベク人も
かおを背けたまま押し黙っている
うしろでヒソヒソやっているのはウルグイ人の母娘
車窓に点在するユルタがながれ
ヒツジやヤクの群れがながれ
ユーラシア大陸のど真ん中
バスにゆれるに任せて訊いてみる
アクタン・アリム・クバト監督の『明りを灯す人』を観た?
くさのさなえは黙っている
ふり向きもしない
眉のあたりがなんだこいつ、という感じ
そうやって詩のつづきにいると
もうどんな自分でもかまわない、と思えてくる

 このとき、松岡は「いま/ここ」にいない。そして、くさのさなえのいる「あの時/その場所」にいるのでもない。どこにいるかというと、「つづき」にいる。くさのの書かなかった「つづき」を勝手につくって、そこにいる。「つづき」とは「つながること」であり、その「つながり」を延長することは、新しい「いま/ここ」をつくりだしていくことである。
 松岡は勝手に、新しい「いま/ここ=つづき(未来)」をつくりだしている。それは、好きな人に出会ったとき、その人がどういう過去を持っていて、これからどういう時間を生きていくつもりなのかなどということは無視して、勝手に未来を「妄想」するのに似ている。この人といっしょなら、あれをして、これをして、それから……。それは「独りよがり」かもしれないけれど、瞬間的に、そういうことを思うことがあるね。
 で、そういう「独りよがり」は、相手のことを無視しているのだけれど、それがさらに高じてくると、

もうどんな自分でもかまわない、

 というところまで行ってしまう。相手がどうなるかだけではなく、自分がどうなってもかまわない。松岡はくさのが好きなのだから、くさのといっしょにいるなら自分がどうなってもかまわない、ということろまで行ってしまう。ただ「つづくこと=つづき」、「つながっていること=つづき」が大事なのである。「つながり」のなかに「つづき」があるのだから、そしてその「つづき」だけが大事なのだから、つながっている端っこ(?)の存在なんて、どういう姿でもいい。
 だいたいくさのの乗っているバスに先回りして、みっつ先のバス停で乗り込むなんていう「超ストーカー」をやっているのである。もうすでに松岡は昔の松岡ではない。「どんな自分でもかまわない」どころか、もう「どんな自分かもわからない」。それでもいいのだ。どんな自分になったって「つづき=つながり」があるだけではなく、その「つづき=つながり」があれば、松岡は松岡として「つづき=つながり」のなかにいる。
 こういう「つづき=つながり」はどんどん増幅する。
 くさのといっしょにいると、そのバスに知らない人が次々に乗ってくる。それは知らない人だけれど、くさのといっしょにいるからくさのの知り合いであり、くさのの知り合いなら松岡の知り合いなのだ。つづいている。つながっている。バスの窓から見えるヒツジやヤクさえも、くさのの知り合い(よく知っている動物)であり、当然、松岡だって、ヒツジやヤクの一匹一匹と友達である。
 バスに乗り込んでからの、描写のスピード(登場人物や登場する動物の変化のスピード)が、そのことを語っている。ぱっとでてきて、何の説明もないまま、それで完全に「つづき=つながり」となってしまう。どんなにスピードを加速しても離ればなれにならず、逆に強く接触してくる感じ。強く強くつながる感じ。「顔を背けて押し黙っている」人にさえ、その人の感じていることは、松岡のこころに「つながる=つづく」。みんな、知っている人なのだから。一度も会ったことがなくても、その土地を知っていれば、つまり土地で「つながる」ならば、その人の感じていることはわかる。
 いいなあ、人が次々にかわりながらつづく、この超スピード。その土地の「いま/ここ」に直に触れている。くさのに、直に触れている。直にふれているので「なんだこいつ」という反応にさえよろこびを感じる。直にふれていないひとの思いはわからないものだからね。「つながる」と「つづく」が同義のものであることが、一体であることがよくわかる。
 などと思っていると。うーん、これでは、ますます「ストーカー」的な「独りよがり」の世界になってしまうか。
 でも、かまわない。
 と、思っていると、この詩には最後に注釈があって、

*「村の一角」はインドの村と思われるが、かまうことはないキルギスにした。

 あ、松岡さん、だめ(私はここで、大笑いをしてしまう。)「かまうことはない」はだめ。絶対に、だめ。かまってください。(笑いが止まらない。)
 「だめ」と言いながら、私は大笑いしながら共感してしまう。
 いいんです。かまうことはない。絶対に、かまうことはない。好きになったんだから、何をしたっていい。くさのが抗議をしてこようが、関係がない。「キルギス」と「誤読」することでしか到達できないものがある。その「誤読」は、くさのにとっては「誤読」かもしれないが、松岡自身にとっては絶対的に正しい本能の選択である。本能に間違いなんて、ない。
 で、本能に間違いがないからこそ、人間の暮らしってたいへんなんだけれどね。
 ほら、いくら松岡がくさのが大好きであっても、くさのは「なんだこいつ」と思うだけかもしれないからね。
 それでもいい。「誤読」すればいい。「誤読」のなかには直感の、頭を潜り抜けない肉体の「ほんとう」がある。「ほんとう」と「ほんのう」は一音違うが、こんなものはことばの「訛り」であって、「意味」は同じである。それが「ほんとう」であるかぎり、それは通じる。「なんだこいつ」という反応だって、松岡の「ほんとう」を本能的に感じるから「なんだこいつ」という反応になるのである。「ほんとう」がぜんぜん感じられなかったら、そういう反応はない。
 応援します。このまま、どんどん「つづけて」ください。ことばのセックスで何度でも何度でも絶頂までのぼりつめて、何度でも果ててください。絶倫を発揮してください。がんばってください。









口福台灣食堂紀行
松岡 政則
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ロバート・ゼメキス監督「フライト」(★★★)

2013-03-16 11:16:17 | 映画


監督 ロバート・ゼメキス 出演 デンゼル・ワシントン、ドン・チードル、ケリー・ライリー

 映画がはじまってすぐデンゼル・ワシントンの朝の様子と、ケリー・ライリーの様子が交互に描かれる。ケリー・ライリーの方は薬物中毒で、ドラッグをもとめて知人を訪ねていくのだが……うーん、これって見え透いた「伏線」。きっとデンゼル・ワシントンと出会い、中毒(依存症)から社会復帰をめざすんだな、と思っていると、その通りになる。まあ、最初の出会いは緊急着陸で負傷したデンゼル・ワシントンと、中毒のため死にそうになり搬送されたケリー・ライリーが病院で出会うのだけれど。
 何か、見え透いたストーリー展開がいやだなあ、と思っていたんだけれど。何度も立ち直りそうになりながら、またアルコールに溺れるが繰り返される。最初はケリー・ライリーの方が深刻なのだけれど、彼女が先に立ち直り、デンゼル・ワシントンをささえる。それが目に見えている。そのいやな印象の原因(?)ような、ケリー・ライリーが消えてから、映画がほんとうに動きだす。デンゼル・ワシントンがほんとうに演技をしはじめる。二人が出ているあいだは、薬物中毒とアルコール依存症の、どうしようもない感じの映画なのだけれど。
 ひとりでアルコール依存症を隠し、また事故が起きたときの飲酒を隠そうと、あれこれ手をまわしという、だらしない男を延々と型通りに演じたあと、いったん断酒し、けれどもついついホテルのミニバーのアルコールに手を出して。審査会を乗り切るために、ドラッグで覚醒して。という、さらにとんでもない役どころを演じたあと。
 審査会で飛行機の機体の整備ミスがはっきりしたあと、飛行機のなかでアルコールを飲んだのか飲まないのか問われ。死んだ女性アテンダントがアルコール依存症で治療を受けたことがあるというような「事実」があきらかになって。飛行機内で見つかったアルコールの空瓶、それを飲んだのはデンゼル・ワシントンではなく彼女だと言い逃れることができるように「お膳立て」がととのったところで。
 彼女はシートベルトから外れた少年を助けるために活動し、その結果死んだのだということを思い出し、アルコールを飲んだのは彼女ではなく、自分だと「告白」する。このクライマックスがなかなかいい。自分のせいではない、とデンゼル・ワシントンはいいたいのだが、かといって、そういうためにだれかに「罪」をなすりつけることができない。女性アテンダントがアルコールをのんでいたとしても飛行機の事故とは関係がないから、それは「罪」のなすりつけにならないのだけれど、「罪」のなすりつけにならないからこそ、デンゼル・ワシントンには、それができない。のんでいないという「嘘」をつくだけではなく、彼女がのんだという嘘になってしまうからだ。
 自分が嘘をつくのはいいけれど、その嘘のためにだれかに嘘を背負わせることはできない--というのは、正直なのか。あるいは、それは人間として弱いのか。あるいは強いのか。考えると、ちょっと、ややこしい。どっちでも、いい。そのとき、デンゼル・ワシントンが、何かふっきれたように透明になる。その感じがなかなかよかった。
 で、この映画--さらにいいのは、このあとケリー・ライリーが出てこないこと。セスナで外国へ逃げようと持ちかけられた翌朝、デンゼル・ワシントンに愛想をつかして出ていく。その彼女が、最後にでてきてデンゼル・ワシントンと再会し、彼をささえるというようなことをしないこと。前半のエピソードでおしまい、ということ。
 で。
 これは矛盾した言い方になるかもしれないけれど、そういう展開ができるのなら、最初からケリー・ライリーは出すべきではなかった。彼女がいることによって、デンゼル・ワシントンの抱えているアルコール依存症の問題、その生活がどんなふうに他人に影響を与え、また彼自身を複雑したかが、明確にならない。間接的になってしまう。ケリー・ライリーをとおして、デンゼル・ワシントンの「過去」が明らかになるのであって、その「過去」のなかではデンゼル・ワシントンは苦悩しない。(ように見える、ストーリーとしてそう描かれているだけに見えてしまう。)
 これがクライマックスの演技すばらしさを、なんというのだろう、弱めるというのはいいすぎだけれど、十分ささえきれない。彼女の存在なしで、離婚した妻や息子、さらには父親、祖父、同僚、あるいは近所の人との関係として丁寧に描かれていれば、デンゼル・ワシントンの「救い」ももっと強烈になったのに、と思う。
 せっかく、ほんとうのラストのラストで「和解」した(父親を受け入れた)息子がたずねてきて「お父さんは何者?」という質問をし、ああ、知っているくせに、というような明るい希望が輝く瞬間を描いているのにねえ。

 あ、前半の飛行機が不時着するまでの、スピード感ある映像は、とてもよかった、とつけくわえておく。
                        (2013年03月13日、天神東宝4)


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あの日、

2013-03-16 10:06:41 | 
あの日、雨の降る日曜日へとことばは帰っていく。川向こうの家の空き地に、冬のあいだも緑だった木々を背に、やわらかな黄なりの花が開いていた。こまかい雨にぬれて溶けだした色が輪郭をなくし、藍色に見える木々の暗さのなかに滲んでゆく。風のかたちのように膨らんでは散らばっていく雨の濃淡の叢に、それはとても似合っていた。ふるさとを離れて幾年かがすぎたら、きっと見るに違いない絵を見るように感じた。それを詩に書こうと思った。あの日。しかし、ことばは冷え冷えとして、動いてはくれなかった。遠近法のない曲がりくねった道をバスがやってきて、ことばの空洞を通り抜けて、見えない方向へ去って行ったのだった。



「象形文字編集室」@フェイスブック
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で詩のリハビリをしています。

読んでみてください。
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