詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

築山登美夫「墓を探す」

2013-03-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
築山登美夫「墓を探す」(「LEIDEN雷電」3、2013年02月05日発行)

 築山登美夫「墓を探す」は墓地で墓を探す詩である。

その人の墓はとてもちひさくて
芭蕉よりも西行よりもちひさくて
さがすのに骨が折れますよ
それだけ云ふと女は足早に立ち去つた

 「ちひさくて」「云ふ」「去つた」という文字のつかい方が、「いま」というか、私の「いま/ここ」とは違う。それが、この詩の場合、不思議としっくりくる。「いま/ここ」ではなくて、それ以前の世界へ入っていくのだという気持ちになる。まさに「墓」の人物が生きていた時代--過去だね。だけれど、それを「過去」と呼んでしまうと、また、違うんだけれどね。簡単に時間を区切れない何か、時間の奥へどうしようもなく(?)滑っていってしまう感じ。

せまい通路のひとすぢを縫つて歩いた
女の顔には見おぼえがあつた

 「見覚え」。その「覚えている/こと」が旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)のなかでうごめいている。自覚していない何かが(けれども覚えている何かが)、動く。その動きは、しかし間違ってはいない。その「間違いのなさ」あるいは「確かさ」のようなものが、たぶん旧仮名遣いのなかにあって、それがことばの運動全体をささえている。そういうことばの動きと、この詩は呼応している。

生前その人とは会つたことがなかつた
なのになぜその人の墓をさがしにきたのか
女はきつとその墓の後ろに佇つてゐる
Sさあん、Sさあんと、呼ぶ声が遠くからひびいてゐる
私の名ではなかつたがなぜか私に救けをもとめる声に聞こえてくるのがふしぎだ
墓と墓の間の通路をいくらたづね歩いてもその人の墓は見つからなかつた
            (谷内注・「ひびいて」は原文は送り字をつかっている。)

 生前に会ったこともない人の墓を探す--というのは、日本語のなかに「旧仮名遣い」を探すのに似ていないか。
 これは、私の感覚の意見なのだが、似ていると思う。
 会ったことがなくても、そのひとは生きていた。そういう事実がある。私は旧仮名遣いでことばを書いたことはない。(と、ここで私は築山の体験ではなく、私の体験から語るのだけれど--つまり、半分テキストを離れて、「誤読」をするのだけれど。)その書いたことのない旧仮名遣いは、やはり生きていた。そして、その生きていた証拠をいまでも「古典」のなかに読むことができる。墓を見ることで、その人がほんとうに生きていたことを確かめるのに似ているかもしれない。その人は、もう「いま/ここ」にはいないが、その人の影響が「いま/ここ」にまったくないかといえば、そんなことはないだろう。「覚えている/こと」を思い出すとき、その人は「いま/ここ」に生きている形で存在する。同じ感じで、旧仮名遣いを読むとき、そのことば(文字遣い)が、「いま/ここ」で生きているものとして動く。
 「いま/ここ」とは完全に切断しきれないものが、「覚えている/こと」のなかにある。そして、その「覚えている/こと」というのは「個人(たとえば築山)」に限定されないのだ。築山が、その人を覚えていなくても、誰かが覚えている。誰かではなく墓石が覚えている、ということさえあるかもしれない。旧仮名遣いも、私が覚えていなくても、たとえば築山が覚えている。そして、そんなふうに「個人」が覚えたものであっても、個人が人間であるとき(墓石も、人間が作り上げたものだから、そこには人間の要素?が少なからずある)、それは「個人」を越える。

Sさあん、Sさあんと、呼ぶ声が遠くからひびいてゐる
私の名ではなかつたがなぜか私に救けをもとめる声に聞こえてくるのがふしぎだ

 「私(築山)」ではないけれど「Sさあん」が「私」に思える。それは呼ばれるという「こと」、呼ぶ声が遠いという「こと」が、「いま/ここ」にいて墓をさがすという「こと」とどこか重なるからだ。築山は、墓の間を歩きながら、その人の名を呼んでいる。それは呼べども呼べども声が届かない。そういう「こと」が重なるからだ。
 そして、この「こと」の重なりあいが、旧仮名遣いで書かれたこの詩を読むとき、私のなかでもうひとつの「こと」と重なる。旧仮名遣いは「いま/ここ(谷内の日常)」にはないけれど、どこかで、そういう「声」があり、それは日本語を呼んでいるようにも感じられるのである。私のつかう日本語ではない、それは私ではないが、どこか私を呼んでいるように感じる。「旧仮名遣い」のうごきが「肉体」のなかにひびいていく。

 こんな奇妙な読み方は築山はもとめていないかもしれない。築山はまったく違うことを書きたいのかもしれない。そうかもしれないけれど、旧仮名遣いで書かれていたからこそ、その声が私に強くひびいたきたということはある。いまの仮名遣いで書かれていたら、私の感想は違ったものになっただろうと思う。


悪い神―築山登美夫詩集
築山登美夫
七月堂
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