詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

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2013-03-30 23:59:59 | 詩集
岡井隆『岡井隆歌集』(現代詩文庫502 )(思潮社、2013年03月01日)

 岡井隆の短歌には文語に口語がまじっていて、そのぶつかりあいが強烈という印象がある。これは持続的に読んできてそう感じるのではなく、ときどき読んで感じる「印象」にすぎない。で、きょう初めて、どんな歌人なのだろう、と思いながら読んだ。そして、最初の頁の歌を読んで、少しびっくりした。

暁の月の寒きに黒き松の諸葉(もろは)は白きひかりを含む

 私の「記憶」にある岡井とまったく違っていたからである。これは、いつの時代のものなのだろう。未刊歌集「O(オー)」から、とある。年代順に編集されているみたいだから、ごく初期の作品なのだろうか。
 夜明けの冷気と、松の葉っぱの上にふりそそぐ月の光、その「白」がくっきり見える。「描写」の短歌。「写生」の短歌、ということになるのだろうか。
 でも、もう一度読み直すと、違うことが見えてくる。
 岡井のこの一首の描写(写生)は、どこか「視覚」を超えている。
 「含む」という動詞が、何か描写を超える「重さ/広がり/深さ」を感じさせる。「哲学」を感じさせる。松の葉の上に月の光が降り注いで、それが反射して白く輝いているのではなく、松の尖った葉のなかに、月の白い光は含まれている。松が最初から持っているものが、月の光と向き合うことで、葉っぱのなかから生まれてくる--そういう動きの感じを呼び覚ます。絵のように(描写のように)静止しているのではなく、動いている。
 一方に、月がある。もう一方に松の葉がある。それは、月の光が松の葉の上に降り注ぐというだけの関係ではない。月の光が降り注ぐとき、松の葉の内部から、松が含む何かが呼応するように動きはじめる。そしてそれは、その接点で「白」に結晶することで「詩」になるのだが、それはもしかすると「結晶」ではなく、衝突のスパークかもしれない。胎動、誕生かもしれない。
 衝突は、その衝突が「呼応」によって生まれるものなら、それは「和解」でもあるだろう。
 ふーん、そうすると、私が文語と口語のぶつかりあいと感じていたものは、もしかすると、文語と口語の和解である可能性もある。私が、そういう和解になれていないから衝突と感じるだけで、ほんとうは衝突を超越した絶対的な和解なのかもしれない。
 私は、立ち止まってしまった。立ち止まらないと、先へ進めないと感じた。あ、これは、時間をかけないと読み進むことができない本だと気づいた。
 さて、どうしようか。

三たび寄せて大きあらしの三たび目は遠き海原をたゆたふと聞く

 「三たび寄せて」と「三たび目は遠き海原をたゆたふ」って、変じゃない? 「遠き海原をたゆたふ」なら、寄せては来なかった。くるはずだった大あらしが、遠い海の上でゆったりとほどけていく。これは「アンチ衝突」である。「乖離」は「非在の衝突」なのだ。「岸(書かれていないが)」に「(押し)寄せるあらし」(岸を、陸を襲うあらし)と、「海」の上で漂うあらし(ではない、風の運動)。--それが「聞く」という「肉体」のなかで動いている。
 あらしとあらしではないものが「聞く」ことで出会い、同時に離れる。陸と海にはなれる。離れることで「和解」する。(和解ということばが適切かどうかわからないが……。)そして、それは「聞く」の主語である岡井の「肉体」の内部で起きる「和解」である。もちろん「自然現象」としても「和解」しているといえるのかもしれないけれど、私にはそれが岡井の内部で起きているように感じられる。「聞く」という動詞の存在がそう思わせるのである。
 もし、「聞く」という動詞が岡井の「肉体」の内部にあらしを引き込むなら。
 「含む」は岡井の「肉体」にどんな働きをしたのだろうか。
 この私の「問い」には、論理的な飛躍があるのだけれど、私は実はその「飛躍」を肉体では感じていない。--これは、変な言い方なのだが。
 つまり、最初に取り上げた歌の「含む」の主語は「黒き松の諸葉」なのだが、その葉が月の光をほんとうに含んでいるかどうかは、だれかが客観的に調べたことがらではない。岡井すら客観的に調べてはいない。それは、あくまで岡井が「感じたこと」なのだ。この「感じる」というのは、松の葉っぱを岡井自身の「肉体」と感じるということなのである。
 自分の「肉体」ではない松の葉。しかし、それを自分の「肉体」と感じるから「含む」と言ってしまう。岡井の「肉体」が松の葉に「分有」されている。「分有」しつつ、岡井は松の葉の「肉体」を「共有」する。
 何かに出会うこと、それをことばにすることで、岡井の「肉体」そのものが変わっていく。そういう「運動」がここにある。
 月の光と月の光ではないもの(松の葉)が出会う。それがことばになるとき、そこに岡井の「肉体」が「分有」され、「分有」をとおして岡井は、月の光と月の光ではないもの(松の葉)を結合/結晶させる。衝突させ、和解させる。
 もしかすると、それと同じことが文語/口語の出会い(衝突と和解)のなかにあるのかもしれない。

けだものの足音おこり忽ちに笹原の中を遠ざかり行く

 獣(猪か、狐か何か)が笹原の中を走り抜けたという「写生」にも見えるけれど、ここにもけだものとけだものではないもの(笹)の出会いがあり、足音おこり(発生)と遠ざかる(消滅)の矛盾した運動の衝突(非在の衝突)がある。そして、その衝突と和解が、詩なのだと感じさせる。
 衝突と和解は急激なので、不思議な錯覚を引き起こす。足音がおこり(近づき)、遠ざかるのに--主語が足音なのに、私には、なぜか「笹原」の動き、葉の動きが「見える」。聞こえるだけではなく「見える」。
 こういう錯覚が起きるのは--たぶん、そこに書かれている描写が、岡井の肉体の内部で起きているからである。肉体の内部で聞くと見るはつながっている。耳と目はつながっている。わけてしまうと、肉体は肉体ではなくなってしまう。

やや遠く鵜のおこなひを見て佇ちぬ水くぐりゐる時のたのしも

 うーん。「鵜のおこなひを見て佇ちぬ」の主語は? 岡井だね。鵜の「水くぐりゐる時のたのし」の主語は? 岡井? 見ていて、岡井は楽しい。そうかもしれない。けれど、私にはなぜか、このとき岡井は鵜の動きを見ていると同時に、見ながら鵜になって水をくぐり、それが楽しいと感じているように思う。だれか(何か)が「楽しい」とき、岡井も楽しい。
 肉体をつかってことばを動かすと、主客は「一体」になって、区別がつかない。そういうことが起きると思う。
 そして私の場合、何に感動するかといえば、そういう「一体感」をつかみ取る「肉体」に感動するのである。「肉体」をいいなあ、と思うのである。衝突と和解をつなぎとめる「肉体」、強い肉体--そこに思想があると思う。
 あの、文語と口語の衝突/和解は、岡井の「肉体」のあり方なのだという感じがはっきりしてきた。初期の短歌を読み、私は、それを強く感じた。

抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う

 これは岡井が女を抱いたとき、女は野に降った雨(髪がぬれる原因になった雨)は美しかったと言ったという「意味」だろうけれど、まるで岡井が女になって抱かれていて、雨が美しかったと言っているように感じられる。「美しい」と思っているのは女だけではなく、岡井が「美しい」を肉体で感じていないと、たとえ女が美しいと言ったとしても、その声は聞こえてこない。そして、それをことば(詩)にすることもできないはずだ。
 これは、私が何度も何度も書いている例で言うと……。道端にだれかが腹を抱えてうずくまっている。それを見てひとは、それが自分の肉体でもないのに、あ、このひとは「腹が痛い」のだと思う。そのときその人は「痛い」とは一言も言っていなくても、声を聞くと「痛い」と聞こえるのに似ている。
 岡井が雨を美しいと思うからこそ、「美しかりし野の雨」と言っているのが聞こえる。「ことば」が「ひとつ」になっているのではなく、「肉体」がひとつになっている。



岡井隆歌集 (現代詩文庫)
岡井 隆
思潮社
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