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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(64)

2014-01-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(64)

 「えてるにたす Ⅱ」

あけびの青さがみたい                       (76ページ)

 いろいろな欲望が書かれている。すぐあとには「欲望を捨てたいと思うこと/も欲望だ」という行がある。論理的というか、抽象的というか、「頭脳」を刺戟してくることばである。そういうことばのなかにあって、「あけびの青さがみたい」だけは直接的である。肉感的である。この肉感的な手触りのようなものが、私は好きである。どんなに抽象的なものを書いていても、それを突き破って突然具体的な「もの」が出てくる。そのときの、「音楽の乱れ」が好きである。
 「音楽の乱れ」と書いたのだが……。
 西脇は、ふつうの人が書くと完全に「音楽の乱れ」になってしまうところを、強い「和音」にしてしまう。世の中には「不協和音」というものはない、あらゆる「和音」だけがあると誰かが言っていたような気がするが、異質なものが飛びこんできた瞬間、いままで知らなかった「和音」があると気づく--気づかされる。そういう感じがする。
 どうして、こんなことができるのだろうか。こんな音楽になるのだろうか。
 西脇が「もの」をしっかりと把握しているからだ、「肉体」でつかみきっているからだ、つまり嘘がない(頭で作り上げたものではない)ということだと、私は感じている。

 「肉体でつかみきった」というような言い方は抽象的で、抽象的であるが故に何とでもいえそうな気がして、うーん、まずいなあ、と思う。
 「あけびの青さ」。ここから「肉体」のことを、どう書けるか……。
 私が思うのは「青さ」の「青」の不思議さである。
 私は西脇のことばから「青」を思い浮かべない。絵の具の三原色の青をこのときに思い浮かべない。海の青、空の青を思い浮かべない。どちらかというと紫を思い浮かべる。紫をうすくしたときの、そのなかの「青」。その「青」は「日本語」としては正確ではない。色をただしく言おうとすれば「青」ではなく「薄紫のなかの青の成分」くらいになってしまう。で、その「青」のまじりぐあい--これは、実際にあけびをもいで、あけびを食べるという「肉体」の動きと関係している。
 夏、緑のあけびがだんだん熟してきて紫に近くなる。そういうものを見ながら、食べごろを判断する。そのときの「肉体」が、そこにある。
 その確かさ、「肉体」の確かさによって支えられたことばの動きが、私は好きである。「肉体」に支えられているから、そのことばがどんな音とぶつかっても「音楽」になるのだ。
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西脇順三郎の一行(63)

2014-01-19 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(63)

 「えてるにたす Ⅱ」

永遠を象徴しようとしない時に                  (75ページ)

 「えてるにたす Ⅱ」の書き出し。この行だけでは意味はわからない。2行目は「初めて永遠が象徴される」とつづき意味が完結する。意味には深入りせずに……。
 この1行目が印象に残るのは「しようとしない」という音があるからだ。言い換えると。
 「しようと望まないとき」「しようと欲しないとき」「しようと試みないとき」「しようと努めないとき」など、いろいろな言い方をしても、意味は変わらない。(と断言できるかどうかわからないが、類似の意味の周辺をことばが動いていることがわかる。)
 それなのになぜ西脇は「しようとしない」、「しょうちょうしようとしない」と「し」の音が3回出てくるようなことばを選んだのか。その音のなかに何かを感じたのだ。この感じは「直感」であって、ほかには説明のしようがないものかもしれない。
 その説明のできない音の好み--それに、少し触れる。
 そういう瞬間が、私は好きである。
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西脇順三郎の一行(62)

2014-01-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(62)

 「えてるにたす Ⅰ」

町で聞く人間の会話                        (74ページ)

 「意味」について書きたくないなあ、と思っているのだが、きょうはとても疲れているのか、頭が「意味」に頼ってしまう。
 この一行は、「淋しさ」をあらわしている。西脇の「淋しさ」の定義に合致するのが「町で聞く人間の会話」である。その会話というのは「あいさつ」である。何も意味しない。ただ人間が存在することを互いに認めるときのことば。それを西脇は「淋しい」と呼んでいる。
 他の「淋しい」がたくさん書かれているが、どれも、存在する「もの」である。ただ存在するだけの「もの」、「意味」をもたない「もの」。「意味」をもたないけれど、存在すると認めることができる「もの」。
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西脇順三郎の一行(61)

2014-01-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(61)

 「えてるにたす Ⅰ」

たたなくなる」                          (73ページ)

 この一行は前後の行をくっつけるととてもわかりやすい。「「教養をつければつけるほど/たたなくなる」艶美なるイムポテンス」。
 だが、前後のことばがなくても「たたなくなる」だけほうりだしてもインポテンスを連想させるのはなぜだろう。
 たぶん、インポテンスについて語るとき「性器が」という主語を省略することが多いからだろう。日常の会話ではわざわざ「性器が」とはいわない。
 これは逆に言えば(?)、西脇はここでは「ことば」を「会話」そのまま、肉声として書いているということである。ことばの背後には、ことばを発した人がいる。他人(西脇を含む)がいる。そのことばをとおして、「意味」ではなく、私たちは「人間」を見る。
 人間が見えると、それに遅れるようにして「意味」がやってくる。「たたなくなる」は勃起しなくなる、インポテンスになるという意味だとあとからやってきて、あとからやってきたくせに、その人間を覆い隠してしまう。
 この人間を覆い隠してしまうことばを、どうやって引き剥がして、もう一度人間そのものをそこに「いる」という感じを取り戻すか。そのためにことばに何をすべきなのか(ことばをどう動かすべきなのか)。
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西脇順三郎の一行(60)

2014-01-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(60)

 「えてるにたす Ⅰ」

この硯の石も                           (72ページ)

 1行の引用ではなんのことかわからないのだが、周辺の行を一緒に引用しても、なぜ、ここで「硯の石」が出てくるのかわからない。
 このわからなさが詩である--というのは乱暴な「感覚の意見」になってしまうが、私は、そこではっと目が覚める。この1行の周辺には「過去/現在」「記憶/追憶」「意識」「進化/退化」というような抽象的なことばがつづくのだが、そこに突然「硯の石」が飛びこんでくる。
 そして、その突然現れた「硯の石」の墨の色が、あらゆる抽象的なことばをつないでいる具体的な何かのように思える。
 それこそ「シンボル」ということになるのだろうか。
 わからないことはわからないままにしておいて、私は、あ、西脇は「墨の色」が好きだったのか……と思う。西脇の詩には茄子がよく出てくる。このページにも「テーブルの茄子の」という1行があるが、その茄子の色は紫は紫でも、和紙の上に墨で線を引いたときに黒のなかににじむ紫に近いのではないか、という思いが、突然湧いてきた。
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西脇順三郎の一行(59)

2014-01-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(59)

 「えてるにたす Ⅰ」

黒いコップの輪郭が残る                      (71ページ)

 この1行は、夕陽が落ちたあとのコップを描写している。だんだん暗くなる。そのなかでコップがだんだん見えなくなる。最後に見えるコップの輪郭--それを「黒い」といっているところがとてもおもしろい。
 私は実際を確かめずに、自分の記憶の中で世界を再現してみるのだが、暗くなる室内でコップを見るとき、その輪郭は「黒い」だろうか。むしろ、わずかに残る光を集めて光っているのではないだろうか。反射がどこかにあるのではないだろうか。「黒」を入れた光の輪郭が残るのではないだろうか。
 でも、その輪郭のなかに「黒い」ものが見える。だから「黒いコップ」というのだ。
 「コップの黒い輪郭」ではなく、「黒いコップ」がまずあって、それから「輪郭」がやってくる。そういう「認識(?)」の動きを、そのまま描いている。そこには「一瞬」のことだけれど「認識の時差」のようなものがある。それがおもしろい。
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西脇順三郎の一行(58)

2014-01-14 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(58)

 「えてるにたす Ⅰ」

水たまりに捨てられた茶碗                     (70ページ)

 この水たまりは、道路にできた水たまりではない。野原やがけ下にできた水たまりである。そういう水たまりは、だいたいが汚い。汚いけれど水は澄んでいることがある。汚いのは水たまりの底である。泥の感じが汚い。そこに茶碗の白がある。それも割れた茶碗だ。無意味なもの。無意味なものの美。人間から切り離されている。同時に自然からも拒絶されているような感じ。
 それは何かの「シムボル」になるだろうか。なりはしない。何もあらわさないものが、ほんとうの「シンボル」だろう。それは、何かを意味するのではなく、私たちがすがろうとする「意味」を捨て去る力なのだ。
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西脇順三郎の一行(57)

2014-01-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(57)

 「えてるにたす Ⅰ」

シムボルはさびしい                       (69ページ)

 長い作品なので、今回も1ページ1行を選んで感想を書いていく。
 詩は「書き出し」がすべて。突然始まって、それが次のことばを生み出していくだけである。結露(?)というものは、ない。「意味」というものは、ない。あるとしたら書きはじめた瞬間だけにある。
 西脇は、このあと「言葉はシムボルだ/言葉を使うと/脳髄がシムボル色になって/永遠の方へかたむく」とつづける。ことばが交錯しながら広がっていく。
 「脳髄がシムボル色になって」の「色」のつかい方がおもしろい。どんな色かさっぱりわからない。--ほんとうは、この1行を選ぶべきだったかもしれない。
 というのは、そういう「色」のないものを「色」と呼ぶところからはふたつの「感想」を引き出すことができるからである。
 色ではないものを色と呼ぶ--それは西脇にはその色が見えた。西脇は絵画的な詩人である、というのがひとつ。
 もうひとつは、色ではないものを色と呼ぶのは、色を書きたかったからではなく、色ではないものを書きたかったからである。「シムポル色」という音を書きたかった。無意味なもの、音を書きたかった。音を中心に西脇はことばを動かしている。つまり、音楽的な詩人である。
 さて、どっちを選ぼうか。--「意味」というのは、正反対のことを平気で呼び寄せながら動いてしまうので困ってしまう。

 このページにある「夏の林檎の中に/テーブルの秋の灰色がうつる」というのも、とても美しい。この美しさは、また絵画的な印象が強い。
 けれどもこの2行からだって、「音楽」を中心にした「意味」をつくりあげることができる。
 「林檎の中」の「中」は内部ではなく、表面、皮の中にという意味である。表面と意味を正確にするのではなく「中」ということばをつかっているのは、その方が音として美しいからである。「林檎」という短い音と「テーブル」というのばした音を含む長い音の対比にも音楽がある。
 いや、「赤い皮の林檎」とは書かずただ「林檎」と書き、色は「灰色」だけを書くことで、そこにある色の変化を連想させるその視点は絵画的である、と反論もできる。
 
 詩はやっかいである。いや、意味はやっかいである。


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西脇順三郎の一行(56

2014-01-12 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(56)

 「最終講義」

またミミナグサの坂をのぼる                    (68ページ)

 「ミミナグサ」を私は知らない。どんな草なのだろう。読者の何人が知っているだろうか。そして、そのことばを読んだ何人が調べただろうか。私は調べない。植物図鑑を調べても、きっと忘れるだけである。図鑑で見たからといって「わかる」わけではない。
 私はただ「ミミナグサ」という音を楽しむ。そして、「また」ということばを楽しむ。そうか、西脇は何度もその坂をのぼったのだ。そうして何度もミミナグサを見たのだ。そのとき体のなかに「風景」ではない、別なものがあらわれる。坂をのぼる肉体のリズムがあらわれる。ミミナグサはそのリズムを飾るメロディーだ。
 と、書いて、私は何か間違えたと感じる。
 「ミミナグサ」よりも「また」の方が私は好きなのだ。西脇は何度も「また」ということばをつかっているが、この「また……する(した)」という繰り返し、繰り返すしかないもののなかに、何か「永遠」というものを感じる。
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西脇順三郎の一行(55)

2014-01-11 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(55)

 「最終講義」

大森の麦畑と白いペンキのホテル                  (67ページ)

 詩の後半。この1行から、ものの羅列が始まる。並列が始まる。この1行が印象的なのは、ことばの運動の口火を切っていることと同時に、固有名詞と普通名詞の対比があるからだろう。
 「大森の麦畑」と「白いペンキのホテル」。ホテルも大森にあるのかもしれないが、大森という固有名詞には染まっていない。「白いペンキ」という属性が「大森」と拮抗している。それが、なんとなく面白い。
 麦畑は金色か、緑色か。最終講義が春先に行なわれるのとしたら、麦はまだ緑だ。苗が出たばかりかもしれない。その特定できない色と白が向き合っているのも面白い。

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西脇順三郎の一行(54)

2014-01-10 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(54)

 「最終講義」

 かつしかの芸者がけずねを出して                 (66ページ)

 「芸者」と「けずね(毛脛)」の取り合わせが、異質なものの出会いとして面白い。同時に、ここには「音」の面白さもある。
 「か」つし「か」、「げ」いしゃ、「が」、「け」ずね--「か行」の変化。それに濁音「げ」いしゃ、け「ず」ね、「だ」しての交錯。冒頭の「かつしか」が乾いた音、有声音なのだけれど「有声」をあまり感じさせない。それに対して濁音は豊かな「有声音」であるのも面白い。私は、濁音の豊かさを「濁」という「意味」とはうらはらに美しいと感じる。
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西脇順三郎の一行(53)

2014-01-09 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(53)

 「最終講義」

 この去る影は枯れた菫の茎に劣る                 (65ページ)

 西脇の好きなもの。思い浮かぶのは茄子と菫。ともに紫のものだ。
 この1行では、紫の花はわきに引く形で登場しているが、それが影と非常に似合っている。こうした隠れた色と色の響きあいを読むと、西脇はたしかに絵画的な詩人であると思う。(「たしかに」とことわるのは、私は西脇は絵画的というよりも音楽的な詩人だと思っているのだが、一般的には絵画的といわれることが多いからである。)
 影は「黒」のようであって黒ではない。その黒は影を受け止める「もの」の色とまじりあう。「もの」の色を静かにさせる。その静かな色が枯れた菫に似合う。
 と、書くと、西脇は「枯れた菫の茎」と書いているのであって、「枯れた菫(の花)」とは書いていないという声が聞こえてきそう。
 そうだね。「枯れた菫の茎」、その「茎」の音が乾いていて面白い。
 で、私の意識のなかでは「枯れた菫の茎」が「枯れた紫の茎」という具合にも変化する。「絵画的」な西脇--と思ったとき、そこに「紫」があらわれ、ことばをのっとっていく。そうして「か」れたむらさ「き」の「く」「き」という「か行」が響く。書かれていない音を聞きとって「音楽的」とも感じてしまうのだ。

 余談だが。
 中井久夫はことばのなかに色が見えると言っている。ランボーは母音を色で区別していた。ナボコフもことばに色を読み取っていた。私が「菫」ということばから「紫」を感じたのは「色が見える」というよりも連想の類だが、西脇はことばに色を見ていたのだろうか、とふと考えてみた。
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西脇順三郎の一行(52)

2014-01-08 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(52)

 「最終講義」

やはりあのネツケがすいたい                    (64ページ)

 この作品も長いので、1ページに1行選んでみる。
 「あのネツケ」というのはタバコの種類なのかもしれない。私はタバコを吸わないのでわからない。間違っているかもしれないが(間違っていることを承知で)、私はこれを「ニッケ(ニッケイ/シナモン)」と思っている。シナモンの香りが含まれるタバコ。
 西脇の出身地・新潟では「い」と「え」の音があいまいである。それで「ニッケイ」が「ネツケ」になっているのだと思う。
 そうだと仮定して。
 この「ネツケ」という音が不思議に強い。「ニッケ(ニッケイ)」だと「ッ」の音が弱くて、ものたりない。「ツ」の明確な音が、「やはり」という強調によくあう。「すいたい」という欲望を引き立てる。
 ついでに言うと、私はこのニッケイというものが苦手である。非常に違和感を覚える。私の苦手(嫌いなもの)を西脇が好きなのだということが、私の肉体の内部を「ざらり」という感じでこすっていく。この感触と「ネツケ」というねばっこい音が不思議とあうのである。俗に言う「不協和音」というものか。
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西脇順三郎の一行(51)

2014-01-07 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(51)

「あざみの衣」

昔の夏にジュースを飲んだ空きびん

 ここからは『豊饒の女神』。
 「昔の夏に」の「に」が不思議。私は、こういうときに「に」をつかわない。「昔の夏、」と読点「、」でごまかしてしまう。「に」によって、ことばの「接続感」がつよくなる。ことばが直線から曲線にかわるような感じがする。その曲線は、ねばっこく、けっして折れない感じの曲線である。
 その不思議なまがり方に、「ジュース」「空きびん」といった硬い音がぶつかる。硬いといっても音引きと「空きびん」の「あき」という音がごつごつ感をやわらげる。


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西脇順三郎の一行(50)

2014-01-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(50)

 「失われた時 Ⅳ」

沖の石のさざれ石の涙のさざえの                  (62ページ)

 「の」の連続によることばの連結がはてしなくつづく部分の1行。いろいろおもしろい行があって、いま引用しながら、ふと目に飛び込んできた別の行にすればよかったかも……と思ってしまうのだが。
 最初の印象で書くしかない。
 「さざれ」と「さざえ」の似通った音がおもしろい。濁音があるところが、私は好きである。私には「さ行」というのは清音の印象があり、弱い感じがしてしまうが、濁音によって音が豊かになる。なみ「だ」の「だ」の濁音ともひびきあう。
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