西脇順三郎の一行(64)
いろいろな欲望が書かれている。すぐあとには「欲望を捨てたいと思うこと/も欲望だ」という行がある。論理的というか、抽象的というか、「頭脳」を刺戟してくることばである。そういうことばのなかにあって、「あけびの青さがみたい」だけは直接的である。肉感的である。この肉感的な手触りのようなものが、私は好きである。どんなに抽象的なものを書いていても、それを突き破って突然具体的な「もの」が出てくる。そのときの、「音楽の乱れ」が好きである。
「音楽の乱れ」と書いたのだが……。
西脇は、ふつうの人が書くと完全に「音楽の乱れ」になってしまうところを、強い「和音」にしてしまう。世の中には「不協和音」というものはない、あらゆる「和音」だけがあると誰かが言っていたような気がするが、異質なものが飛びこんできた瞬間、いままで知らなかった「和音」があると気づく--気づかされる。そういう感じがする。
どうして、こんなことができるのだろうか。こんな音楽になるのだろうか。
西脇が「もの」をしっかりと把握しているからだ、「肉体」でつかみきっているからだ、つまり嘘がない(頭で作り上げたものではない)ということだと、私は感じている。
「肉体でつかみきった」というような言い方は抽象的で、抽象的であるが故に何とでもいえそうな気がして、うーん、まずいなあ、と思う。
「あけびの青さ」。ここから「肉体」のことを、どう書けるか……。
私が思うのは「青さ」の「青」の不思議さである。
私は西脇のことばから「青」を思い浮かべない。絵の具の三原色の青をこのときに思い浮かべない。海の青、空の青を思い浮かべない。どちらかというと紫を思い浮かべる。紫をうすくしたときの、そのなかの「青」。その「青」は「日本語」としては正確ではない。色をただしく言おうとすれば「青」ではなく「薄紫のなかの青の成分」くらいになってしまう。で、その「青」のまじりぐあい--これは、実際にあけびをもいで、あけびを食べるという「肉体」の動きと関係している。
夏、緑のあけびがだんだん熟してきて紫に近くなる。そういうものを見ながら、食べごろを判断する。そのときの「肉体」が、そこにある。
その確かさ、「肉体」の確かさによって支えられたことばの動きが、私は好きである。「肉体」に支えられているから、そのことばがどんな音とぶつかっても「音楽」になるのだ。
「えてるにたす Ⅱ」
あけびの青さがみたい (76ページ)
いろいろな欲望が書かれている。すぐあとには「欲望を捨てたいと思うこと/も欲望だ」という行がある。論理的というか、抽象的というか、「頭脳」を刺戟してくることばである。そういうことばのなかにあって、「あけびの青さがみたい」だけは直接的である。肉感的である。この肉感的な手触りのようなものが、私は好きである。どんなに抽象的なものを書いていても、それを突き破って突然具体的な「もの」が出てくる。そのときの、「音楽の乱れ」が好きである。
「音楽の乱れ」と書いたのだが……。
西脇は、ふつうの人が書くと完全に「音楽の乱れ」になってしまうところを、強い「和音」にしてしまう。世の中には「不協和音」というものはない、あらゆる「和音」だけがあると誰かが言っていたような気がするが、異質なものが飛びこんできた瞬間、いままで知らなかった「和音」があると気づく--気づかされる。そういう感じがする。
どうして、こんなことができるのだろうか。こんな音楽になるのだろうか。
西脇が「もの」をしっかりと把握しているからだ、「肉体」でつかみきっているからだ、つまり嘘がない(頭で作り上げたものではない)ということだと、私は感じている。
「肉体でつかみきった」というような言い方は抽象的で、抽象的であるが故に何とでもいえそうな気がして、うーん、まずいなあ、と思う。
「あけびの青さ」。ここから「肉体」のことを、どう書けるか……。
私が思うのは「青さ」の「青」の不思議さである。
私は西脇のことばから「青」を思い浮かべない。絵の具の三原色の青をこのときに思い浮かべない。海の青、空の青を思い浮かべない。どちらかというと紫を思い浮かべる。紫をうすくしたときの、そのなかの「青」。その「青」は「日本語」としては正確ではない。色をただしく言おうとすれば「青」ではなく「薄紫のなかの青の成分」くらいになってしまう。で、その「青」のまじりぐあい--これは、実際にあけびをもいで、あけびを食べるという「肉体」の動きと関係している。
夏、緑のあけびがだんだん熟してきて紫に近くなる。そういうものを見ながら、食べごろを判断する。そのときの「肉体」が、そこにある。
その確かさ、「肉体」の確かさによって支えられたことばの動きが、私は好きである。「肉体」に支えられているから、そのことばがどんな音とぶつかっても「音楽」になるのだ。