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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(49)

2014-01-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(49)

 「失われた時 Ⅳ」

どこかで人間がまたつくられている                 (61ページ)

 生まれているではなく「つくられている」。それはことばを動かし、対話することだ。対話するとき、そこに人間が生まれると同時に、ことばが人間をつくっていく。「どこかで」は「知らないどこかで」ということ。そし「知らない」はほんとうは知っているということ。
 だから、この行は「--おつかさんはとんだことになつたね」と、それだけで「意味」がわかることばへとつながっていく。
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西脇順三郎の一行(48)

2014-01-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(48)

 「失われた時 Ⅳ」

虎と百合の祈祷をする                       (60ページ)

 虎と百合の結びつきに、はっとする。虎にどんな花が似合うのか、想像したことがなかった。だから驚く。たぶん、それだけではなく、それまでの行が「空と有とが相殺するところにゼロがある」(この「相殺」という音はすばらしく美しいなあ)というような抽象的なことばだったために、虎がいきいきと動く。さそわれて百合も白く巨大に輝く。笹百合なんかではなく、カサブランカよりももっと大きな花。中には虎の黄色に似た花粉が散らばっている。虎の外側(?)黄色と黒、百合の内側の黄色と白--その対比も目に浮かんだ。
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西脇順三郎の一行(47)

2014-01-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(47)

 「失われた時 Ⅳ」

永遠の追憶に人間をぬらすからだ                  (59ページ)

 西脇のことばには「渇いた」印象がある。しかし、西脇は同時に「しめった」感じも書いている。「ぬらす」「ぬれる」ということばも西脇は好んでつかっている--と思う。具体的に数を数えたわけではないが。たとえば「南風は柔い女神をもたらした。」ではじまる「雨」は「ぬらした」の行列である。
 ただし、西脇の「ぬらす/ぬらす」は「水分がつく(おおう)」というのとは少し違うような感じがする。「雨」には「噴水をぬらした」と「ぬれる」はずのないものが「ぬれ」ている。
 「ぬらす」には「濡らす」とは別に「解らす」ということばもあるが、この「解らす(解けままにする、ほどく)」とどこかで通じている。
 人間は「永遠の追憶」に触れて、ほどけたままになる。そうして「ぬらり」と輝く……というような感じへと連想を動かす。
 「ぬれる」から「なめらか」「つややか」「かがやく」へと連想を広げると、なんだか色っぽくなるね。「永遠の追憶」のなかで、人間は色めくのだ。
 だからというわけでもないのだろうけれど、この後西脇のことばは「男は女の冬眠のための道具にすぎない」というようなところへ進んで行く。

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西脇順三郎の一行(46)

2014-01-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(46)

 「失われた時 Ⅳ」

室内音楽の国づくしはエド人のエピックだ              (58ページ)

 この1行は中途半端な行である。--というのは私だけの印象かもしれないが、私は前半の「室内音楽の国づくしは」という部分が好きではない。それに先行する行の、文学の断片の接触を「室内音楽」と定義しているのかもしれないが、「室内音楽」が「音楽」のように響いてこない。「意味」になっている。「比喩」になっている。「国づくし」が「説明」になっている。「比喩」を「説明」で補ってどうするのだ、とちょっと不満を言いたいような気分になる。
 けれど、その後の「エド人のエピックだ」で私は飛び上がってしまう。「エド」は「プリアプス」「ヘベルニヤ」「ドブリン」のような外国の地名? (プリアプスなどが外国の地名かどうかは私は知らないのだけれど)。
 「エド」は「江戸」だろうなあ。「エド人」は「江戸時代の人」。突然、こんなところに出てくる。でも何のために? 私の「直感」では「エピック」という音を導くためにである。
 それまで書いてきた行を西脇は「エピック(叙事詩)」として提出したい。叙事詩であると示すために「エピック」ということばを書きたいのだが、そのまま書いてしまってはあまりにも「説明」になってしまう。だから、「説明」をごまかすために、読者を混乱させるために、わざと「エド人」と書いている。
 この「わざと」に「現代詩」の「現代」の意味があるのだが、その「わざと」を「エド人」「エピック」という頭韻の音楽として書くところが、あ、西脇だなあ、と思う。
Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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西脇順三郎の一行(45)

2014-01-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(45)

 「失われた時 Ⅳ」

女の顔色が終わるところに女の顔色                 (57ページ)

 「女の顔色」が2回、行頭と行末に出てくる。行末から行頭に戻る感じがする。何が起きたのかよくわからないけれど、繰り返してみると(戻ってみると)、「女の顔色」ということばが、ことばを越えて「もの」のように感じられる。
 繰り返すということは、ふたたび「始める」ということである。
 だから、その行に「終わる」ということばがあるのに、終わった感じがまったくしない。それだけではなく、いまの行が、行わたりをして「がまた始まるそこに永遠がある」とつづいていくときの「始まる」がとても近しい感じ、肉体で覚えている何かのように感じられる。
 こんなふうにして、意識できない形で肉体の覚えている何かを思い出し、繰り返す--その瞬間に「永遠がある」、と断定されたら、うーん、そのまま信じてしまうなあ。
 「論理」ではなく「音楽」で信じてしまう。


西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
思潮社
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西脇順三郎の一行(44)

2013-12-31 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(44)

 「失われた時 Ⅳ」

くちずさむくちびるがふるえる                   (56ページ)

 音がおもしろい。「くち」ずさむ「くち」びる。「ふ」るえる。くちび「る」、ふ「る」え「る」という音の繰り返し。さらにくち「び」る、「ふ」るえる、のは行・ば行のゆらぎと、くち「ず」さむ、くち「び」る、「が」の濁音(深々とした「有声音」の豊さ)が「く」ちびる、「く」ちずさむ、「ふ」るえるの「無声音」の対比が加わる。
 わけもなく、その音を声に出して読みたい欲望が生まれてくる。私は黙読しかしないのだが、どこかで「肉体」が声を出していて、その声が聞こえてくる。ついつい、それを私の肉体の何かが、それを真似しようと誘いかけてくる。
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西脇順三郎の一行(43)

2013-12-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(43)

 「失われた時」(この詩も長い。現代詩文庫は「Ⅳ」を収録している。今回も1ページから1行を選んで書いていく」

 「失われた時 Ⅳ」

三角形の一辺は他の二辺より大きく                 (55ページ)

 これは西脇が発見した「こと」ではない。誰もが知っていることでである。その1行がなぜおもしろいのか。これを説明するには前のことばを引用するしかない。
 直前は「牛にはみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になった」。「四重の未来」というのは牛が四つの胃袋で咀嚼することと関係があるかもしれない。四回に分けて咀嚼するから、食べたものをよく覚えているということか。四回に分けて咀嚼するから、その4つの胃袋のは過去と未来を抱え込むということか。あとひとつ現在をくわえてもなおひとつあまるのだが……。
 このあたりの「ごちゃごちゃした算数」から、三角形の「三」、それから「一辺」の「一」は出てきているのかもしれない。そういうことを考えるとおもしろいけれど、考えてしまってはことばが停滞する。リズムがこわれる。それでなくても「牛にはみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になった」自体が重い。
 ここからいっそう重くなる詩というものもあるが、西脇は、こういうとき重さを「脱臼」させる。軽くする。それが「三角形の一辺は……」である。考えなくても、わかる。そういうことばで、止まりかけたことばを動かす。
 西脇は「意味」ではなく、ことばの軽快な運動そのものを詩と感じているのだ。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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西脇順三郎の一行(42)

2013-12-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(42)

 「第三の神話」

ジオヴァンニイ・ダ・ボローニヤの女                (54ページ)

 これは何のことか。教養のない私にはわからない。わからないけれど、唯一「ボローニヤ」がイタリアだとわかる。--これはいいかげんな話であって、ボローニャはイタリアとは別な国にもあるかもしれないが、私はイタリアの都市と思い込む。「ジオヴァンニイ」もイタリアっぽい名前である。わからないけれど具体的な「固有名詞」を感じさせる。
 で、これがなぜおもしろいかというと。
 前の部分を引用しないとわかりにくいのだが(私は一行だけ引用して感想を書くということを自分に強いているので、こういうときは非常に説明に困るのだが……)、それまでの展開は「第三の女」とか「第一の女」とか、きわめて抽象的なことばである。それが、ここでは「固有名詞」(具体)を感じさせることばの登場で世界ががらりと変わる。大きく動く。
 そして、それが、私の場合、「ジオヴァンニイ・ダ・ボローニヤ」が誰なのか見当がつかないために、音そのものとして響いてくる。それがおもしろさに拍車を書ける。「い」と「お」と「あ」と「N」の音が交錯する。そして「おんな」のなかには「お」と「あ」と「N」がある--というのもとてもいい気持ちにしてくれる。






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西脇順三郎の一行(41)

2013-12-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(41)

 「第三の神話」

小雨が降り出して埃の香いがする                 (53ページ)

 西脇を私は聴覚の詩人だと思っている。耳で音を聞き、喉で声を出す。その肉体がことばを統一していると考えているのだが、嗅覚も新鮮だ。いきいきと動いている。雨がものに触れて、埃を浮き立たせる。そのとき匂いがする。敏感だね。
 この行でもうひとつ注目するのは、動詞の「時制」。
 私は習慣的に、こういうとき、

小雨が降り出して埃の香いが「した」

 と書いてしまう。「降り出した」が過去形なので香いが「した」という具合に。けれど、西脇は後半を現在形で書く。「時制」が乱れている。
 --のではなくて、西脇は意識して、そう書いているのだと思う。
 雨が降りだしたのは「過去」、そして埃の香いがするは「いま」。起きたことが起きた順序で、そのまま書かれている。正直に書かれている。「時制」を統一するというような「頭」の操作は捨てて、感覚が受け止めているものをそのままことばにしている。

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西脇順三郎の一行(40)

2013-12-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(40)

 「第三の神話」

黄ばんだ欅の葉先に舌の先が触れた                 (52ページ)

 これは肉体の舌が欅の葉に触れた(舐めた)という意味ではないだろう。ことばが欅に触れた、欅について語った、という意味だろう。もちろん舐めてもおもしろいのだけれど、そのときはまた違った表現になると思う。
 なぜ、語った、話したと書かなかったか。詩だからだ。気取って書いているのである。わざと書いているのである。
 私は「ことばは肉体である」と考えるので、こんなふうにことばを語るのに具体的な肉体をつかった表現に出会うと自分に引きつけたくなる。
 まあ、そんなことはめんどうになるからやめておく。
 この一行では「葉先」「舌の先」と「先」が二度出てくるところがおもしろい。同じことばが繰り返されると、その「同じ」の部分に意識が動いていく。「先」が重みを増してくる。で、書いてはいないが、これは「微かに触れた」のだと思う。「先」と「先」だからね。ことばは風のように欅の葉をさっととおりすぎたのだ。
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西脇順三郎の一行(39)

2013-12-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(39)

 「第三の神話」

窓から柿の木を上からみおろすのだ                 (51ページ)

 この行の2行前に「二階の書斎にあがつた」という行がある。窓は二階の窓である。柿の木は低い。それを二階から見ると、必然的に「上から」みおろすことになる。
 でも、「窓から」「上から」は変じゃない? こういう「重複」は不経済じゃない?
 というのは「頭」が整理して口走る苦情。
 私はここでは、とても奇妙な経験をした。
 「上から」ということばに触れた瞬間、私自身の「肉体」がすーっと上の方にひきあげられたのである。「二階」より上、というのではなく、方向として「上」へ。
 きのう書いた「落ち葉」--それは、そのまま「もの」の時間の経過をあらわしていた。「落ちる(落ちた)」を先に見て、その「落ちる(落ちた)」のあとに「主語」があらわれてくっついた感じ。「窓から」みおろすだけではなく、その「窓」が「上」へとかわって(明確な上下の位置関係になって)、みおろす。
 ここでは「動詞」がリアルに再現されている。
 意識の動きが、そのまま「ことば」の運動となって書かれている。
 西脇の詩は、ことばが「行わたり」をして、意味が「脱臼」させられたような印象を呼び起こすが、そこでは意味は脱臼させられているかもしれないが、意識の動きそのものは時間をていねいに再現している。何かが起きるときの、その時間の経過をそのまま手を加えず、順番に書いている。その書き方のスピードがとても速いので、「流通言語」(流通文法)から見ると、「あれっ」という感じになるのだが。
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西脇順三郎の一行(38)

2013-12-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(38)

 「第三の神話」

あの小間物やさんと話をしている                  (50ページ)

 この一行は、ふつうは「あの小間物屋さんと話をしている」と書くと思う。「小間物屋」でひとつのことばである。ところが西脇は「屋」を「や」と書くことでひとつのことばをふたつに脱臼させている。
 これを読むと、まず「小間物」が目の前に浮かぶ。そして、そのあとに男(たぶん)があらわれる。この「時差」のようなもの、そこに「時差」があるということのなかに西脇の詩がある。
 それはたとえば、「落葉」ということばがあるが、それは単に落ちてくる葉、あるいは落ちた葉と理解してしまうのを、もう一度ことばの成り立ちとして見直す仕事に似ている。
 --あ、ややこしいことを書いてしまったが……。
 「落ち葉」の場合、ひとはまず「落ちる(落ちた)」という「動詞」を見る。それからそのあとに「落ちる(落ちた)」ものが葉っぱであると理解するというのに似ている。「落ち葉」は「落ちる(落ちた)」+葉--そのことばは認識の順序に従って動いているのである。
 「小間物屋」も「小間物+屋」という動きを再現しているが、漢字で書いてしまうとどうしても「ひとつ」につながって見えてしまう。「小間物+や」にすると、それは違って見える。「小間物」+「(売る)おとこ」という具合に「動詞」が割り込んできて、ことばが認識通りに動いているなあということがわかる。
 こんなことはわからなくてもいいことなのかもしれないが、そういうわからなくてもいいことをわかってしまうのが詩なのである。
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西脇順三郎の一行(37)

2013-12-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(37)

 「第三の神話」

化学はもう物理学として説明する方がよい         (49ページ)

 この場合の「物理学」とは電子、原子の世界である。化学も素粒子の運動に還元してみつめる方がいい。--意味の強い一行だ。
 この一行が好きなのは、「現象」を「運動」として把握する西脇の姿が見えるからである。そしてその運動は「意志を持たない運動」である。自律した運動である。

 ことばにも、そういう運動があるのではないだろうか。--というのは飛躍した空想だが、

詩はもう物理学として説明する方がいい

 と西脇は言っているのではないのか。そう感じるのである。(これは私の「感覚の意見」であって、何の根拠ももっていないのだが……。)「意味」ではなく、ことばとことばが引きつけあったりぶつかったりして自在に動いていくのが詩。自在といっても、ことばのなかにある素粒子によって運動は決められているのだけれど。
 私はわけのわからないことを書くのが好きなので、まあ、こんなふうに書いておく。ついでに、ことばの「素粒子」とは何かというと、「音」(音楽)であると私は思う。で、そのことを強引に発展させて、私は

詩はもうことばの物理学(ことば動詞の和音)として説明する方がよい

 と勝手に読み替えるのである。
 そして、それを実際にできないものだろうか、と考えるのである。
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西脇順三郎の一行(36)

2013-12-23 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(36)

 「第三の神話」(「第三の神話」は長い作品なので1行だけ選ぶのはつらい。現代詩文庫では48ページからはじまる。1ページに1行ずつ選んでいく。)


    あゝそれからまた                     (48ページ)

 この一行はイメージを持っていない。「絵」を持っていない。「第三の神話」は「秋分の日は晴れた/久しぶりに遠くの山がはつきり見える」で始まる。そして、見えたものを次々にことばにする。その見えたものは現実の風景とは限らない。漢詩のなかの風景、漢詩がことばで書いている風景も含まれる。ことばがつくりだす「イメージ」も含んでいる。
 ところが「あゝそれからまた」には、そういうものがない。
 --と、書いて、私は疑うのである。それはほんとうか。ほんとうに私には「絵」が見えないか。
 実は見える。はっきりと見える。
 何かを「見ている西脇」が見える。漢詩の「ことば」のなかの風景を見ながら、現実の風景を見ている、つまり風景を二重に重ね合わせている西脇が見える。
 ふたつの風景を重ねる、出会わせる、ということをしながら、それを「ことば」で動かしていく西脇が見える。あるいは、そういう「ことば」の動きが見える。
 現実の風景と漢詩の風景を何行か重ねると、「イメージ」が多くなりすぎる。動かなくなる。それを、何の意味もないことば「あゝそれからまた」という音で動かす。これは仕切りなおしのようなものだが、この意味の「ゆるんだ」音がなかなか楽しい。意味がゆるむから、意味を運ぶ「絵」が消えて、そこに西脇が現れる--という感じがする。
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西脇順三郎の一行(35)

2013-12-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(35)

 「より巧みなる者へ」

川のわきで曲つた庭がある

 西脇は「曲がる」ということばが好きである。西脇にとって「まっすぐ」には味がないのかもしれない。
 それにしても「曲つた庭」というものは、ない。「庭」は曲がらない。
 けれど、なぜだろう、「川のわきで曲つた庭がある」という1行を読むと、くっきりと情景が浮かぶ。私は「誤読」する。川が曲がっている。それが庭に接している。庭を囲むように川が曲がっている……。
 もっと言いなおすと。
 川に沿って、私の「肉体」は動く。「川のわきで曲つた」とということばといっしょに私は川のように曲がる。私はこのとき「川」なのである。川になって、曲がる。川には、何か人の動きを刺戟するものがあって、つまり川は渡るか、それに沿って歩くしかないものである。渡らないかぎりは、川に沿って歩く。だから、ときには「曲がる」。でも川に沿ってという行為そのものは曲がらない。つらぬかれる。
 そういう人間の「肉体」の動きがあって、その動きに連れて「庭」にであったとき、曲がるのは川ではなく庭なのだ。歩く(動く)人にとって道はどんな径路であろうと「まっすぐ」でしかない。
 「曲がる」ということばを西脇がつかうとき、西脇はほんとうは「曲がる」ということをしていない。そこに「曲がる」を貫く「まっすぐ」をみている。「曲がる」のなかにこそ、ふつうではとらえることのできない「まっすぐ」がある。「寂しい」と直結する「道」がある。

 私の書いていることは「矛盾」だが、そういう「矛盾」を誘う響きが西脇のことばにある。


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谷内 修三
思潮社
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