先日もリモート面会で元気な様子を見ましたが、
もうすっかり私の事は忘れました。
お母さん、と呼びかけると、
「お母さんは死にました」
深い意味はないでしょう。
自分の母親の事でしょう。
ずいぶん前から、自分がお母さんだという認識はありません。
「お母さん?お母さんはあなたでしょう?」
などと言われたり。
母をお母さんと呼ぶのは私だけで、その呼び名を大事にしたかったのですが、
混乱するようです。
名前で呼ばれた方が自分だとわかるのです。
介護をしていた知り合いが、
「みんなの事は忘れても、最後まで私を覚えてたの。私の名前は言えたの」
と言っていて、へぇ〜いいなあ、私もそうだといいなあ、と思いました。
そしてどこか、そうなるだろうなという自負がありました。
でも、実際忘れられると、
あれは言ってはいけないな、と思いました。
そこに望みを見出せる時期ならともかく、
もう忘れられてしまった介護者にはきつい。
自分の介護がいたらなかったから。
やさしくできなかったから。
通じ合ってなかった。
1番近くにいたのに。
あの人は献身的に介護したのだろう。
それに比べて私はどうだったのか…
とことん自己嫌悪。
と、なりますから。
私はもう忘れられているので言うことはありませんが。
そして、もう母に、覚えてる?わかる?と聞くのはやめようと思いました。
覚えてたり思い出したりして、本人も他者も安心するなら
それはいいのでしょう。
でも両者にとってつらい時期になったら。
母はもう認知症も重度なので。
先生に「じいちゃん」と言ってもそれはそれで。
もうすっかり私の事は忘れました。
お母さん、と呼びかけると、
「お母さんは死にました」
深い意味はないでしょう。
自分の母親の事でしょう。
ずいぶん前から、自分がお母さんだという認識はありません。
「お母さん?お母さんはあなたでしょう?」
などと言われたり。
母をお母さんと呼ぶのは私だけで、その呼び名を大事にしたかったのですが、
混乱するようです。
名前で呼ばれた方が自分だとわかるのです。
介護をしていた知り合いが、
「みんなの事は忘れても、最後まで私を覚えてたの。私の名前は言えたの」
と言っていて、へぇ〜いいなあ、私もそうだといいなあ、と思いました。
そしてどこか、そうなるだろうなという自負がありました。
でも、実際忘れられると、
あれは言ってはいけないな、と思いました。
そこに望みを見出せる時期ならともかく、
もう忘れられてしまった介護者にはきつい。
自分の介護がいたらなかったから。
やさしくできなかったから。
通じ合ってなかった。
1番近くにいたのに。
あの人は献身的に介護したのだろう。
それに比べて私はどうだったのか…
とことん自己嫌悪。
と、なりますから。
私はもう忘れられているので言うことはありませんが。
そして、もう母に、覚えてる?わかる?と聞くのはやめようと思いました。
覚えてたり思い出したりして、本人も他者も安心するなら
それはいいのでしょう。
でも両者にとってつらい時期になったら。
母はもう認知症も重度なので。
先生に「じいちゃん」と言ってもそれはそれで。