Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

彼岸過ぎ

2022-03-26 04:16:02 | ラジオ亭便り

春分が過ぎて太陽の恵みを有難く感じることが多い近況である。ほぼ日課になっているベイサイドウオーキングをしていて気になることがある.その一番がその日の風向きだ。二番目が季節の進行を知らせる道端の樹木、草花の変化。三番目に水の色がくる。旧暦でいうところの「雨水」は二月だが、この冬は横浜港に流れ込む河口部の中村川(最下流は堀川)、大岡川の透明度に感嘆する日が多かった。寿町や石川町を挟んで流れる中村川等では川底を覗くと、尺(30センチ)を優に超える黒鯛、フッコサイズのスズキが静かに餌を漁っている様子をしばしば目撃した。

この透明度も旧暦の「穀雨」がやってくる頃から、春の潮にブレンドされて青黒く濁り始める。水温が15度くらいに上がって水底を窺うことはできなくなる。いわゆる雑魚釣りの季節がやってくるのは、濁りが入って水も温む時候の5月過ぎである。

晩秋まで夢中になっていたハゼ釣りから三ヶ月遠ざかっている。本日はジャズオーディオの達人、ドクター桜井さんがラヂオ亭訪問の土曜日になっている。渋谷桜丘町で零細広告業をしていた時代からの20数年のお付き合いである。ジャズと釣りにおいて感性のニュアンス上の微差はあるものの一致点が多い。景気不振の冬籠中は寝床本ジャンルに釣り本が増えるのは致し方ない。景気が回復したら行くことになっている陽春の同行釣りが話題の一つになりそうだ。

本日は寝床本の中で示唆を受けたオイカワ(ヤマベ)釣りの餌話でも、ジャズ話題に挟もうと思っている。いつも生き餌しか使ったことがないヤマベ釣りに、パスタの茹で残しを使ってみることだ。これにサナギ粉をまぶしておく。昔からの解説本では書かれていても実行した試しがないので、生き餌の予備として持って行くにはCPも抜群である。さて今度は肝心の我々の生き餌予想である。安くて美味い炒飯を追い求めている桜井さんと一緒に、中華街の隠れた小店舗でもお付き合いしようと思っている。


現物支給

2022-03-18 09:32:11 | ラジオ亭便り

コロナウイルスの蔓延防止法が発動した頃から、平日の開店をしてみた.寒かった冬場のせいと老齢知人客のリピーターの減少に慌てる。そうなってからでは遅いが、臨時の業務請負バイトも混ぜる生活に戻している。昨日は早めに六本木駅へ向かい、古い友人宅の雑務を請負う。午前は収納庫の整頓だ。バカ重い115ボルトの電源トランスの移動に辟易していたら、その中に40年前に知人が買った浦上玉堂の全三冊画譜の美麗箱入りの大きな本が現れる。

直ぐにネットを検索してみたら随分と値上がりしている。処分を勧めたらマージン率をしっかりと提示してきた。売却額の25%だ。数秒で思い直すように20%にならないか?と提示してきた。その辺が資産家インテリで吝(ケチ)のメンタリティを天性から備えている知人らしい。提示には邪気がないところが良い。吝嗇なのだが、幼児の駆け引きめいた無邪気な気配がこの人をいつも救っている。こちらも長い貧乏生活の損続きお人好し人生から脱却しないといけない。25%を譲らず条件が通る。

次にクルマで訪問した時に収納庫内にある手付かずのスピーカーユニット類、デジタルアンプ等と一緒にその売却予定本も引き取ることにした。午後はPC内のアプリで開発道楽に励んでいる小型スピーカーのインピーダンス測定を、50ユニットくらい測る仕事が振られる。しかしアプリがどうしても立ち上がってこない。前回は順調だったが、こんどはお手上げで業務請負はここで中断となる。精算は拘束時間に基づくので、4時間の報酬は次週に含めることになった。

終えてからの休憩時間が来た。ワンダ・ランドフスカの1930年代に弾いたモーツアルトのピアノソナタのSP起こしの再生音を、知人が作ったスピーカーで聴かされる。これが蒙昧なレトロ感よりも、立ち上がりが鮮やかというリアリズム面の形容で褒めたら知人は喜んだ。空手で帰えすのは申し訳ないと思ったのか?前に誉めていた中国清時代の山水画が素朴な染付皿を土産にくれることになった。7寸位の磁器皿だが、古伊万里の律儀な精密画風とは一味違ってやはり風通しが良い。

興趣に溢れた皿が本日の「現物支給」になってしまったが、帰りはラッシュアワーを避けられてストレスは少ない。余力が残っていたので、読みかけの尊敬する歌人、坪野哲久「春服」を開いてその独自な存在論の自省の骨格に思いを馳せる時間になったが、お客さんの気配なき夕暮れが来てしまった

降りそそぐ雨 早咲きの夾竹桃 眼前のことしだいにさびし 

木琴の音 ひびかせて春分の路地きらきらし 木の芽のひかり

                       坪野哲久

 


体重が減る

2022-03-03 20:57:45 | ラジオ亭便り

去年の夏場よりも4キロ体重が減っている。68キロになった。膝痛で苦しむのと医者通いは嫌で歩き始めたら、一年目にして効果が現れたようだ。麦田、元町、山下橋、山下公園、赤れんがパーク、合同庁舎、馬車道、旧横浜市役所、花園橋、元町西の橋というのがウオーキングコースで、たまには伊勢佐木モールの西外れ迄、馬車道経由の直進コースもある。

昼飯はコリアキッチンの石焼ビビンパ660円。三吉橋バス停付近にある酔来亭の酔来丼、これは茹でもやし、焼豚、卵焼き、支那竹というまことに珍奇な組み合わせながら薄味のサッパリ系。400円という低廉価格にスープ迄ついてくる。独居爺さんには有り難いメニューだが、若い男女客はこれに軽い半ラーメンをオプションで注文する人も多い。

昨日は徹底玄米派の友人に奢ってもらい、玄米ランチに恵まれる。ハタハタの薄塩開き焼、大根の柚味噌、ヘルシー理念が露出気味な構成だが、これらの簡素食も体重減少には貢献しているようだ。あと3キロ減ればベスト体重ということで、明日も午前ウオーキングの日課に勤しんでから店を開けようと思っている。


「山頭火の宿」大山澄太

2022-02-21 22:00:16 | ラジオ亭便り

平日の高齢アルバイトから足を洗っておよそ一年経過。年初からカフェ営業日を増やしたら、皮肉にも変異型ウイルスが蔓延して客足もすっかり遠のく。少なめなお客さんとの宥和というか、懇親を心がける春近い日々である。音楽で隠遁しながら読書でも現実逃避の居心地を楽しむ。最新の安価古本の収穫は大山澄太「山頭火の宿」(彌生書房刊)。阪東橋バス停前の均一本から掘り出す。

明治生まれの山頭火を逝去する昭和10年代まで、句友としてリスペクトしつつ物的にも誠実に支えた方である。その方が俳人山頭火の「行乞」旅の日記、句作品との照合をしながら論じたのが本書だ。「行乞」とは托鉢のようなものらしい。法衣、笠、草鞋、鉢持参の出立ちで、地域ごとに戸別訪問を繰り返す。山頭火の場合は禅宗系の経文を唱えて、その日の宿代に充てられる米や小銭のお布施を頂戴して旅の凌ぎを重ねていた。

「西国33ヵ所 四国88ヶ所」の九州、四国地方、自分の故郷にも近い中国地方等を踏破している。普通の托鉢僧なら仏教の教義布教と修練を兼ねた道行きだが、山頭火の場合は少し違う。「行乞」は仏教的修養と共にある「吟行」の旅も兼ねていた。生涯の句作が8000余。絞り込んで自選した800の句が収められている「草木塔」は最良の入門書だ。私の愛好する素朴な諷詠句も宝箱のように満載されている。

大山氏と同じように山頭火の自由律俳句と生涯を研究していた上田都史さんには「評伝 山頭火」(潮文社新書)という本があって、その中で「ほいと」という言葉を知った。「ほいと」は普通の托鉢僧、札所を詣でるお遍路さんと区別する「乞食」を指した言葉である。山頭火の格好は、昔のテレビドラマで黒い法衣を纏った新劇俳優の北村和夫が演じたものが、うっすらと記憶の残像にあるが、実際は「ほいと」に紛らう惨憺たる襤褸姿が常態だったらしい。「山頭火の宿l」にも突然、訪ねた実妹の嫁ぎ先を「ほいと」姿の為に近所の人目につかない時間帯に送り出されるような悲しい挿話が挟まれている。

山頭火も数回の心安まる定住を目論んだことはあったが最期を除いて、長くは続かない元の無宿生活に戻ってしまうという業を重ねていた。行乞成績が良い場合の旅籠、又は木賃宿に独居。酒にありつけ、飯にもありつけ、温泉にも浸かれるというのは理想形で、九州の宮崎、熊本等では良い気分になって自然に囲まれて自足する山頭火の心の模様が伝わってくる。

しかし良いことは続かない。喜捨、お布施の貰いが悪い時は飢える事もしばしば、絶食、絶酒の事態を招いている。風体や路銀不足によって宿を断られた四国の行脚では、惨憺たる野宿もあったようだ。犬に吠えられたり、噛まれる、お布施の米袋をネズミに齧られる。無人のお堂に起居して地元の住民に追い立てられる。誠に山あり谷ありの苦行旅だが、肝心の句作は素朴で静謐な心の自然なる滴りのような良い言葉を量産している。

大山澄太著の宿論で感銘したのが、90ページ付近から展開される挿話である。土佐の行脚も懲り懲りするような野宿もあれば、貧乏人一家との思わぬ邂逅話が混じって面白い。本来なら「ほいと」容姿でお貰いが立場の山頭火に、逆に米を譲って欲しいと主婦は声をかける。山頭火は応じて貰った報酬で主人と飲む酒や子供の食料を調達してくる。一家はありったけの食材で饗応してくれる。器も布団も揃っていない掘立て小屋だ。その貧乏家で2泊する山頭火の素直な喜びが滋味のように伝播する。その家で契機となった良縁がさらに奥地の仁淀川沿いの池川という町の行乞の好成績を招くというこれは良い方の話である。

 

 


ときどきの客

2022-02-15 07:48:18 | ラジオ亭便り

店の付近には竹の丸、鷺山という町名の区画がある。横浜特有の坂を上り下りする丘陵地に住宅が密集している地域だ。その辺りに住んでいる同年輩に見える方がひょっこり現れた。ラヂオ亭が山元町から麦田へ移転した5年前頃、毎日のように寄られた方だが、久しく顔を見なかった。独居と聞いていたので病気でもして身動きが取れないのか?と時々思い出す人だが、以前受けていた病み上がり感は消えていて安心する。コーヒーを美味そうに啜るとせいぜい20分くらいで帰ってしまう。しかし時折交わす雑談は床屋政談やメディア受け売り風時局話にならない程度に面白い。昨日もカフェは定休日なのにドアを半開きにして夕方の読書タイムをしている時だった。そこへ先週に引き続いて寄って頂いた。

昨日のチョッピリ雑談はコロナウイルスの世界的流行の原因説について。彼の珍見解では中国道教の呪術が齎した収拾がつかない事態ということである。これがコロナ流行の初期に流された武漢研究所漏洩説に結びつく話なのか?確かめることはできなかった。彼によれば日本の古代史に登場する卑弥呼、須佐之男命のような人物もこの中国道教とは無縁ではないらしい。記紀神話に登場する人物の係累図は生齧りの自分などでは到底理解できない。しかし彼の中では神道と仏教を含めた相関図は透明に仕上がっている様子である。後年の天台、真言について語る口調、各地の社寺についてのフィールドワークで鍛えられた独自の神仏論を溜めている様子は端々に散見されている。

昨年に、私が嵯峨野を散策ついでに「松尾大社」に寄ったことに触れたら、彼は「あなたから以前に感じたクロい異物感が消えている」と松尾を祀っている神へのポジティブな評価をチラッと伺わせていた。彼流の魔術、魔界神仏と善良神仏を隔てる仕分け基準がどのように成されているのか、もう少し知ってみたい気分になっている