星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

左手で草を抜く

2007-09-27 | NO SMOKING
阪神電車の全路線距離はとても短い。
そして、阪急やJRに比べると、駅と駅の間が、短い。
そのことにあらためて気づいたのは、30代でぎっくり腰になった時だ。

座るのと、立ったままの方が楽か、迷った末、バーに力入れてそっと座席に座る。
発車…「ウオっとー」腰に振動が伝わらないようにぐっと腕に力を入れる。
やっとスムーズに走り始めたと思ったら、すぐに次の駅に着く。
ブレーキの「カックン」…これが腰にどんなに響くかは、魔女の一撃を経験した人にしかわからない。
運転手の中には、まるで急発進、急ブレーキを楽しんでいるかのような○○がいて、朝から呪いをかけるに近い気分になる。でも運転手に呪いがかかったら迷惑を被るのは乗客なので、目尻に涙したお願いに変える。
それだけでも、カァーっとなるのに、乗っている間中、腰への打撃を少しでも少なくするために、両腕に力を込めるから、35分後勤め先の最寄り駅で下車する時には、大汗をかいて、肩がガチガチになった。

(えーっと、腰の話じゃないわ。)

右足膝を負傷して2ヶ月ギブスをして、電車に乗って通ったことがある。
その時、駅の自動改札というのは、健康な成人男子に合わせてつくられた機械であることがわかった。切符や定期券を入れた人が1秒後にサッと取り出すことでスムースな人の流れが生まれる。一人でもそこに到達するのが遅れると、後ろにいる何名かの人を朝から不機嫌にさせる。結局通勤で混み合う時間を避けて、私はいつもより半時間以上早く家を出ることにした。おかげでそれまで見たことのないような素晴らしい朝焼けを見ることができた。

(えーっと、足の膝の話でもないの。)

左手の話。この間、思いがけずガラスで右手を切った。右手の親指、傷はかなり深い。夜中だったから、指の付け根をジッと押さえて止血。なぜか、引き出しいっぱいある滅菌ガーゼで押さえて1時間。やっと、止まった。
親指なので、1週間くらい右手が使えなくなった。
こうなって初めて、自分がほとんどのことを右手でやってきたことに気づく。今までずっとサボっていた私の左手よ、頑張るんだ。君にもできる。

そう、この際積極的に左手を鍛えよう。使ってなかった身体の部分を使うんだ。
足の指で素晴らしい絵を描く人がいる。すごいなぁと毎年絵はがきに感心しても、それを描くまでに、どんな努力があったのかは知らない。絶望を経験した後の希望の絵筆に、ひれ伏し絵葉書を買う。

これから、どんどん衰えに向かう自身の身体、いつか自分も障害者になる。使ってちびていくなら諦めがつくけど、使わなかったから駄目になってしまったというのは、悲しい悔いが残る。というわけで、左手を使おう。

…左手で歯磨きが上手くできるようになった頃、右手の絆創膏もとれた。

今日は秋のわが町クリーン作戦だった。左手で草を抜いた。案外上手に抜けた。草の根っこの当たりから、蟻がわらわらと、飛び出してきて右往左往する。彼らに声があったら「なんだ、なんだ、何するんだ!」と叫んでいるに違いない。

本国ではあまり知られていないのに、日本の子ども達はみんな知ってるお話、というのに、「フランダースの犬」と、「ファーブル昆虫記」がある。なぜだろう?翻訳が良かった、挿絵が良かった、編集者に力があった?いやー、きっと「一寸の虫にも5分の魂」っていう諺のおかげかもしれない。などと思いながら、歩道のコンクリートの上に風で運ばれた僅かな土にもたくましく根を張った草を抜いていた。

というわけで、腰がいたーい。(↓の草は決して抜かないように)
                 
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レンブラントの七夕夫婦

2007-09-26 | 持ち帰り展覧会
兵庫県立美術館の「巨匠と出会う名画展」に行ってきた。

やはり持ち帰りは、ルノアールの「水浴する女」、あまりに眩しすぎて、隣に展示されているボナールの「化粧室の裸婦」が気の毒になるほどだ。今まで輪郭がぼやーっとして、公衆浴場みたいな雰囲気のルノアールの裸婦像はあまり好きではなかった。でも、これは違う。文句なく美しい。女の子、いや女性なら、だれもが、一度はこんな時代があったと、夢見てしまう。

でも裸婦像の絵の題名、いつも気になる。水浴って?…「森の精」?
う~ん、少女の名前の方がいいわ。この少女にふさわしい名前を考えてみよう。

今回の目玉は、1枚で、一部屋もらっている、これぞ巨匠のレンブラント。
国内にある3枚のレンブラントの1枚、「広つば帽を被った男」。
おそらく川村記念美術館をつくるきっかけになった絵だと思う。

1635年、レンブラント29歳の作品。
男は自信たっぷりの壮年期のアントワープ商人である。この絵は、奥さんと対になっていたのに、いつしか離ればなれになってしまって、今は奥さんは、アメリカにいるらしい。

どんな奥さんか、気になってしょうがないので、帰ってきて探してみた。
…彼女はクリーヴランド美術館にいました。とても綺麗な奥さんです。
帰らぬ夫をひたすら待ち続けている気がします。

  

1992年、この絵が来日して、このご夫婦は、300年ぶりに再会したそうな。
今度会うのはいつになるのでしょうね。
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包帯クラブに入ります

2007-09-25 | 劇空間
柳楽優弥君、やっと君の映画ができましたね。「包帯クラブ」




連休最終日、駅前のMINTに集客されてるのか、久しぶりのセンター街シネフェニックスは、人が少ない。空と駅前の雑踏が見晴らせるここの明るいロビーが好きだ。

スタッフがほとんどいないフロアには、ワンカップ200円で飲み放題のコーラ。スナックの入った温め自販機が置いてある。フロアで開場を待っていたのは、わたしたちと高齢の男性2人以外は、若い高校生十数人だった。自販機がよく似合う場所である。

温め機械、試してみたい。機械から女の子二人が離れソファーに座ったので、では、私もやってみようと300円入れて、鯛焼きのボタンを押したら、先程の女の子達があわててやって来た。よく見ると、からあげくん温め中の赤ランプ。50・49・48…と、残り時間が点滅している。「フライングしたのね、ごめんなさい。」といってるうちに、緑のランプに変わった。女の子がサッと手を出したので、「熱いから気をつけて」といったら、上手に紙ナプキンで押さえて取り出した。「お先で~す」と彼女達は去っていった。
サァ入れるわよ。鯛焼き50秒と書いてあるのに数字は120から始まった…できたー。さっき偉そうに人に気をつけてなんて言ったくせに、アッチッチ、アッチッチ、と何度も取り損なう。高校生の前でとても恥ずかしかった。でも、なんだか楽しかった。ポスターの中から、柳楽君が「ドンマイ、ドンマイ」と言ってるような気がした。

こんな始まりの「包帯クラブ」…良かったですー。

     ~外の景色と、心の中の風景は、つながっている~

映画を観て、明るいロビーに出たら、大きな窓から、下の雑踏に向かって、
「おーい、ゲームセンターにいる高校生諸君、この映画、観においでー!」
と叫びたくなった。
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他のページは?

2007-09-25 | 持ち帰り展覧会
西宮市大谷記念美術館で開かれている「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」には、大勢の人が来ていた。

私は、2000年の原画展で買った絵葉書を今も大切にしている。
イタリア人ヴィットリア・ファッチーニさんの
「エンドウ豆とちょうちょさん、男の子と女の子、どっちがすてき?」





この本の他のページでは、どんなことを比較してるのか、ぜひ見てみたい。

まだ大谷美術館が、畳敷きの旧館だった頃、この絵本展で、佐野洋子さんの作品に出会った。油紙のようなゴワゴワした茶色の紙に描かれたオレンジ色の女の子。その女の子と私、目がねー、あってしまったの。

            

今年の原画展では、こんな経験はできなかったけど、他のページも見たいと思った作品があった。

ドイツのロッテ・ブラウニングさんの「かげのお話」
~ここは、影が願望をあらわしてしまうサトラレの街。ペンギンさんの影はクジラ、歩く男女の影はキスしてる、街灯の影は樹木、お転婆な自転車に乗った女の子の影は、男の子をぐるぐる巻きにしてる。この街を歩く私の影はどんな形をしてるんだろう?

ブラジルのエリー・ナカヤマさんの「みんなの家」
~2羽のカラスが紙袋に入ってる組立式の家、電熱器のコードをぐるぐるたどる暖かそうなモグラの家、チーズの穴のようなカラフルなテントウ虫の家。私の家はどんな形をしてるんだろう?彼らに対抗しようと思ったら、四角では、さみしいな。

イタリアのマリアンナ・フルヴィさんの「外出」にも気になる子がいた。
 この子、猫なんだって。
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水車のまわる音

2007-09-23 | NO SMOKING
いつのまにか臨港線の林檎園のリンゴが枯れそうな葉っぱだけになっていた。
調べたらなんと、9月3日に収穫行事があったという。
8月の末には、まだ青かったのに…。リンゴってわずか3日で色づくものだったの?暑い暑いといってる私の一歩先で季節は変わっていた。
 
そういえば、汗かいて、見上げる彼岸の空は、少しだけ秋の風情。
夏の間にぐんぐん育ちすぎたユリノキの葉っぱも黄色くなり始めている。

               

でも、まだ日中、外出の際には、小さなうちわと、水が欠かせない。
あ、それとレジ袋用のマイバックを忘れないようにしなくちゃ。

さぁ、行くぞー。ディートリヒ号でお出かけだい。目指すは、芦屋市立美術博物館の
「六甲山系の水車」という涼しそうな、シンポジウム。
私の頭の中のイメージは、小川のほとりの水車小屋。
きれいな水の流れに、コットンコットン回る水車。そばにはトンボが舞っている。
…おー、蜻蛉洲(あきつしま)、のどかな日本。

ところが、…そうではなかった。
六甲山の水車というのは、水車小屋ではない。水を動力源とした工場だった。
地域経済の最先端をいく、活力あふれる産業の場であった。そこでは、菜種・綿実から油を絞り、灘の酒用の精米が行われた。大きな柱で屋根のある建造物であった。



六甲山の山あいに木を切って空き地を造成し、水車場を造る。
石垣で固めた幅90㎝くらいの滝壺という溝を掘って、直径5㍍の大水車を設置する。
川からそこへ、水路をつくって水を流し、とうとうと流れくる水に、水車がゴットンゴットンと回る。それと同時に、半地下状につくられた作業所では、何十台もの石臼が一斉にグヮーングヮーンと回る。汗流し忙しく働く男達の世界。

六甲山系に水車が設置されたのは、文書では、1704年。僅か300年前である。菜種・綿実を粉に挽き、油を絞ることから始まり、やがて18世紀中頃から台頭した灘の酒造りのための、精米用水車が多く建造された。(ちなみに、宮水が酒造に用いられ始めたのは1840年、意外に最近のことだった。)明治の頃になると、素麺用の粉も碾いている。

小学生がダイヤル電話を使えないように、もはや使わなくなった道具の使い方や使う理由、使用感は、私達には謎である。私達が使っているものも、未来人にとっては謎になるのだ。

シンポジウムは、六甲芦屋の水車場発掘状況の報告が中心であったが、水車がどんな風に回り、どのような人達がそこで働いていたのか、過ぎ去った庶民の暮らしは、廃墟の跡からだけでは、正確にわからない。
もはや民俗学の対象となりつつある、江戸明治大正の庶民の暮らし。六甲の谷合で水車がどんな音をたてて回っていたのだろう。人々はどんな思いでその音を聞いていたのだろう。

竹中靖一著「六甲」(朋文堂1933刊)という昭和の初めに民間伝承を聞き取りまとめた本の中に出てくる、芦屋川の「金兵衛車」の話が紹介された。

江戸時代、お上に献上する清酒の米を精米する水車には、特別の格式があり、そこで働く男達は、水車場に入る前には川で身を清め、全部仕事を終えるまで一歩も外に出てはならぬこと、その間誰とも会うことはならないこと、などの掟があった。この季節労働には、丹波の村から人を集めた。その年丹波の村で出仕を命ぜられた男には恋人がいた。恋人の彼女には、彼のいない間に他の男との縁談が持ち上がり、彼を恋しい彼女は、山を越え、彼が入ってる金兵衛車にやって来て必死で彼の名を呼んだ。しかし、会うことは許されない。ついに彼女は炎となって水車場を焼き尽くした。という話である。
そして、この話の最後は、焼けた水車の跡にはまた新しい水車が作られ、それは今日も芦屋の谷合で、ごとんごとんと音を立てながら回っている。というものだった。
…そう、昭和の初めまで回っている水車はあった。昭和13年の阪神大水害を機にその多くが失われたのだ。

恋いこがれた彼女は炎になったが、水瓶座の私は、違う恋の物語を想像する。
…彼女は、小さな小さな人になった。水車の輪に飛び込んで、水の中から一目彼を見たかった。その後流されてもいい。一目あの人を見ることさえできたら…。ゴトンゴトンと水車は、私の鼓動に似た音をたて、その音はこれからもずっと彼の耳に届くはず。

…水車ではないけど、大阪のビルの狭間に、カタンカタンと赤い観覧車が回っている。私はあれをみるたびに、雄大な景色がみれるわけでもないあの観覧車には、大都会の中に住む誰かを、一目みたいと思って乗る人がいるような気がする。遠くても、上から見たら隔てるものがない、というかすかな希望を持って、誰かを捜し求めている、苦しい恋をしている人が、カタンカタンと音立てる自分の胸の鼓動を聴きながら乗っているような気がするのだ。
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千秋楽の「エレンディラ」

2007-09-19 | 劇空間
シアターブラバのロビーに鳴りだした音楽で、私は20年も前のランボォが出てくるサントリーのCMを思い出した。動き出した楽隊に導かれるように、私は入場し座席に着いたのだった。

     

開演前から何だか贅沢な予感がする蜷川芝居、「エレンディラ」の千秋楽。
パンフレットには、21世紀最高の「見世物祝祭劇」とある。
蜷川演出といっても、エレンディラというのは、ギリシア悲劇ではない。
ガルシア・マルケス原作、南米コロンビアの話を、坂手洋二さんが、3幕の悲劇に脚本化した。

1F客席の後ろ中央パイプ椅子には、蜷川幸雄氏が座っていた。

舞台前面全体をおおう紗幕。
その後ろの白い光の中、バスタブが優雅に舞い上がっていく。シュールな世界の始まり。…紗幕の向こうの、屋敷内には、エネルギッシュな巨体の老女と、「はい、お婆さん」としか言わない少女が住んでいる。時折ダチョウが舞台を横切っていく。
やがて、強風が吹いた夜の、炎上シーン。
…映像と照明がコラボして、0.1秒たりともずれてはいないプロの舞台芸術を見せてくれる。ワクワク。

群衆ダンサーの踊りも素晴らしい。
風景は寂しい砂漠に変わり、白い翼の男が登場する。彼は何者?

3幕物で4時間に及ぶ劇の間中、「エレンディラ」という名前が何度も何度も唱えられる。名を呼ぶことで伝説になるかのように。

祖母の屋敷を失火によって消失させた罪を背負わされた少女エレンディラは、償いを求める祖母によって娼婦にされる。彼らは砂漠中をテントで移動した。
どこに行ってもそのテントの入り口には、強欲な巨体の祖母と、好色な男達が並ぶ。どこまでも続く行列。男達は順番にテントに入っては出てくる。テントのまわりには大道芸人。やがて砂漠中でエレンディラのことを知らない男はいなくなった。

この行列に、私は嫌悪感を抱いた。この状況を、祝祭とよぶのか?と。
この可哀想な少女が、どうして伝説になるのだろう。

(彼女を一目見て恋に堕ちる主人公ウリセスは、中川晃教君。初見である。セリフ・演技が、宝塚の男役みたいだ。これは爽やかだと誉めてるの。だから「君が僕のすべて。僕にとって君を失うのは全てを失うということ」などという、キザなセリフも許せる。
エレンディラは、美波さん。昨年の「贋作・罪と罰」で松たか子さんの妹役でいい演技していた人だ。今回は脱ぎます。見事に、何度も。鎖をつけ、後ろ向きに舞台をぐるぐる回るあなたは、本当に体当たり演技。)

ウリセスは、彼女のために、祖母を殺す。毒薬では死なない、魔女のような巨体のお婆さんを、剣で刺し殺す。緑色の血に染まる巨体。
自由になったエレンディラは、ウリセスの前から姿を消し、砂漠を抜け出し、海を見に行ってしまう。祖母を殺したウリセスには白い翼が生えるが、彼女のところへ飛んで行くことはできない。

この時なぜ、エレンディラは彼から去っていったのか?
ウリセスにはなぜ翼が生えたのか?願いによって翼は生えるものではない。ある時翼は生えてしまうのだ。翼が生えると男は飛ばなければならない。神話的必然だ。

第3幕では、エレンディラのことを小説に書いた作家が登場する(渋いというより、1F後部席では聞き取りにくいほど声が小さい、私の中ではトレーニング不足の×俳優)。エレンディラを世に広め伝説にした人物だ。

伝説は彼が作ったのか?
…その謎は、時が経ち、祖母とそっくりの巨体となったエレンディラによって明かされる。

これは、エレンディラ自身がつくり上げた伝説だったのだ。
自由を手に入れるために、祖母を殺したエレンディラ。
彼女はつくった。…砂漠の娼婦の彼女に、ひたすら愛を捧げる、美しい青年を。彼女のためには殺人さえ犯す、オレンジをダイヤモンドに変える男を。殺人を犯した後は白い翼で飛び立った男の伝説を。

この日の幕間に、私は、難解なガルシア・マルケスから、意外にシンプルなメッセージを受け取った。それは、
女はもともと自身が世界の中心として存在している。
男達は世界の中心はどこかと探しながら放浪している。
SEXという行為は、まさに世界の中心はここだーと叫ぶ行為なんだ。
という、恥ずかしいくらい青々しいものだった。
でも、それは女系社会の神話そのものであるような気もする。

楽隊以外のマイケル・ナイマンの音楽は、旋律の定かではない長い憂鬱な曲が多く、中川君も瑳川哲朗さんも、よく歌えたものだと感心する。瑳川さんは素晴らしかった。「ハウルの城」に出てくる荒地の魔女のように、最初は無情な巨体の老婆が哀れみのある人物に変わっていった。さっきのメッセージはあなたから受け取ったのかもしれない。

千秋楽のフィナーレ。やはり瑳川さん登場で、スタンディングが始まった。前の人が立つと、見えないから次々と立っていく。やがて全員総立ち。舞台には蜷川さんんも登場した。繰り返されるカーテンコール。役者が手を振ると、より高く手を掲げて拍手で応える観客。
…今日の本当の祝祭はこの瞬間訪れたような気がした。どこかから、ランボォの楽隊の音が聞こえてきた。
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ペルシャ猫はいなかった

2007-09-11 | 持ち帰り展覧会
大阪歴史博物館は、どちらでしょう?
 

ここの窓から見える風景
                   
…大阪城の天守閣が、高層ビルに守られている。
背後から包囲されてるようにも見える。
大手門の正面には、大阪府警本部、上の右写真の建物が建っている。
先日炎天下マラソン選手達が走ったお堀端…ここからも観戦できたのね。

さて、「ペルシャ文明展」である。アケメネス朝の宝物「有翼ライオンの黄金のリュトン」も、スタンプになると、なんだか大阪っぽくなる。
               

ペルシアといっても、サーディやハーフィズのイスラム詩人達が登場するずっと以前のペルシア、ササン朝までの遺跡文化である。

前1500~前800年という幅広い年代推定がされている、カスピ海の南西ギーラーン州の墳墓から出土した、スタイリッシュな動物たち。彼らは、注ぎ口がついている磨かれた土器、洗練された埴輪だ。


                   
  
メディア・アケメネス朝以前のイランの都市国家については、今までほとんど知らなかった。世界史の教科書でもほとんど触れていない。今回、エラム王国という国の存在を始めて認識した。現存する世界最大のジグラッドは、前13世紀のこの国の王ウンシュガルが建造したもので、この国はハンムラビ法典石碑をバビロンから奪取するほど勢力を誇った時代もあり、7世紀アッシリアに滅ぼされるまで、首都シューシュ(スーサ)を中心に栄えていたという。宗教上の都が、世界文化遺産のチョガザンビルだ。

大陸に残る数多くの遺跡は、国は滅びるものだと、教えている。決して人がいなくなるわけではない。しかし支配体制が崩壊すると、その支配の拠点は破壊される。

壮麗を極めた、アケメネス朝のペルセポリスも、アレクサンダー大王によって破壊された。ダレイオス1世が建造した帝国の首都、かつてその宮殿の謁見の間には高さ20mの列柱が並び、てっぺんには怖いライオンの像の柱頭がついていた。展示されている柱頭のライオンの大きな足から、その大きさが想像できる。

黒いマスティフ犬。謁見の間に、貢ぎ物を持ってやってきた諸国の使者達を、まず迎えるのが彼だ。その頭をなでる気には到底いたらない、怖くて美しい犬。
シャーロック・ホームズの「パスカヴィル家の犬」のイメージ?
いや、この黒い犬の黒は「スター・ウォーズ」の黒。
スター・ウォーズの帝国のイメージを、遡ればここに至る、ペルセポリスはそんな場所であったような気がする。

豊臣政権の拠点、大阪城も落城した。今の大阪城は、その破壊した瓦礫の上に、土をかぶせ、石で固めて、新たに徳川政権の、権力の象徴として、建造されたものだ。その天守閣は1665年の落雷で失なわれた。だから、それ以後の江戸時代は、天守閣のないお城だったのだ。
今の天守閣が造られたのは、1931年、關一という、大阪の歴史を語る上で欠かせない、大大阪時代の市長の頃である。(「大大阪」というのは、関東大震災の後、1925年国勢調査で、大阪の人口が東京を2万人上回り日本一、世界第6位の都市になったことからそう呼ばれたと、ペルシャ文明展の後、回った常設展示で知った。)

ペルシャに行ったつもりが、正直、窓から見える大阪城天守閣に、心が動いた。あの大阪城は豊臣秀吉が造ったお城だと思っていた小学生の私が蘇る。私はまだあの天守閣に上ったことがない。
破壊の跡を完全に消し去った時、そこが破壊されたことを人は忘れるのだろうか。
いや、破壊されたままというのが、忘れられている証拠なのだ。博物館には残っても忘れられている。
再建という行為が、新たな歴史をつくっていくということであり、忘れられていない証拠なのかもしれない。鉄筋コンクリートの天守閣であっても。

ペルシア文明展に展示されている物達は、現在の私と、2000年以上昔の人々を繋ぐ。しかし当時の人達が残したいものが、残ったのだろうか。残したい思いは物ではなく、違うものに伝わっているのかもしれない。
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しましまクッキー

2007-09-08 | クロネコチャン
クロネコチャンは野良猫だった。
彼女が私に近付いたのは、うちにいたクッキーという牡猫に恋していたからだ。

先住猫クッキーは、ある日向こうからやってきた。なんと玄関から。
初夏の頃、台所で私がチーズを切っているときに、
なんだかドアの向こうに誰か来た気配がして、ドアを開けると彼がいた。
茶色というより、しましまのハンサムな金色猫だった。
自分から入ってきて、私がチーズを出すと、モグモグ食べて、
そのままうちに居着いてしまった、不思議猫だ。
当時盛んにCMしていた、しましまクッキーから名前がついた。
チーズの他に、海苔と羊羹を好んで食べたから、おばあちゃんに飼われていたのかもしれない。



クッキーが、日だまりで寝ていると、彼の周りは後光が射してるみたいに輝いていた。
私はいつも幸せな気分で、うっとりとライオン丸クッキーを見ていた。
クッキーは声が出なかった。
外に出たら、いつも律儀に鉄の扉の玄関から帰ってきた。
私には、扉の外で、彼が「クーッ」と喉を鳴らす音が聞こえた。
きっと音以外の何かを彼は私に向かって出していたのだと思う。

外で、クッキーが何をしているのかというと、自転車の後ろカゴに入って寝ている。狩りとか、喧嘩とかとは無縁の(ようにみえる)ネコだった。

翌年の春先、自転車カゴにはもう一匹猫が入っていた。クッキーのおなかの上で、小さなキジ猫が寝ていたのだ。私が近付くと、その仔猫は「フッギャー!」と、凄いだみ声を出して、カゴから飛び出してどこかに行ってしまった。

毎日、その牝のキジトラ仔猫は、クッキーの温もりを求めて、自転車かごの中に入っているようになった。
クッキーは、その仔猫を踏み台にしてカゴから出てきたりして、どう見ても、仔猫の方が一途に彼を慕っているという関係に見えた。
仔猫は、クッキーが私を見ると自分のそばから離れ、私と一緒にドアの中に去って行くので、いつも私を正面から睨んで、敵視していた。私の出すチーズもカリカリも食べなかったし、誘っても決して近付いて来なかった。

春の終わり頃、クッキーが押し入れの中から出てこなくなり、無理矢理出したら、小刻みに震えている。自転車で獣医さんまで夙川沿いの道を猛スピードで走った。
獣医さんはレントゲン写真をみせて、「この猫ははもともと腸がとても短くて、よく今まで生きている方です。」と、救いのない話をした。長い点滴をした。
帰り道、自転車の後ろカゴの中でぐたっとしたクッキーは、ほとんど動きがなかったのに、突然バーンと、蓋をける音がした。それが、クッキーが振り絞った最後の力だった。
その日、川沿いの道には、桜吹雪が、目に入って、前に進めないくらい舞っていた。

          

クッキーがいなくなっても、そのキジ猫は自転車カゴに入っていた。相変わらず私を見たら「ふっぎゃー」と叫んでどこかに消える。それでも毎日やってきて、時にはドアの前で鳴いている。クッキーを呼んでいるのだ。その時の鳴き声はふっぎゃーとはほど遠い、優しく、悲しい「ニャ~オ~」だった。
やがて、痩せた小さな彼女の身体が、一目みてわかるくらい膨らんできた。
もしかしてクッキーが?
あのおとなしい野生のかけらもなかったクッキーが?
こんな細々としたいたいけな女の子を?

クッキーの子供が生まれるかもしれない、ワクワクした。
なんとか、引き入れようとしたけど、彼女は家には入ってこなかった。
やがて出産、彼女が近所の資材置き場に隠している仔猫はどうやら2匹。真っ黒ちゃんと、クッキーに似た茶色のしましま猫と確認した。
私を、クッキーとの思い出を共有する仲間として承認してくれたのか、彼女はやっと、我が家の軒下でカリカリを食べ、ミルクを飲むようになった。
それでも、仔猫は近づけようとしない。
近所の子ども達が、仔猫を運ぶ彼女を見て、「仔猫を食べてる」と、騒ぎだした。
私は子ども達に、酒屋の前の看板をみせて、「ネコさんはああやって、傷つけないように仔猫を運んでいるのよ」と、説明した。子ども達は、彼女に「クロネコヤマトノタッキュウビンチャン」という長い名前をつけた。キジトラネコなのに、やがて彼女は「クロネコチャン」という、とても健康運のある名で呼ばれるようになった。

仔猫たちは、一月も経たないうちに姿を見せなくなった。
私は無理矢理にでも、拉致すればよかったと、心から後悔した。
クロネコチャンは、窓から自由に我が家に出入りするようになって、いつのまにか
フッギャーとは言わなくなった。
じっと私の目を見て言いたいことを伝え、私に反省を促す大人のネコになった。
その家を出ることになった時、私がおずおずと、「一緒に来る?」って聞いたら、即座に「ニャ~オ」と応えた。私には「当然よ」と聞こえた。

こうして、クロネコチャンは、このベランダで、私と一緒に月を眺めるネコになった。
長ーい時間、彼女が月に帰るまで。
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クロネコチャンのいる礼拝堂

2007-09-05 | クロネコチャン
☆クロネコチャン、どうしてる?
あなたが月に帰ってから、3年めの秋を迎えようとしています。。
2年前、ご近所のアメショー君と遊んでいたら、くしゃみが止まらなくなって、お医者さんに行ったら、信じられないことに、ネコアレルギーだと診断されました。
あなたと寝起きを共にした20年間、そんなことはなかったのに…
仕方ないので、里親さんブログを覗くのやめて、このブログを始めました。
それから、1年。これが176個目。あなたに届いてるかなー☆

この夏の終わり、1m競走なんて競技があったら、きっとクロネコチャンにかなう人間はいないだろうなぁ、なんて思いながら、TVで世界陸上を観戦。
短距離レースの黒人選手の素晴らしい身体の動きを見ているうちに、1万5千年前の人類が地上に残した壁画のことを思い出した。
そう、ラスコーの洞窟壁画。こんな元気な牛さんたちを追っていた時代、全速力で走る人間がいたはず。こんな絵を描くプロの芸術家もいたのだから。
「ラスコーの壁画には夏の大三角も描かれている」ことが、最近発見された。はくちょう座のデネブは鳥人間、こと座のベガは牛の目、わし座のアルタイルは棒上の鳥として描かれているという。探せば、お月様も当然ある(はず)。

               

調べたら、洞窟は保存の為に1963年から完全閉鎖されていて、近くにラスコー2というレプリカ博物館があるとのこと。残念。でも、ラスコー洞窟のHPがとても素敵だったので、そこにどうしたらたどり着けるのかと、うろうろとフランスのブログ紀行をしていたら、これが、時間を忘れるほど楽しい。イル・ド・フランス…ジャン・コクトーってハンサムねぇー、なんて見てたら、
ミリ・ラ・フォレという小さな町の礼拝堂(シャペル・サン・ブレーズ・デ・サンプル)で、
クロネコチャンを発見!!



この草食べてもいいのかな?なんて見上げてるんでしょ。
それはね、ゲンチアナっていう、胃薬になる薬草なの。
もしかして、コクトーさんは胃痛に苦しんでいたのかな?
アヘン中毒だった若かりし頃を反省したのかもしれない。
薬草園の中の礼拝堂に、クロネコチャンそっくりの、
可愛いスフィンクスを描いて、永遠の眠りについているなんてね。
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アスリートのゴール

2007-09-01 | NO SMOKING
朝から「50㎞競歩」という過酷なレースを、アイロンをかけながら見ていた。
エアコンつけた部屋のTVの前でアクビをしながら寝ているネコと、炎天下をひたすら歩いてる人間達。なんとなくアイロン台など出してきたのは、彼らと自分との距離感を調整するためなのかもしれない。でもやはり自分がどちらに近いかといわれれば…

大阪の炎天下、走りたい本能を押さえて、選手がひたすら歩いている。
早さは、時速15.6㎞(20㎞世界記録)というから、通常歩く速さの4倍、自転車を漕ぐ速度くらいだ。
厳しいルールが二つ、①両方の足が同時に地面を離れてはならない②着地から身体の真下に来るまで膝を伸ばしておかなければならない。
これをチェックするため、ひたすら同じルートをぐるぐるまわる。マラソンのように、沿道の風景が変わるわけでもない。
まるで、最初から、罰ゲームのような、なんだか見ていて胸が痛くなる競技だ。

100Mのゲイ選手の走ってる時の顔のゆがみは、スロー映像で見ると凄かった。
瞬間もの凄い風圧を自ら作り出しているのだ。でも、たかが10秒のこと。
競歩の選手の苦痛は長い。4時間に及ぶ。

次々と選手が倒れていく。もどしてもまた歩く。熱中症の実況中継みたいだ。
40㎞を越えて倒れる選手、こんなことなら2㎞くらいで足がつった方が良かったかもしれない、なんて思う人は観戦者失格ね。限界状況に挑戦するのがアスリートなんだから。
「より早く、より高く」を目指して、今の自分の限界を越えようとする選手の姿に私は感動する。だけど、競歩は、なぜ無理して歩かなければならないの?と、つい思ってしまう。禁止事項の上に成り立つ、故意に作り出した過酷なスポーツのような気がする。
とにかくもう、ゴール目指してがんばれーっていうしかない。

と、レース終盤…持っていたアイロンを、落としそうになった。
なんと、日本人トップの山崎選手を、係員が間違って誘導してしまったのだ。
頭から水をかぶって、苦悶の表情をうかべ、時々よろめきながらもひたすらゴール目指して歩いていた山崎選手。
その彼を、なんと、係員が、間違って誘導してしまった。
1周はやく、スタジアムに入ってしまう山崎選手。
本人は、自分が間違っているなんて思っていない。
あと少しでゴール、あと少し…と、一歩一歩、足を進める。
このままいったら失格になってしまう。今までの4時間近くの努力が…。
関係者、何してるの。早く、早く、つたえてよー。
だれか彼に伝えて、つたえてよー。TVに向かって叫んだわ。
…(日本国中から発せられたはずの)その声は届かない。
何分か後、意識朦朧として幻のゴールに入って倒れ込む山崎選手。

もう、涙が出て止まらない。なんて、なんて、かわいそうなんだ。
係員もわざと間違えたんじゃない。わかってる。
でもね、この大会に向けて毎日練習してきた成果を出そうと、全力振り絞る選手を支えるんだっていう自覚持った仕事をしてあげてほしい。もしかしたらマラソンに比べて注目度の低い競歩だから、係員の数が少ないのかな?こんなに選手が頑張る競技なのに。

ええ、私は、1964年の東京オリンピックの開会式で、世界の国旗を覚えた世代です。だから、子供の私から見て、立派な大人達が立派な仕事をした、という記憶で残っている大会なのかも知れない。でも、あの時アイロン持って見ていたら、よーし、私もいい仕事するぞーてきっと思ったにちがいない。でも、今日は、ストライキしたい気分。

山崎勇喜さん、あなたのゴールは、北京オリンピックよ。
本当のゴール目指して、頑張って~。
今日のあなたを見ながら、アイロンかけたハンカチ振って応援するから。
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