星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

摘み草

2013-03-12 | 持ち帰り展覧会
先日の芦屋市立美術博物館の「芦屋の画塾 芦屋のアトリエ」展で、谷崎潤一郎(42才)が小出楢重(41才)に宛てた書簡が出品されていた。1928年(昭和3)年11月4日付

「…新聞の方は御大典記事が済んだ後、十六日から載るそうです。
 それで急ぐにも及びませんが、兎に角三回だけ御届けいたします。
 …此の中の男の歳は三十七八歳、女の方は二十八九歳に願います。
 室内装飾を出す必要があれば多少文化住宅式ハイカラの方がいひと思ひ升
 しかし必ずしも拘泥されるには及びません。
 貴下の感じで結構です。」


こうして、小出楢重の挿絵とともに谷崎の「蓼喰う虫」という新聞連載小説が生まれた。
岩波文庫「蓼喰う虫」には、この挿絵がそのまま載っている。

   

 


 
離婚寸前の夫婦の有り様が視線によく現れている。挿絵には家族が飼っているリンディというグレーハウンド犬や、神戸の居留地の金髪娼婦なども登場して、昭和初期阪神間モダニズムの様子が伺える。当時、田舎に住むこの新聞の読者は、小出の挿絵でイメージをふくらましたことだろう。

挿絵目当てに開いた小説だけど、読んでいるうちに、「摘み草」という新鮮な言葉に出会った。
主人公要が、人形浄瑠璃にはまっている妻の父と、父の世話をする若い女お久と一緒に、淡路島の芝居小屋を訪ねる旅をしたシーンである。

 「ほんまに今日はええ天気どすな。」
 と、要と一緒にそろりそろり先へ行きながら、お久は晴れわたった空を仰いで、
 「こういう日には摘み草がしとうて、……」
 と、不平らしく口のうちで言った。
 「全く、芝居よりは摘み草に持って来いという日だ。」
 「どこぞここら辺に蕨やつくしのはえてるとこおすやろか。」


今、兵庫県立美術館のコレクション展「いのちの色」に、小坂象堂(1870〜1899)の「草摘み」(1897年作)が出ている。夭折した画家27才の作品。
       
     
       ~「兵庫県立美術館アートランブルvol17」より

「あっ!」草を摘む少女の手が止まった。
「あの人だわ。」視線の先には、少女の心を摘んだ誰かが…。
 地面から立ち上る青い草の香り。なんだか胸いっぱいになる春の野辺。


116年前の日本の春、野辺での出来事。
放射能という言葉さえなかった時代の幸せ感。
(キューリー夫人が放射能を名付けたのが1898年)
「今日は摘み草がしたいなぁ」とそんなことを、暢気にいえる時代はもう終わったのかもしれない。3・11後、もはや画家はこんな幸せな風景は描けない。大気には放射能に加え、PM2・5まで加わった。

それでも、それでも、ぽかぽか晴れた春の陽気に誘われて、少女の心はつぶやく。
「こんな日は、摘み草がしたいなぁ。」

  あの地でもいつか摘み草 祈る2年目

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マッチの話

2013-03-08 | 持ち帰り展覧会
散歩中、上前智祐さんの作品のような石垣に出会った。新芽に春の訪れを感じる。
     

BBプラザ美術館での「卒寿を超えて~上前智祐自画道」展で見た、ルスツの秋のような360度これ金色の落ち葉の世界、といった作品もいい。でも、芦屋市立美術博物館で見た、あの黒いマッチ棒の作品は、「これぞ、GUTAI!」と思わせる圧倒的存在感があった。

「具体躍進」展の最終日、もう一度あの作品が見たいと行ってきた。187.0×242.5、大きく重たい作品で、芦屋市立美術博物館のここ6年間で初めて登場した作品である。
現在92才の上前智祐さん、1960年40才の作品。

                
           ~「芦屋市立美術博物館所蔵品目録1989to1997」(モノクロ)より
    
黒い塗料で塗り固めたマッチ棒が、厚さ10センチも盛り上がっている部分もある、半立体のような作品。近づいて見ると、下地が赤く塗られていることに気付く。その上に膨大な数のマッチ棒が黒い塗料の中で蠢いている。表面のマッチ棒の透き間から、室内の照明の光が入っていて、横から覗くと、下地の赤が燃えていて、まるで洞窟の中から発光しているように見える。マッチは燃えている。この作品は、やはりマッチ棒でつくらなければならなかったのだ。表面の凹凸が一部人の貌のように見える箇所もある。
マッチ一本ずつ盛り上げて完成させた長い制作時間の最後の一本はどれだろう?
「マッチ売りの少女」の頃の黄燐マッチだったら、この作品は発火していたかもしれない。

アンデルセンの「マッチ売りの少女」は1848年に書かれた。
~ああ!一本の小さなマッチでも、こんな時は、どんなに役に立つでしょう。それには、マッチのたばから一本ぬいて、壁にこすって、指さきをあたためさえすればいいのです。少女は一本ぬきました。シュッ!~(大畑末吉訳、岩波文庫「アンデルセン童話集(三)」

少女は、「マッチを壁にこする」とある。子供の頃、初めて読んだとき、石の壁だからそんなこともできるのかな?と思っていた。調べたら、マッチが発明されたのは1827年で当初はまだどこで擦っても発火する黄燐マッチだった。少女が手にしていたのは有毒性のある危険なマッチだったのだ。今のような頭薬と側薬をこすり合わせて発火する安全マッチが発明されたのは「マッチ売りの少女」の4年後の1852年である。

明治から大正にかけて、日本の三大輸出品は、生糸と銅とマッチ。戦後もノベルティグッズとして増産され1973年に生産量は最大となったらしい。そういえば大学時代、巷にはマッチがいたる所に置いてあった。銀行・郵便局・喫茶店・イベント会場。今これに代わる物って何だろう。

昨年末、押し入れ整理作業中に突如登場した日付とメモ入りマッチ箱達。
中のマッチ棒を捨てながら、一箱ずつ夢中になって読んでいった。

     

「房州」1973/6/25(月)学校帰り、上○・藤○・河○さんと、コーヒー150円・ケーキ80円
「ルオー」1975/9/9(火)一番奥の席で2時間一人ボーヴォアールを読む、コーヒー180円
「酔心」1975/2/27(木)○井さんと映画の帰り、かき釜飯350円・赤出し130円
「大学祭」1973/11/3(土)おはぎを売る。中島みゆき来たる!(←この記述間違い1976年だったはず、後から書き加えたのか?)
 …
青春の一場面、覚えていることも、すっかり忘れていることもある。
それぞれのシーンは、マッチ売りの少女が、マッチを一本擦って見た夢のような気もする。

生きている一瞬のワンシーンをみんな集めたら、上前さんの作品のマッチ棒の数くらいになるのかもしれない。
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