秋の夜、ベランダで虫の声を聞きながら空を見る。東の空にはくっきりとした木星。
この夏、白内障の手術をして、視力が0.04→1.0になった。寝る前にはコンタクトを外して、視界がぼーっとなって眠りにつくという生活を35年間続けていた。見える→世界がぼーっとなる→眠るという手順で眠りについていた。だから、目をつむっても、なかなか眠れない。潜在意識で、コンタクト外さなければ…と妨害が入るのだ。真ん中のあのワンクッションの世界では、お月様も星も、ぽわ~んとしていた。あれはどうやら私だけの世界だったのかもしれない。
今、同じ夜空を見ていても、少し違う世界にいるような気がする。
ゴッホの目にはアルルの星空がどう映っていたのだろう。
9月24日、大阪市立科学館プラネタリウムで、「ローヌ川の星月夜のナゾ」というイベントがあった。プラネタリウムでは最高の眠りを体験できる。クラシックコンサートよりも私的には上ランク。この夜上映された「ゴッホが描いた星空」では、ゴッホの描いた宇宙を体感。眠りというより、違う世界にワープする感覚。白内障の手術中、ピンクとブルーの不思議な光が見えて宇宙遊泳していた気分と少し似ている。
~いま僕が絶対に描きたいのは星空だ。夜は最も強い色合いの紫、青、緑に染まって、昼間よりさらにより豊かな色どりがあるように感じられることがよくある。注意してみれば、ある種の星はレモン色、ほかの星はピンクの火の色、緑、青、忘れな草の青などの色を帯びている。(1888年9月9日妹ヴィル宛ての手紙W7)
「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房、2001刊)を図書館で借りてきた。それは弟テオ宛ての651通を中心に700通以上にわたる膨大な書簡集、しかもその一通が私がかつて書いたことのない便箋10枚以上の凄い量である。最初からじっくり読むには、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読むくらいの意気込みが必要だ。
この本の訳者である圀府寺先生も当日のパネリストとして、1880年と1888年の9月24日のゴッホの手紙の重要性を指摘された。
前年に、伝道師への進路を失い、父に精神病院に入れられそうになって気力さえ失いかけていた27歳のゴッホが、1880年9月24日の弟テオに宛てた手紙で、初めて画家として生きる決意を述べている。
~素描をやり始めてそれがどんなにうれしいことかとても言葉にはできそうにない。このことはすでに長い間僕の念願から離れなかったが、しかし、それを不可能な、とうてい手の届かぬことと思ってきた。しかし、今わが身の非力を、またことごとに依存せねばならぬつらさを痛感しながらも、僕の心の静安をとり戻したし、日に日にエネルギーがよみがえってきている。(F136)~
ゴッホは幾たびも手紙の中で、日本への憧れ、日本版画の素晴らしさを記している。
ゴッホは南仏アルルを日本に似た土地と思いこんでいたらしい。
圀府寺先生の言葉…「はっきり言って誤解です。しかし、その誤解が多くのものを生み出しました。」
1888年2月アルルに来て、5月に黄色い家を借り、跳ね橋や麦畑を描き、画家として最も幸福な時に書いたのが1888年の9月24日のテオ宛ての手紙。ゴーギャンが来る一か月前である。
~日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼が研究するのはたった一茎の草だ。しかし、この一茎の草がやがては彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物像を素描させることとなる。彼はそのようにして人生を過ごすが、すべてを描くには人生はあまりにも短い。そう、これこそ…かくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそもうほとんど新しい宗教ではあるまいか。(F542)~
初めて、ローヌ川の星月夜についての記述があるのは、1888年9月29日頃のテオ宛ての手紙。
~とうとうガス灯の下で実際に夜描いた星空だよ。空は緑=青色、水はロイヤルブルー、地面は薄紫色。町は青と紫、ガス灯は黄色、その反射光は赤茶がかった金色で、緑がかったブロンズ色まで弱まっていく。空の色=青色の広がりに大熊座は緑とバラ色に輝き、その控えめな青白さはガス灯の粗野な金色と対照をなしている。前景には二人の恋人たちの彩られた小さな像。(F543)~
この記述に注目したのが、大阪市立科学館の石坂千春学芸員で、彼が抱いた謎とその答の発見の喜びから生まれたのが、この夜のイベントだった。
謎とは…「ローヌ川の星月夜」というこの絵の構図は、アルルの街の地図をみると、明らかに南西の方角であり、北斗七星=大熊座が見えるはずはない。なのになぜ、ゴッホは北斗七星を描いたのか?
石坂さんは、ペガスス座の秋の大四辺形が、真夜中午前2時ごろ、南西の空に、ゴッホが描いた北斗七星のような大ひしゃくの形になることを指摘する。ゴッホは一晩中、明け方近くまで、夜空を見て描いていたのだ。
ゴッホはこのころ、黄色い家を芸術家の家にしようと準備していた。若い画家たちをアルルに集め共に制作する、画商である弟のテオが彼らの絵を販売するという構想である。
アルルに画家たちの共同体をつくるというのが、ゴッホの夢であり、「ローヌ川の星月夜」という絵は、一つ一つが輝きを持つ星々(芸術家)が星座のようにつながってともに輝くという、彼の夢を描いたものだ、というのが石坂さんのこの夜の答だった。
~初めから僕はこの家を自分一人のためではなく、誰かを泊められるように整えたいと思っていた。…僕は12脚の椅子と鏡を一つ、そして細々した必需品を買った。(1988年9月9日のテオ宛ての手紙 F534)
ゴッホといえばアルルと思っていたのに、今回、ゴッホがアルルに滞在していたのが、1988年の2月~12月というわずかな期間であったことを初めて知った。
自然から受けた感動や喜び、悲しみや希望・孤独…彼の絵からは、さまざまな感情が湧き出してくる。
「向日葵」の絵も、「星月夜」の絵も、誰かとつながろうとする、必死な彼の思いがこもった絵だった。
この夜、星を見ながら私はゴッホとつながったと思う。
この夏、白内障の手術をして、視力が0.04→1.0になった。寝る前にはコンタクトを外して、視界がぼーっとなって眠りにつくという生活を35年間続けていた。見える→世界がぼーっとなる→眠るという手順で眠りについていた。だから、目をつむっても、なかなか眠れない。潜在意識で、コンタクト外さなければ…と妨害が入るのだ。真ん中のあのワンクッションの世界では、お月様も星も、ぽわ~んとしていた。あれはどうやら私だけの世界だったのかもしれない。
今、同じ夜空を見ていても、少し違う世界にいるような気がする。
ゴッホの目にはアルルの星空がどう映っていたのだろう。
9月24日、大阪市立科学館プラネタリウムで、「ローヌ川の星月夜のナゾ」というイベントがあった。プラネタリウムでは最高の眠りを体験できる。クラシックコンサートよりも私的には上ランク。この夜上映された「ゴッホが描いた星空」では、ゴッホの描いた宇宙を体感。眠りというより、違う世界にワープする感覚。白内障の手術中、ピンクとブルーの不思議な光が見えて宇宙遊泳していた気分と少し似ている。
~いま僕が絶対に描きたいのは星空だ。夜は最も強い色合いの紫、青、緑に染まって、昼間よりさらにより豊かな色どりがあるように感じられることがよくある。注意してみれば、ある種の星はレモン色、ほかの星はピンクの火の色、緑、青、忘れな草の青などの色を帯びている。(1888年9月9日妹ヴィル宛ての手紙W7)
「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房、2001刊)を図書館で借りてきた。それは弟テオ宛ての651通を中心に700通以上にわたる膨大な書簡集、しかもその一通が私がかつて書いたことのない便箋10枚以上の凄い量である。最初からじっくり読むには、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読むくらいの意気込みが必要だ。
この本の訳者である圀府寺先生も当日のパネリストとして、1880年と1888年の9月24日のゴッホの手紙の重要性を指摘された。
前年に、伝道師への進路を失い、父に精神病院に入れられそうになって気力さえ失いかけていた27歳のゴッホが、1880年9月24日の弟テオに宛てた手紙で、初めて画家として生きる決意を述べている。
~素描をやり始めてそれがどんなにうれしいことかとても言葉にはできそうにない。このことはすでに長い間僕の念願から離れなかったが、しかし、それを不可能な、とうてい手の届かぬことと思ってきた。しかし、今わが身の非力を、またことごとに依存せねばならぬつらさを痛感しながらも、僕の心の静安をとり戻したし、日に日にエネルギーがよみがえってきている。(F136)~
ゴッホは幾たびも手紙の中で、日本への憧れ、日本版画の素晴らしさを記している。
ゴッホは南仏アルルを日本に似た土地と思いこんでいたらしい。
圀府寺先生の言葉…「はっきり言って誤解です。しかし、その誤解が多くのものを生み出しました。」
1888年2月アルルに来て、5月に黄色い家を借り、跳ね橋や麦畑を描き、画家として最も幸福な時に書いたのが1888年の9月24日のテオ宛ての手紙。ゴーギャンが来る一か月前である。
~日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼が研究するのはたった一茎の草だ。しかし、この一茎の草がやがては彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物像を素描させることとなる。彼はそのようにして人生を過ごすが、すべてを描くには人生はあまりにも短い。そう、これこそ…かくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそもうほとんど新しい宗教ではあるまいか。(F542)~
初めて、ローヌ川の星月夜についての記述があるのは、1888年9月29日頃のテオ宛ての手紙。
~とうとうガス灯の下で実際に夜描いた星空だよ。空は緑=青色、水はロイヤルブルー、地面は薄紫色。町は青と紫、ガス灯は黄色、その反射光は赤茶がかった金色で、緑がかったブロンズ色まで弱まっていく。空の色=青色の広がりに大熊座は緑とバラ色に輝き、その控えめな青白さはガス灯の粗野な金色と対照をなしている。前景には二人の恋人たちの彩られた小さな像。(F543)~
この記述に注目したのが、大阪市立科学館の石坂千春学芸員で、彼が抱いた謎とその答の発見の喜びから生まれたのが、この夜のイベントだった。
謎とは…「ローヌ川の星月夜」というこの絵の構図は、アルルの街の地図をみると、明らかに南西の方角であり、北斗七星=大熊座が見えるはずはない。なのになぜ、ゴッホは北斗七星を描いたのか?
石坂さんは、ペガスス座の秋の大四辺形が、真夜中午前2時ごろ、南西の空に、ゴッホが描いた北斗七星のような大ひしゃくの形になることを指摘する。ゴッホは一晩中、明け方近くまで、夜空を見て描いていたのだ。
ゴッホはこのころ、黄色い家を芸術家の家にしようと準備していた。若い画家たちをアルルに集め共に制作する、画商である弟のテオが彼らの絵を販売するという構想である。
アルルに画家たちの共同体をつくるというのが、ゴッホの夢であり、「ローヌ川の星月夜」という絵は、一つ一つが輝きを持つ星々(芸術家)が星座のようにつながってともに輝くという、彼の夢を描いたものだ、というのが石坂さんのこの夜の答だった。
~初めから僕はこの家を自分一人のためではなく、誰かを泊められるように整えたいと思っていた。…僕は12脚の椅子と鏡を一つ、そして細々した必需品を買った。(1988年9月9日のテオ宛ての手紙 F534)
ゴッホといえばアルルと思っていたのに、今回、ゴッホがアルルに滞在していたのが、1988年の2月~12月というわずかな期間であったことを初めて知った。
自然から受けた感動や喜び、悲しみや希望・孤独…彼の絵からは、さまざまな感情が湧き出してくる。
「向日葵」の絵も、「星月夜」の絵も、誰かとつながろうとする、必死な彼の思いがこもった絵だった。
この夜、星を見ながら私はゴッホとつながったと思う。