星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

ラーメンズ的日常③世紀末の夢

2008-01-24 | ラーメンズ的日常
*フィクションです。

妻「夫に誓った今年の目標は一日一捨」
夫「妻に誓った今年の目標は室内完全禁煙」

妻「夫は、パリのカフェと同じに、目標を低く設定したから、目下のところ完璧に守っている」
夫「妻は、目標の基準が曖昧だから、守っているかどうかわからない」

妻「夜、寝る前に今日は何を捨てたか自分で点検する。今日は
  …あれ、夫がいない」
夫「夜、こうして戸を閉めて寒いベランダにいると、ホームレスになった気がする」

(夫、ベランダで喫煙後、室内に入ってくる)

夫「さっぶー。」
妻「(聞こえなかったふり)一日一捨と」
夫「一見我が家は昨日と変わらなさそうだけど、何か捨てた?」
妻「震災の時に買った、水のいらない資生堂フレッシードライシャンプー、未開封だったのに」
夫「13年も前のものかー。もっと大きなものは?」
妻「カネボウ・ティスティモ・スーパーリップ」
夫「何それ?」
妻「キムタクがコマーシャルしてた口紅」
夫「小さくなってる。それは♪夜空の向こう より前のこと?」
妻「たしか、前だと思う」
夫「20世紀に買った消耗物品は全部捨てるという基準を設定したら?」
妻「20世紀抹殺計画かー」
夫「殺さなくても、変質しているよ、みんな」
妻「でも、その絆創膏も、世紀末のものよ」
夫「…確かにまだ使えるものもあるな。
じゃぁ、今後使う予定のないもの、という普通の基準を厳しく適用するのは?」
妻「それは、もしかしたら、サイズの合わなくなったお洋服達のことを言ってるのかな?」
夫「そうじゃなくて、いや、そうかな」
妻「…。それは、いつか元のサイズに戻るという夢を私から奪うことになる」
夫「その時は、もしその時がくるようなことがあれば、また新しいの買ったらいいじゃないか。
  色あせた世紀末の夢を追うな。」
妻「(ガーン!)『色あせた世紀末の夢』って…
  じゃあ、あなたはあの20世紀に書かれた書斎の本を死ぬまでに全部読むのね」
夫「あー、読むよ。それに本は消耗物品じゃない。」
妻「(フン)…あっ、そうだ。
  世紀末っていったら、○十年前結婚祝いにもらった鳩時計、大分前から普通の時計と全然違うリズムで時を刻むようになってるの。鳩さん65分くらいたたないと出てこないし」
夫「ある意味凄いな」
妻「どんな意味ですか?」
夫「5分×24=120分=2時間
  2時間×365=730時間=30日10時間。
  ということは、鳩時計時間では、まだ2008年になってないんだ。」
妻「いつまでも捨てないというのは、狂った鳩時計時間で生きてるって言いたいのね。…鳩時計、捨てたほうがいい?」
夫「捨てなくていいよ。そのうち修理するから」
妻「修理すれば、世紀末の夢は、捨てなくてもいいということね」
夫「捨てたくないんだね。
捨てたくない理由のある物は、別に捨てなくてもいいんじゃない」
妻「そうよ、捨てたい理由のあるものは捨ててるよねー」

…今年も魔界存続を覚悟した夫であった。
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冬の空に向かって

2008-01-22 | 五七五
震災日街で出会ったお仕事犬

鳩よりも真面目な俺だと威張る君 




あの冬は空の雲さえ揺れていた

空に向かい芽を出す木々にエールを送る

               

          センター翌朝黙祷をするもう一度
         
          原点はここだと教える冬の朝
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内から光る

2008-01-21 | 持ち帰り展覧会
芦屋市立美術博物館の「ゆっくり生きる」展で展示されている、
赤崎みまさんのインフォクローム写真作品は、美しい。

「ぶどう」    「クローバー(出会う)」

どうしてこんなに輝いているのだろう。
光を外から当てて撮ってるはずなのに、
まるで、そのものの中から光がでているみたいだ。

生きてるってこういうことなのか。内から光る。
「心の中には光の種子が宿る」という、宗教団体のキャッチフレーズがあった。でもこれは真実だと思う。確かに人は、内から光り輝いてる瞬間がある。

自らが青緑の発光体となったような、てっぽうゆり・薔薇の作品は、幻想的で美しい。水晶の山々は、真っ赤に輝いていたり、一見レンブラントの絵のような色調の風景を作り出す。

展示室に置かれたル・コルビュジェの椅子に座って、ゆっくりと、暗闇に浮かぶ蓮の葉・蕾・茎・花を眺める。 

部屋のすみっこに、赤崎さんのこんな文章が添えられていた。

…小さくかたいつぼみは 少しずつ膨れてきて
そっと手を触れてみると やわらかく
重なる花びらと花びらの空間に
蓮の吐息がこもっている様でした
翌朝、つぼみは小さく開き 午後には閉じ
三日目に大きく開き 午後に閉じ
その後 何日かかけて花びらが 散っていきました
まるで ちょっと息をして さらに息をして
最後に大きく 深呼吸したように
 …人の人生をみたように思えました…


 

蓮の花をぼーっとみているうちに、長く忘れていた映画のことを、思い出した。
「季節の中で(Three Seasons)」(監督トニー・ブイ、1999)…ドイモイの頃のヴェトナムを、サイゴン生まれで2才でボートピープルとしてアメリカに渡った青年が撮った映画である。
                        

私の世界観を最初につくったのは、ヴェトナム戦争だ。
学生時代に観た映画「トンニャット・ヴェトナム」(監督:山本薩夫・片桐直樹、1977)以来のヴェトナム風景だった。ゆったりとした時間が流れる美しいベトナムの風景に驚き、戦火の匂いのしない風景がうれしかった。
中でも、娘が蓮の池で花を摘むシーンが、心に残った。
それまで仏教イメージだった蓮の花が、アオザイの似合う娘のイメージに変わった。
それは、すっくと天に向かって、ヴェトナムの泥の池の中で咲いていた。
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早送りできない

2008-01-20 | 持ち帰り展覧会
芦屋市立美術博物館で、「ゆっくり生きる」という三人展が開かれている。
森口ゆたかさん、松井智恵さん、赤崎みまさんの作品。
それに田中敦子さんの館蔵作品が数点展示されている。

「ラーメンズ」の小林君のひとりつっこみや、
「ちりとてちん」の突っ込みを面白いとみている私にとって、
松井智恵さんの映像インスタレーションは、
つい、早送りしたくなるほど退屈なものに感じる。
自分が、「ゆっくり生きる」ことをしていないことを自覚させられる映像だ。

「HEIDI 47"being"2008」~山を下り街の生活に馴染まずストレスから夢遊病になったハイジがあちこち彷徨い歩く。街のイメージがつかみにくい。駅の待合室のような場所で吸い殻の入った青いバケツに頭を突っ込む瞬間だけは、その不快感、ハイジの感じている都会への不快感が、直接感覚として伝わってくる。ゆっくりのリズムの中に突如、衝撃が走る。
解説では「あいまいな状態を私達に意識させ、それを排除せず認めてゆくことが、分析できない生きる営みの本来の姿ではないか」とある。このあいまいさは、私にとって少々心地悪い。

都会では、今もハイジのように、夢遊病のような娘達が大勢彷徨っているのではないか?とか、
もうタバコを吸ってしまったハイジは、山に帰っても自分の居場所求めて、彷徨うのではないか?とか、
山の神のように登場する鹿、をみて玉木君の鹿男を思い出し「今年は鹿年なのかもしれない」などと、およそ松井さんの芸術から、離れたことを思ってしまう。

実際にこの目で見たら、自分と繋がる何かがみつかるだろうか?
と土曜日、第二展示室で行われた、松井さん本人のパフォーマンス「PICNIC」を観に行った。
(詰め込み床座りは、湊川公園の唐組紅テント以来だ。ワクワク。
 あの時青いペンキだらけになった丸山厚人さん、お元気かしら?)

さて、PICNIC、う~む、何ともつらい50分だった。
お茶を飲む、二人のシルエットは美しい。
魚のかぶりものシーンは不思議な歌と共に楽しかった。
しかし、その世界に入り込めるほどの、吸引力がなかった。
私の中の感覚は共鳴せず、体験には至らなかった。
無理矢理、自己満足につきあわされているような時間となった。

結局、私は自分が言葉に頼って生きている人間なのだと痛感したのだった。
松井さんの作品からは、どんな退屈な人生であっても、早送りはできない、ということを学んだのかもしれない。
退屈に感じる時間こそ、あなたそのものなんだ、と。


第一展示室の広い鋭角コーナーにつくられた、森口ゆたかさんの映像インスタレーション作品は、「LINK~結びつけるもの~」
   
        

暗い室内に三カ所の光源から発せられる光。置かれたビーズクッションに座って
ゆったりと二本の紐(ヒモ)が繋がって揺れる様子の変化を目で追っていく。
そして10分くらいそうしていると、もう10時間くらい違う空気を吸った気分になる。何も考えることのない無になれるような空間。これは心地良い体験だった。


ロビーとホワイエ前の、田中敦子さんの絵画をみると、金沢21世紀美術館でみた彼女の電飾人間のパフォーマンスを思い出す。
丸い電球のつながりのような絵だけど、森口さんの、繋がる紐空間を体験した後、気がついた。
そうだ!これは、人が繋がってるんだ。
球と球をつなぐ無作為のコードのようなものは、実は複雑な人と人とのつながりを示すのだ。同じくらいの大きさの球の絵もあるし、一つの大きな球に小さな球が巻き込まれたような絵もある。


赤崎みまさんのインフォクローム写真作品。
…とても美しい。長くなったのでこれはまたもう一度行ってからにしましょう。
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「アース」体験

2008-01-16 | クロネコチャン
月に還ったクロネコチャンが、みているのは、きっとこんな地球なのだろう。

   

私を見つけてくれるかな?大丈夫、ベランダで念力飛ばせばきっと届く。
わたしもこの中で生きてるから。

生き物たちが、生きようとする念力で、回っているかのような地球という星。
映画「earth」(監督アラステア・ファザーギル、マーク・リンフィールド)での映像体験は素晴らしかった。
いつも外国映画は字幕で観るのだけど、この「アース」は、画面の一部が字幕で邪魔されない、静かな渡辺謙さんのナレーション吹き替えで観て良かったと思う。

上空を渡る鳥の大群のダイナミックな映像。そのスピード感。
もう最初のこれだけで、映画館に観にきてよかったー、と思う。
私は時々、空を飛ぶ鳥が地上の私を見たらどんなに見えるのかなと想像する。
その鳥たちを上から見下ろす視線を自分が持てる、その爽快さ。

カメラは北の果てから、地球に生きる動物を追っていく。
白い北極で冬眠から目覚めるホッキョクグマ、穴から顔を出した子グマは氷上を滑りながら母熊の後を追っていく。母熊のおなかは餌を求める。

            

カメラは、温暖化による氷の減少で、なかなか餌のアザラシが捕れないホッキョクグマを追う。集団で必死に子供を守るアザラシ。すべての体力を失い、アザラシの群れの目前で命絶えるホッキョクグマ。

地球上の生物は生まれたら生きようとする。親は命がけで子を育てる。
子達は、生きるためのハードルを乗り越えなければならない。
まだ羽根も生えてないのに、オシドリ母さんは、9mの高さから、「おりといで」とひな鳥に促す。森の枯葉がひなを守ってくれる。

砂嵐の中、アフリカゾウの親子は水辺にたどりつけるのか。
目に砂が入った子象は木にぶつかる。
やっとたどりついた水辺。そこにはいろんな動物がいた。
互いを意識しながら水を飲む、ライオンとアフリカゾウ。
緊張感あふれるライオンの目。暗闇の中、ライオンの群れが一頭の象に襲いかかる。

彼らに安心して眠れる夜があるのだろうか。
そんなこと知らない。いつ死ぬかなんて心配したことはない。
今、生きてることがすべて。
生きてることは、自分にとってこの世界があるっていうことなんだ。
死ぬことは、その時がきたということ。

水を渡るキリンに、サル。
自分がこの世界の空気をすべて呼吸しているような幸せな映像。

パプアニューギニアのジャングルの枝を一生懸命掃除するスタイリッシュでマメな鳥。「楽園の鳥」という言葉にうなずく。食料や天敵の心配のない彼らは、まるで造物主の趣味でつくられた生物のようだ。
求愛ダンスを踊るカタカケフウチョウの瞼は青い。こんな鳥もいる。

                  

春になると、熱帯の海で生まれたザトウクジラは、餌の豊富な南極の海へ向かう。
300万頭のトナカイは、牧草を求めて3000㎞も大移動する。
彼らの壮大な距離感。

気になる、気になる。あのホッキョクグマは、今もアザラシのいる氷を求めて、北の冷たい海を泳ぎ続けているのだろうか。
たどり着けますように、氷が溶けませんように、と祈らずにはいられない。
地球温暖化をもたらすのはヒト、防ぐことができるのもヒトという生き物。

アムールヒョウはもう40頭以下になったという。
彼ら自身はそんなこと知らずに「今」を生きている。
今しか撮れない、そんな危機感も迫ってくる映像である。
30年後にこの映像を観ることがあったら、どんなことを私は思うだろう。
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ついに完成!

2008-01-10 | NO SMOKING
できた~!!      
             

世界最小の1000ピースのジグソーパズル。
昨年の夏、退院した母のために買ってきたものだが、母は、目がついていかないと外枠のみで放棄。
その後1ヶ月くらい、夫が気が向いた時に、虫眼鏡片手にやっていて、時折「おー、入ったー」などと言ってたものの、どうやら石畳で挫折。
そのまま我が家のコーヒーテーブルの上で、数ヶ月、放置されていた。
クロネコチャンがいた時には到底できなかったことだ。

今年の新春TVは、何といっても、秋からずっと心待ちにしていた「のだめカンタービレ」ヨーロッパ篇。
第一夜、「千秋君痩せたね~」「プラハ行きたいねぇ」とみていたら、夫の様子がおかしい。毛布を抱えてきてくるまった。寒いという。熱を測ったら、38.9℃。
第二夜、「のだめちゃん、がんばれー」と私が涙してた時、夫は猛烈な下痢に苦しんでいた。

二日後、点滴をして、やっと食事ができるようになり、「のだめ」の録画再生3回めくらいから、夫は一ヶ月ぶりに「夜のカフェテラス」にかかった。ところが、どうしても一個足りない。製造元にFAXしたら、今日、とても丁寧な書状と指定した場所のピースが送られてきた。
~もし形が合わないなら、必要なピースの周囲のピースを一緒にお送り下さい。保管してある中からできる限り合う物を探します。お客様のジグソーパズルが無事に完成しますことを祈っております。(株式会社テンヨー)~

最後のピースは、なんとか初仕事を終えて帰宅した夫の手で、はめられ、数ヶ月かかったジグソーパズルが、やっと先程、完成した。
良かった、風邪が治って。テーブルの上が片づいて。
横のものが、縦になるって素晴らしい。

ゴッホのこの石畳も、昼間なら、こんな石畳なのかしら?

      

        ~ヴェルサイユ宮殿は、運動靴で行って正解だった。
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冬眠から醒めたお正月

2008-01-03 | 五七五
大晦日は、カレンダーを変えて、年越し蕎麦を食べながら紅白を見る。
元旦は、「あけましておめでとう」の後、お雑煮とおせちを食べて、年賀状を読む。
九州・四国の親戚家族と電話で新年の挨拶。夜はTVで携帯オオギリを見る。
二日は、近くの天神さんに初詣をして、いろんなワンちゃんとご挨拶。
街に出て「王様のアイデア」の福袋を買って帰る。ハリネズミのドアストッパーが可愛い。
三日は、お客様を迎える。母はずっと笑っていた。その笑顔を見ていて幸せだった。

と、今年は絵に描いたような、家族団らんのお正月をおくっている。
これはとても素晴らしいことなんだと、先程、心の底から何かに感謝する気持ちが湧いてきた。
「2008」という数字は、とてもあたたかい文字に思える。
…やっと自分がまた、世界と繋がり始めた。それはきっと新しい世界だ。
年賀状を書こう。

           

2007年の暮れ、私は立ち止まったまま、風に吹かれていた。
この一年、新しく挑戦したことが一つしか思い浮かばなかった。
勇気を出した記憶が二回しかない。自分が守りの姿勢に入ってしまった一年だったと痛感。増えたものは体重だけではないか?「三日坊主を恐れない」という今年のテーマはどこにいったのか?
やらなければならないことを考えただけで、頭が痛くなる、という状態の自分を、やらなければならないことから解放したつもりで得た平和な日常。
追いかけられることがなくなった。でも、いつのまにか、何かを恐れるようになった。
10才の時に、「え?生きてる、ということは、死にむかってるということなの?一日生きたら、一日死に近づいてるってこと?」と、突然気付いて、立ち止まって動けなくなった時が蘇った。
あれから自分が何も学んでいない、成長していない、そんな気がした。
他人にかける言葉はあっても自分にかける言葉が見つからない。
やがて、他人の声が聞こえなくなる。
時々自分を取り巻く人々との繋がりが切れて、一人たたずんでしまう。
自分に両手があって、声があって、勇気があることを忘れてしまう。
心の冬眠状態。

そんな私にも新しい年がやってきた。
「あけましておめでとう」…良かった。またスタートラインに立てる。

「だからこそ、一日一日が大切なんだよ」という言葉を自分に向かって、また言えるようになった。

私の心もどこかの隙間から伸びていく。初詣の帰り道見つけたケイトウのように。

                   
    
    おめでとう 再起動です 正しい月
    願いただ 健やかであれ 2008
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