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星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

おまじないの言葉

2024-04-09 | 私の星々
ゆっくり認知症が進んだ母との同居生活5年の間、私は「あー、もうイヤ」と思ったり、イライラすると、廊下に貼ってある大きなポスターの前に行って、横向きに寝そべってこちらを見てる彼女に向かって
「タンタン」「タンタン」と呟いていた。
キンキンしていた自分から出る声は、いつしか優しい声になっていった。
私のおまじないの言葉。 「タンタン」

    

ちょこんと座って、両手に人参🥕持って、ポリポリ食べるタンタンは無邪気そのもの。
でも年に一度はその人参を抱きしめていたタンタン。
今頃天国で2頭の赤ちゃんパンダを抱っこしているのかな。

思春期に異国からやってきて、手足の長いハンサムなコウコウとペアに。
2度の出産。子育てするお母さんパンダにはなれなかった。
コウコウが2010年に亡くなってからは、ひとりぼっちのセンターアイドルに。
足の短さは可愛さなの。と、心から感じさせた存在。

寝る時には、片足をあげるタンタン。あー疲れたなあというより、
降ろす迄の滞空時間が長く、こんなこともできますよーと、伸ばしてたりする。
とても共感できる同年代の足伸ばし体操みたいだった。
先日「阪神タイガース優勝祈願ウォーク」で、廣田神社のコバノミツバツツジと夙川のお花見コースで28000歩歩いた私は、その夜タンタンのように足を上げて寝た。
「きょうのわたし」を振り返りながら。

「きょうのタンタン」を見るためにTwitterを始めた人は、私以外にもたくさんいると思う。
ついこの間、2月20日のタンタンは、口元にミルクリングをつけたまま、お庭のお気に入り石にもたれて、原田の森の鳥や動物の声に耳を傾けていた。
幸せそうなタンタンを見ながら、また私は「タンタン」と呟いている。

                             (1995・9・16〜2024・3・31)
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3色カレー

2021-10-02 | 私の星々
90才のトシコさんは、3色カレーが好きだった。
究極の手抜きメニューなのに、楽しみにしていた。
「今日の夕ご飯は3色カレー」と言ったら、「ごはんできたよ」と呼びに行く前に、自分からトイレ行って手を洗って食卓に座って待っていた。

始まりは、5年前のTVで見た「ダムカレー」だ。
お皿の真ん中に白米で堤防を築き、大きなウインナを埋め込む。左には肉・ジャガイモ・人参、右には液状のカレー。
「放流スイッチ、ON!」と言ってウインナを抜くと、カレーが右から左へ流れていった。
初めての時、トシコさんは子供のように「わー」って声を上げて喜んでくれた。

ある日私はとても疲れていて夕ご飯を作る気力がなかった。
こんな時のために存在するのが、レトルトカレーである。
ダムカレーの時のように堤防を作って、3色カレーにした。
究極の手抜き料理だけど、干しブドウふって福神漬添えたら、少し豪華になった。
トシコさんに、どれが一番好きか、〇✕をつけてもらった。
そのうちどれもいいよーになったけど、いつも完食してくれた。
月に一度は登場する我が家の人気メニューになった。
 



昨日、夕食つくる元気がなかったので、久しぶりに3色カレーをしようとして、もう3色カレーはできないことに気が付いた。
3人だから3色カレーができたんだ。
2人になったら2色カレーしかできない。



オホーツク流氷カレーを、トシコさんはきっと完食したと思う。

「母さん、2色カレーは、不思議な味がしたよ」
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彼方の彼方

2021-05-04 | 私の星々
南河内万歳一座の舞台で、彼の声が聴こえたら、
「ああ、この声を聴きに来たんだ」といつも思った。

南河内万歳一座を初めて見たのは、1984年阪急ファイヴ8階のオレンジルーム。
「ぴあ」じゃなく「プガジャ」の時代。
あの時、1300円のチケットにサインしてもらった。
そのサインを探していたら、パンフレットのこんな写真を見つけた。(撮影;杉浦正和)


          


この連休、夜空に星が見えない。
さっきからひとりで、この写真見ながら、
万歳一座のメインテーマ集CD♪「海に還ろう!」を聴いている。

藤田辰也(1962~2015)河野洋一郎(1960~2021)

夕陽の向こう、彼方の彼方に、万歳一座の、二つ星。見える。


 …『彼方の彼方』『唇に聴いてみる』『熱血仮面』『嵐を呼ぶ男』
  『二十世紀の退屈男』『ラブレター』『日本三文オペラ~疾風馬鹿力篇』
  『秘密探偵』『ハムレット』『秘密探偵~失われた4月』『百物語』
  『ライオン狩り』『なつざんしょ』『青木さん家の奥さん』『流星王者』
  『錆びたナイフ』『大胸騒ぎ』『ジャングル』『滅裂博士』
   ……彼らと過ごした熱い時間。
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オフィーリア

2018-10-22 | 私の星々
樹木希林さんが亡くなった。というニュースを聞いてすぐに思い出した。
2016年のお正月の朝日新聞、宝島社の全面広告(あまりの衝撃にとっておいた)。
ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」を模しているが、
それは、まぎれもない樹木希林さんであった。
  
       

右上には 死ぬときぐらい好きにさせてよ

      人は必ず死ぬというのに。
      長生きを叶える技術ばかりが進化して
      なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
      死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
      ひとつひとつの欲を手放して、
      身じまいをしていきたいと思うのです。
      人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
      それが、私の最後の欲なのです。


オフィーリアは、それから2年半生きて、美しい宇宙の塵芥になった。


~「私たちも75才よ」
訃報が流れた日、私は、偶然、元気な先輩3人と、アイスクリームを一緒に食べながら、希林さんの話や雑談をしていた。彼女達の手元には常にiPadがあった。
彼女達は、会話の中で、わからない言葉や地名が出てくると、即時に、iPadで検索し、会話の内容を広げていく。骨折した足が治ったら、また海外に行き、子供食堂のボランティアに行くという。体調を整えながら、絵を描き、山に登り、孫を迎えに行く。

一人その場での若輩者の私は、彼女達との圧倒的経験値の違いを感じていた。
そして、彼女達の「75才」になるまでに、まだまだできることはあると、嬉しくなった。

よーし、目標75才!
     宇宙の塵になるまで、生きましょう。
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たま駅長

2015-06-29 | 私の星々
JR和歌山駅で、ホームについた猫の足跡をたどると、いつのまにか和歌山電鉄の改札に着く。この電車に乗って、終点の貴志駅までは、20分。

           
     
2009年秋、初めてたま電車に乗って、たま駅長に会いに行った。
しっかりお勤めしてました。

   

2013年、たま駅長がいる貴志駅は、駅舎が改装されて猫形の駅になっていた。
カフェもできたけれど、駅長室は狭くなって、たまちゃんは最初の頃のように、自由に動き回ってはいなかった。壁には、若い頃のたま駅長の写真が。
   
        

2015年、今年のたま駅長は、少し目力が、優しくなっていて、もうそろそろ引退したいんですけど、と思っているのではないかしら。とふと思った。
でも、あの日(5月5日)も、眠たそうではあったけど、
「た~まちゃん」「えきちょうさん、また来ましたよ。」とガラス越しにつぶやくと、小さな声だったのに、こっちを向いてくれた。




あなたとパンダに会いに行くという和歌山の旅は、ここ数年、我が家のGWの定番コースでした。楽しい時をありがとう。お疲れ様でした。
ガラスケースのない虹の向こうでは、お日様の下、野山を駆けめぐる、自由な猫生活を送ってね。
でも、駅長さんの帽子、持っていってるかもしれないなぁ。

     ネコだからお仕事なんかしたくない
      ネコだから帽子はかぶりたくないの
       でもわたし 駅長さんと呼ばれたら
        ついついついつい返事する

     
…そんなあなたが好きでした。 
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もとながさん

2011-10-11 | 私の星々
          
                 ~「なんだかうれしい」2001

昨年明石市立文化博物館での元永定正展で買ったこの絵葉書のおかげで、我が家ではしばらく、あみだくじがブームになった。うっかりすると毎回違うところにたどり着く。特に左から6番目の四角君がたどる線は絶妙。自分で、肩を揉む人・揉んでもらう人の長~いあみだくじを作って肩が凝ったりした。

5年くらい前、芦屋市立美術博物館で、「ゆかわさん」「さとうさん」「ともながさん」という題のシルクスクリーン作品を観た。明るい色彩・単純なフォルム・突然どこからか現れて、今にも変な動きをしそうな形、レレレのおじさんの雰囲気のある愉快な作品だった。ほかの具体の作家の題名が、ほとんど「WORK(作品)」という素っ気ないものの中で、題名からもユーモアが漂い、辺りの空気を陽気に変える作品が並んでいた。そのすぐ横には、若い頃の具体時代の、絵具を流した作品があった。1966年、アメリカでエアブラシに出会った後、作風が大きく変わっている。一人の作家の作風がこんなに変わるなんて、人生って生きてみないとわからないものだわ、面白いなぁ、と見比べていた。

あれから、私はどれだけ「もとながさん(元永定正)」の作品に出会っただろう。
美術館で、図書館で、街中で。

      

 兵庫県立美術館の「作品」1963     「ポンポンポン」1972

先週末、神戸ビエンナーレ真っ最中の兵庫県立美術館で、彼の作品をたくさん見ることができた。デビューの頃の作品から最新作まで。

1955年「真夏の太陽に挑むモダンアート野外実験展」で発表したビニール袋の色水。半世紀前、芦屋の公園の松林の枝の間で、太陽の光にキラキラ輝いていた、輝きそのままに、美術館の円形階段の上でも、赤や黄色や緑の水が美しく輝いていた。

   

そして、つい先日美術館の大階段に設置された「きいろとぶるぅ」…安藤建築のグレーの建物に鮮やかに添えられた2色。支えあう人の形。女子大生がこのオブジェの周りで踊りの練習をしていた。


                      

ふと見ると、我が家の台所の壁に沿って並んだガラス瓶やコーヒーカップ、洗剤ボトルや小さなお鍋たち…もとながさんの絵みたい。なんだかうれしい。

これからも、私は、あちらこちらで「もとながさん」に出会うだろう。
そして、きっとそのたびに、少し幸せになるんだ。
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ローヌ川の星月夜

2011-09-29 | 私の星々
秋の夜、ベランダで虫の声を聞きながら空を見る。東の空にはくっきりとした木星。
この夏、白内障の手術をして、視力が0.04→1.0になった。寝る前にはコンタクトを外して、視界がぼーっとなって眠りにつくという生活を35年間続けていた。見える→世界がぼーっとなる→眠るという手順で眠りについていた。だから、目をつむっても、なかなか眠れない。潜在意識で、コンタクト外さなければ…と妨害が入るのだ。真ん中のあのワンクッションの世界では、お月様も星も、ぽわ~んとしていた。あれはどうやら私だけの世界だったのかもしれない。
今、同じ夜空を見ていても、少し違う世界にいるような気がする。
ゴッホの目にはアルルの星空がどう映っていたのだろう。

9月24日、大阪市立科学館プラネタリウムで、「ローヌ川の星月夜のナゾ」というイベントがあった。プラネタリウムでは最高の眠りを体験できる。クラシックコンサートよりも私的には上ランク。この夜上映された「ゴッホが描いた星空」では、ゴッホの描いた宇宙を体感。眠りというより、違う世界にワープする感覚。白内障の手術中、ピンクとブルーの不思議な光が見えて宇宙遊泳していた気分と少し似ている。

~いま僕が絶対に描きたいのは星空だ。夜は最も強い色合いの紫、青、緑に染まって、昼間よりさらにより豊かな色どりがあるように感じられることがよくある。注意してみれば、ある種の星はレモン色、ほかの星はピンクの火の色、緑、青、忘れな草の青などの色を帯びている。(1888年9月9日妹ヴィル宛ての手紙W7) 
    
     

「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房、2001刊)を図書館で借りてきた。それは弟テオ宛ての651通を中心に700通以上にわたる膨大な書簡集、しかもその一通が私がかつて書いたことのない便箋10枚以上の凄い量である。最初からじっくり読むには、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読むくらいの意気込みが必要だ。

この本の訳者である圀府寺先生も当日のパネリストとして、1880年と1888年の9月24日のゴッホの手紙の重要性を指摘された。

前年に、伝道師への進路を失い、父に精神病院に入れられそうになって気力さえ失いかけていた27歳のゴッホが、1880年9月24日の弟テオに宛てた手紙で、初めて画家として生きる決意を述べている。

~素描をやり始めてそれがどんなにうれしいことかとても言葉にはできそうにない。このことはすでに長い間僕の念願から離れなかったが、しかし、それを不可能な、とうてい手の届かぬことと思ってきた。しかし、今わが身の非力を、またことごとに依存せねばならぬつらさを痛感しながらも、僕の心の静安をとり戻したし、日に日にエネルギーがよみがえってきている。(F136)~

ゴッホは幾たびも手紙の中で、日本への憧れ、日本版画の素晴らしさを記している。
ゴッホは南仏アルルを日本に似た土地と思いこんでいたらしい。
圀府寺先生の言葉…「はっきり言って誤解です。しかし、その誤解が多くのものを生み出しました。」

1888年2月アルルに来て、5月に黄色い家を借り、跳ね橋や麦畑を描き、画家として最も幸福な時に書いたのが1888年の9月24日のテオ宛ての手紙。ゴーギャンが来る一か月前である。

~日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼が研究するのはたった一茎の草だ。しかし、この一茎の草がやがては彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物像を素描させることとなる。彼はそのようにして人生を過ごすが、すべてを描くには人生はあまりにも短い。そう、これこそ…かくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそもうほとんど新しい宗教ではあるまいか。(F542)~

初めて、ローヌ川の星月夜についての記述があるのは、1888年9月29日頃のテオ宛ての手紙。

~とうとうガス灯の下で実際に夜描いた星空だよ。空は緑=青色、水はロイヤルブルー、地面は薄紫色。町は青と紫、ガス灯は黄色、その反射光は赤茶がかった金色で、緑がかったブロンズ色まで弱まっていく。空の色=青色の広がりに大熊座は緑とバラ色に輝き、その控えめな青白さはガス灯の粗野な金色と対照をなしている。前景には二人の恋人たちの彩られた小さな像。(F543)~ 

この記述に注目したのが、大阪市立科学館の石坂千春学芸員で、彼が抱いた謎とその答の発見の喜びから生まれたのが、この夜のイベントだった。

       

謎とは…「ローヌ川の星月夜」というこの絵の構図は、アルルの街の地図をみると、明らかに南西の方角であり、北斗七星=大熊座が見えるはずはない。なのになぜ、ゴッホは北斗七星を描いたのか?

石坂さんは、ペガスス座の秋の大四辺形が、真夜中午前2時ごろ、南西の空に、ゴッホが描いた北斗七星のような大ひしゃくの形になることを指摘する。ゴッホは一晩中、明け方近くまで、夜空を見て描いていたのだ。
ゴッホはこのころ、黄色い家を芸術家の家にしようと準備していた。若い画家たちをアルルに集め共に制作する、画商である弟のテオが彼らの絵を販売するという構想である。
アルルに画家たちの共同体をつくるというのが、ゴッホの夢であり、「ローヌ川の星月夜」という絵は、一つ一つが輝きを持つ星々(芸術家)が星座のようにつながってともに輝くという、彼の夢を描いたものだ、というのが石坂さんのこの夜の答だった。

~初めから僕はこの家を自分一人のためではなく、誰かを泊められるように整えたいと思っていた。…僕は12脚の椅子と鏡を一つ、そして細々した必需品を買った。(1988年9月9日のテオ宛ての手紙 F534)

ゴッホといえばアルルと思っていたのに、今回、ゴッホがアルルに滞在していたのが、1988年の2月~12月というわずかな期間であったことを初めて知った。
自然から受けた感動や喜び、悲しみや希望・孤独…彼の絵からは、さまざまな感情が湧き出してくる。
「向日葵」の絵も、「星月夜」の絵も、誰かとつながろうとする、必死な彼の思いがこもった絵だった。

この夜、星を見ながら私はゴッホとつながったと思う。
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田村先生

2011-07-01 | 私の星々
先日、TV画面に自分の姿が映り、声が流れた。
声はまだ若いけれど、ずんぐりとした丸まった背中、笑った顔はくしゃくしゃだった。
思えば、動く自分の全体像なんて、ちゃんと見たことがない。
自分はこんな人だったんだと、他人のような目で見ながら、妙に納得してしまった。

歳をとったんだねー。せめて、姿勢正しく生きようよ。
そして、見てるかもしれないなぁ、と、突然、田村先生のことを、思いだしたのだった。

中学校の時、担任の先生が盲腸で入院していた週の学活の時間、
担任の代わりにやってきたのは、理科の田村先生だった。
私は今までに彼以上の太い眉毛の人に出会っていない。
田村先生は、その眉毛からは想像できない授業をした。
「しあわせって何だと思う?」と、突然みんなに問うたのだ。
教室を歩きながら、一人一人、指さしてあてていった。
私の番になった時、私はしどろもどろに
「放課後、自転車で学校から帰る時、夕日がきれいで、コスモスの群れが咲いている畦道のそばを通っていて、風にコスモスが揺れているなぁ、と感じた時は、しあわせだなぁ、と思います」というような事を答えた。
すると、私に向かってまっすぐに歩いてきた田村先生は、大きな黒いギラギラした眼差しで私を見据え、人差し指を私の顔の真ん前に突き出して言った。

  「あんたはしあわせになる!

これは、16年間の学生生活を通じて、先生達から言われた言葉の中で、他が霞んでしまうくらい、印象深い言葉だった。
もしかしたら、その時から今までずっと、自分を支えてくれている言葉かもしれない。
こんな言葉を、鍾馗さんのように眉毛の太い大人に言われた少女は、幸せになるしかないではないか。

「幸せになる」ということではなくて、正確には「幸せを感じる人になる」という意味の言葉だったんだと、気づいてはいる。

少女は、いつも幸せを感じるわけでもなく、いろいろ考えると、眠れない夜があったりする年齢になった。
子供のいない自分に何が残せるんだろう、なんて思うこともある。
そうだ、いつか機会があったら、田村先生からもらった言葉を、誰かに伝えよう。
これから人生を始める人に、「あなたはしあわせになる」って。
とりあえず、これを読んでくれた人に…

    「 あなたはしあわせになる! 」
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王子の横顔

2010-09-15 | 私の星々
ずっとずっと、夢見てた。できそうでできなかったこと。
パンダのいる動物園で、スケッチブックを手に一日ぼ~と過ごす。
そんな長年の夢がかなったのは、5月の末のことだっった。

彼は水のない池の中で、「横顔描いていいよ~」としばらくポーズをとっていた。
ほほえみを浮かべたような穏やかな横顔。

            
       

セーラー服の園児たちが、「コウコウー」って呼びかけながら、手に持ったスケッチブックを振っていた。
私も、心の中で同じことをしてみた。

         

ドッキーン!目があってしまった。

どぎまぎしている私をおいて、彼はゆっくり歩き出した。
「さ~て、笹でも食べよかな~」
    
                 

 手、長~い!



                  君のたぷたぷしたおなかに触れたかった。            
                  (2010年9月9日 王子動物園の興興コウコウ永眠)
                                 
                  素敵な、夢のような休日をありがとう。

      夢かなうコウコウがいた動物園スケッチブックは未完成
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星まで散歩

2009-10-09 | 私の星々
元気に散歩しているワンちゃんと目が合った時、私は確実に幸せな気持ちになる。
その瞬間、自分の中に、ワンちゃんと同じ穢れなき何かが、まだ存在しているような気がするのかもしれない。

そんな楽しいお散歩気分で開くブログがあった。
そこには、彼と、心優しき飼い主が、1対1でいつも幸せに暮らしていた。
彼は本当は飼い主をじっと見ているのに、いつのまにか、自分を見ていてくれているような、嬉しい気持ちになれた。
そんな日々が…4年間。

一度だけ、大阪のサイン会で彼に会った。
予想以上に大きく、穏やかだけど、立派な胸の凛々しいハンサムさんだった。

私が確かに彼に触れた2007年3月24日17時52分 
             この時頭の後ろを撫でながら、長生きしてね、と言ったのに。

7歳の若さで、突然、彼は逝ってしまった。(2009年10月1日永眠)

今手元に残る彼の足跡を見る。彼の片足を持ち上げた穴澤さんのことを思う。
                          涙が止まらない。

        

   犬種名はグレートシルバーデロリアン

     風呂という言葉にマジで?と問い返す

       雷は平気さ俺は破壊丸
   
         最後まで弱音無縁の元気丸

              
           そんな貴方が大好きでした。富士丸君、ありがとう。

             一匹行く星まで続く散歩道
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マーシー

2008-11-01 | 私の星々
お友達の息子さんの写真を見て、
「マーシーよ」「マーシーそっくり」と、はしゃいでいる私をみて、
母親の彼女はあきれていた。彼女はそれがどれだけ凄いことなのか知らないのだ。

…世界で一番バンダナが似合うギタリスト。
「青空」「1000のバイオリン」「TRAIN-TRAIN」「ハンマー」「終わらない歌」「チェインギャング」「俺は俺の死を死にたい」なんていう、もう涙ぐむような曲をたくさん作った人。

           ~CD「夏のぬけがら」より

マーシー、彼の名は真島昌利。
THE BLUE HEARTS (→THE HIGH-LOWS →今はクロマニョンズ)の曲の半分は彼がつくっている。
甲本ヒロトさんの横で、確実なギターを弾き、ハスキーな声でシャウトする。

彼の曲で、一番好きなのは、やはり「青空」

♪ブラウン管の向こう側 カッコつけた騎兵隊が
 インディアンを打ち倒した
 ピカピカに光った銃で できれば僕の憂鬱を 
 打ち倒してくれれば良かったのに
 
 神様にワイロを贈り 天国へのパスポートをねだるなんて
 本気なのか?
 誠実さのかけらもなく 笑っている奴がいるよ
 隠しているその手を見せてみろよ

 生まれた所や皮膚や目の色で いったいこの僕の
 何がわかるというのだろう
 運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか
 行き先ならどこでもいい
 こんなはずじゃなかっただろ?
 歴史が僕を問いつめる まぶしいほど青い空の真下で♪

この曲を初めて聴いた時、後半、ヒロトの声に重なるマーシーのハスキーな声にはまった。
最後の「♪真下で」のところで、私はいつも広い世界にほうり出される。

「ブルースをけとばせ」では吠えてる。
 ♪70年なら一瞬の夢さ やりたくないことやってる暇はない  
 
「泣かないで恋人よ」の
♪諦めきれぬ事があるなら 諦めきれぬと諦める
 諦めきれぬ事があるなら それはきっといい事だ

「1000のバイオリン」の
♪ヒマラヤほどの消しゴムひとつ楽しいことをたくさんしたい
 ミサイルほどのペンを片手に面白いことたくさんしたい

いいなぁ、いくつになっても、私はブルーハーツに励まされている。

          ~シュールな夢を見る
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パンダ星

2008-10-16 | 私の星々
   2008年10月15日永眠

私より丸顔の人手を挙げて  

   ひまそうに見えるのかしら笹囓り

      義務感で子供生むはずないじゃない

         千分の一の体重抱きしめる           

            母昼寝してる間に子は育つ

               そんなあなたが大好きでした。
               ありがとう、梅梅メイメイ。
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いつかあなたは伝説になる

2008-03-10 | 私の星々
春の陽射しのベランダで、ボケの花が咲いている。
動かないけど、鮮やかな花の色で、紛れもなく今年も春が来たと、教えてくれる。

そんな暖かい日曜日の今日は、マラソンTV観戦の日。
名古屋は気温13,8度。選手にとっては、暑いくらいなのかもしれない。

世の中には、42.195㎞を完走した人と、していない人がいる。
私は前者を心から尊敬する、後者である。
時々身体が重いと感じたら、プールで歩いたり、ウォーキングをする。
そんな時、必ず思い出し、「今頃彼女も走っているかなぁ」と思うアスリートがいる。

歩くのは、右足、左足、右足、左足、交互に出すだけ。
走るのは、違う。一歩ごとに、重力に逆らって、自分を宙に飛ばすのだ。
でも、彼女の走りはそれを感じさせない。
ほとんど頭の上下動がない、忍者走り。
高校の時、駅伝の応援に、沿道で見ていたら、
彼女はすーっと、風のように通り過ぎていった。

あれから10年経った。
今日は、ずっと彼女をTVの画面で見ることができた。
先頭集団にしっかり入ってる。
時々、TVの前で足踏みなんかしながら、「ガンバレー!」って言ってたら、
30キロ地点で、なんと、トップに立った。
もう、大興奮。気がついたら、「堀江ちゃーん!!」と叫んでいた。

団子になった先頭集団から抜け出た時、
トップを走るあなたは、何を思っていたんだろう。
普段の弾けた笑顔からは、想像できない真剣な横顔。
まもなく若い中村選手に抜かれたけど、
今日のレースの動きを作ったのはあなたよ。
…「ガァッ、ハッ、ハッ」あなたの笑い声が聞こえてくる。
あなたは、優勝できなくても、笑い飛ばして、また走る。
明日も走る。

この10年、あなたは何歩、大地に足跡をつけたのかしら?
堀江知佳の足跡を。

とにかく、5位入賞、おめでとう。
頑張ったあなたに、カンパーイ!
そして、また、こんな気持ちにさせてくれて、ありがとう。

 ~いつかあなたの忍者走りは伝説になる~
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夢見る想い

2007-11-09 | 私の星々
私の思春期は、ある日ラジオから聞こえてきた ♪タ・タンという響きで、始まった。
初めて、音楽を聴いて、胸がドキドキした。その曲は、

ジリオラ・チンクエッティの「♪夢見る想い」

♪ノノレター(タ・タン) ノノレター(タ・タン) ペラマルティ
 ノノレター(タ・タン) ペルシーレ  ソラコンテ

 ラシャキュヴィヴァ ウナモレロマンティコ~

今までずっと、「夢見る想い」という題名そのままを、受けとめて、
意味も知らずに、カタカナで口ずさんでいた。
すると、いつも、私の中で不思議なことがおこるのだ。
♪ノノレター、と口ずさむと、タタンと胸が鳴る。
自分の中で長く持続してるこの感覚は、いつのまにか自分を構成する一部分になっている。

1964年サンレモ音楽祭、16歳のチンクエッティはこの歌で優勝した。
今朝、彼女の「愛は限りなく」(1966年伊)という映画をTVで観ながら、この歌の正確な歌詞を知った。

Non ho l'età, non ho l'età per amarti
Non ho l'età per uscire sola con te

E non avrei, non avrei nulla da dirti
Perché tu sai molte più cose di me

Lascia ch'io viva un amore romantico
Nell'attesa che venga quel giorno, ma ora no

Non ho l'età, non ho l'età per amarti
Non ho l'età per uscire sola con te

Se tu vorrai, se tu vorrai aspettarmi
Quel giorno avrai tutto il mio amore per te

Lascia ch'io viva un amore romantico
Nell'attesa che venga quel giorno, ma ora no


 私はまだ幼すぎる あなたを愛するには幼すぎる
 二人だけのデートにはまだ早いの
 
 私にはまだないの あなたに語れることが何一つ
 だってあなたは私よりずっと大人

 今のまま恋を夢見させて
 いつかその日が訪れるまで 今はまだだめ
 
 私はまだ幼すぎる あなたを愛するには幼すぎる
 二人だけのデートにはまだ早いの
 
 もしよければ待っていて いつかその日が来たら
 私の愛のすべて あなたに愛を捧げるから
 
 今のまま恋を夢見させて
 いつかその日が訪れるまで 今はまだだめ

映画は、チンクエッティがギター片手に「夢見る想い」を歌うシーンから始まって
…ラストは、彼がシートベルトを締めた離陸直前の機内に、突然、管制塔のマイクを持って歌うチンクエッティの♪愛は限りなくティアーモ♪が流れ、飛行機は恋人達のために止まり(さすがイタリア)飛び出した彼と、滑走路でKISS…という、彼女の歌のための軽いラヴストーリーだった。
18歳のチンクエッティは、可愛い。空から観た白黒ナポリが映し出されるシーンがあったのが嬉しい。(最近この空からみる都市の映像に、はまっている)

彼女のレコードもCDも、持ってないのに、youtubeのおかげで、様々な彼女の映像をみることができる。2005年、57歳になったチンクエッティは、まだステージで「♪ノノレター(私は幼すぎる)」と歌っていた。当然ずっと年下の私なんて、ノノレターよ。

今日はプールで、彼女の ♪雨 のメロディを思い出したので、いつもより速いウォーキングになった。
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お地蔵様に水かける夏

2007-08-10 | 私の星々
私が都会で学生生活を始めるにあたり、田舎の両親は、「大学に近く男子禁制で大家さんのしっかりした下宿を」と、同郷の先輩に下宿探しを依頼した。

私は初めてそこを訪れる時、「橋を渡って大きな通りに出たら、右に曲がってお地蔵様のある家」を目指すようにと、教えられた。でも、私はお地蔵様を見つける前に、仙人に出会ってしまったのだ。古い木造家屋の戸口に座った、真っ白の長いおひげの仙人を見たとき、なぜか、私はここに違いないと思った。目があったら仙人はニコニコと天上の笑顔で迎えてくれた。誰一人知る人のいない都会でこの笑顔が私にはきっと必要なんだと思った。

その下宿の1Fには、お地蔵様と、大家の新太郎爺さん夫婦が住んでいた。2Fには同じ大学の英検1級をめざしていつもリンガフォンかけてる先輩と、私を含め新入生二人の3人の下宿人。座らないと流しが使えない屋根裏部屋のような一部屋はさすがに空室だった。
それぞれの部屋に通じる階段は別々で、間取りは部屋ごとに全く違っていたが、どこも台所と寝室の2部屋セットになっていた。隣人の部屋には、床の間があり、私の部屋にはガラスの天窓があった。それぞれの台所は中庭に面したベランダがついていて、互いの部屋のベランダがつながっているという複雑な間取りの2Fだった。

仙人の新太郎爺さんは、耳がほとんど聞こえない。お婆さんは黒いメガネをかけていてほとんど目が見えない。そんな二人が仲良くお地蔵様を守りながら暮らしていた。私は老夫婦とお地蔵様に守られながら、3年後、新太郎爺さんが、娘さんや息子さんのところに行ってしまうまで、その下宿で学生生活を送った。

毎朝、お婆さんはお地蔵様に新しい水をかけ、お花の水を変える。道行く人が供えた花をビンにさす。私は、新太郎爺さんの座る戸口から、その笑顔に送られて、新しい日々の中に出ていった。

月末に、私たちが揃って家賃を持って行った時、普段無口なお婆さんが、おはぎを私たちに勧めながら、話をしてくれた。
娘さんと息子さんは二人とも、1945年8月6日、爆心地近くでの、勤労動員で、建物撤去作業をしている時、被爆し、弔うこともできなかったと。写真もないのだと。自分たち夫婦も被爆手帳を持っていると。自分は真夏でも長袖しか着れないと。

ヒロシマという街で大学生活を送った私にとって、平和公園と元安川の川辺は、デートコースだった。緑が多く、ベンチも多い。暑い陽射しを浴びても、若い私は夾竹桃の暑苦しい色に、反感を抱く余裕すら持って、今の3倍くらいのスピードで、毎日ずんずん歩いていた。川沿いの道が整備されているのは、そこに何もなかったから、何もなくなっていたから、整備しやすかったんだとは、その頃は思いつかなかった。

8月6日、今年も広島平和記念公園で、式典が行われた。同じ場所で何層もの歴史が重なり合っているのは遺跡のあるローマだけではない。ヒロシマの式典の行われているあの緑の芝生の下に、私の青春の思い出があり、その下には、新太郎爺さん夫婦の、彼らの娘さん息子さんの地獄絵が重なっている。

私はずっと、だいぶ長いこと、自分が生まれる前は、世界が白黒だったと思っていたような馬鹿な子供だった。昔の写真や映画や、ニュース映像がみんな白黒だったからかもしれない。歴史を勉強しても自分とつながらなかった。
昔、絵巻物の時代にも、戦国時代にも、戦争中にも、美しい青空と、緑の木漏れ日があり、自分と同じように、空をぼーっと眺める人間がいた。と、本当に認識できたのは、あの平和公園の緑の芝生の上に寝転がり、赤い風船を飛ばした時であったような気がする。赤い風船は原爆資料館の上の青い空高く、飛んでいって空に吸い込まれて消えた。
その空を見ていて、あの8月6日の朝だって、ここの上に空は青く美しく広がっていたんだと、思った。でも青い空は一瞬にして、キノコ雲に変わり、黒い雨が降った。
それがどんなに酷いことか、ヒロシマに生き続けた、新太郎爺さんも、お婆さんも知っている。

爆心地から1.2㎞の場所のお地蔵様に、毎朝、水をかけるお婆さん。その水には、涙や悔しさや、新太郎爺さん夫婦がここにいる理由や、いろんな思いがこもっていること、が、私にもわかった。
私自身が、ここにいる、理由も、お地蔵様にかける水に含まれているような気がした。

                  
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