星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

中之島を歩く

2008-08-27 | 五七五
大阪のモディリアーニ展に行った帰り、中之島を歩いた。

      街の中 華麗なる脱皮プラタナス

         

      夏雀 曇り空とて影もなく 仔猫にも似た近づき加減 

      

   公会堂てっぺんの二人気にかかる 



造形的に、余計なものが乗っかっている感じのこの像、屋根の上で仲良しカップルが大阪の街を見下ろしているように見える。もしかしたら、気前よく、中之島公会堂(大阪市中央公会堂)の建設資金を寄付した北浜の風雲児、岩本栄之助夫妻かしら。と、帰って調べたら、ギリシャの神々だった。知恵の女神・ミネルバと職人・商人の守護神マーキュリーのブロンズ像で、戦時中の金属供出で撤去されていたが、平成14年の改装時に復活したらしい。


ところで、今日は記念日。お祝いブーケは名も知らぬこのお花。
終わりと始まりの境目に咲く。

   

       30年これから始まる30年
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作品に題をつける

2008-08-25 | 持ち帰り展覧会
芦屋市立美術博物館の「3つの柱~コレクションの底力」のうちの大黒柱になる、吉原治良さんを中心とした「具体」の作品を、ゆっくり鑑賞してきた。

以前、私は抽象画の多くには、題がついていないことに不満を述べたことがある。
しかし、今回、具体のメンバーの、題名のついていない作品をみているうちに気付いた。
作者が名付けなかった抽象画は、見る人が勝手に題を付けていいのだと。

作者が作りたいものを作リ終えた時点でその作品は作者から離れた物となる。完成とは、作者とその作品の「出会い」の終わりのことなのだ。才能ある作者の興味はすぐにもう次の作品に向かう。
後はその絵をみる人と、その作品の「出会い」が待っている。

今回のコレクション展では、題名をつけたくなる作品がたくさんあった。
名付けることは、出会った証明である。

向井修二さんの1964年頃のこの「作品」に私は「空の上から」と名付けた。

         ~写真は所蔵品目録より

向井さんは、具体展でのデビュー当時、記号を書き込むことで、あらゆるものを等質化させ、そのものが本来持つ意味を無くすことに努めたらしい。「記号の部屋」というインスタレーションでは、部屋中の壁や家具やそこにいる自分自身にも細かい記号を書き込んでいる。

でも、今回、40年前にそんな作者から離れた「作品」を見ていると、記号そのものの楽しさに酔ってしまう。
元来、記号とは、「意味を持つから記号である」ことを思い出してしまうのだ。
そう、私は地図記号が好き。桑畑・果樹園・針葉樹林・牧草地・荒地etc。
(現在の日本地図上には、桑畑がどれだけ残っているのだろう。懐かしい桑畑、雷が落ちてこない聖地。私は今でも雷鳴が近づくと「桑原桑原クワバラクワバラ」が、つい口に出る)

161.5×130.0の画面に、作者が等質化をねらってつけた百種類以上の記号に、それぞれの意味をつけてみる。
でたらめで楽しい記号のそれぞれに、私が勝手にどんな意味をつけてもいいのだけど、どうしてもその意味にしかとれないものが、あった。
それは、「←」である。
作者が向かって右中央から大きく書いたこの「←」は、矢印の意味にしかとれない。
何かがそこから、その方向へ向かう。鳥か、飛行機か、念力か?
とにかく、じっと見ていると、3Dアートのように立体的に浮き出てくる向井さんのこの作品は、とてもいい。

このコレクション展では、上前智祐さんの1954年の「作品」にも、題名を付けた。

青赤黄緑紺などカラフルな1㎝四方の無数の四角い点が集まっている、まるで四角い頭のウォーリーを探せ、周囲は濃い蒼い闇色。
華やかな国威発揚オリンピック開会式が開かれているどこかの国の、同じ夜、暗い広場に集まって民主化要求集会を開いた人々、彼らの頭上を突然照らした光。その一瞬を捉えた作品。
~題は「もう一つの開会式」

どうやら私は、作者が名付けなかった作品に、勝手に題をつける、という抽象画の楽しみ方を見つけてしまったらしい。
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陶板名画の世界

2008-08-18 | 持ち帰り展覧会
涼しい場所を求めて、こんな所に行ってきた。



ジョットーの壁画に囲まれた静かな不思議空間。

                 

青い天井に金色の星々。
結婚式を挙げるなら、隣のシスティーナ礼拝堂より、スクロヴェーニ礼拝堂。
祈りを捧げるなら、ミケランジェロより、ジョットー。

ここはイタリア、パドヴァ郊外。
ではなく、鳴門海峡に面する大塚国際美術館。

すべて原寸大の陶板名画1000点余。
一番大きいのはシスティーナ礼拝堂の天井壁画、一番小さいのは彼女かしら?

                   「パリの女」 

昔々、こんな美しい女(ひと)がいた。

   
     「若い女性の肖像」             「春」 

モザイク作品は陶板タイルでもその美しさは伝わってくる。
近代現代作品はパスして、古代を巡る。

ナイルのほとりで、ワニさんに睨まれたりして。「ナイル・モザイク」

               

自分の柩の蓋にこんな絵を残す人はどんな生涯を送った人だろう。
冥界へのダイビング。

         「飛び込む男」

オリンピックの陸上選手のような躍動感ある足の下に、こんなファンキーな「ゴルゴン3人娘」が描かれている。
「末娘メドゥーサの首がない」と指さされても、あの特徴ある頭がないから怖くない。
 
  「ペルセウスとゴルゴン」

世界史の図説にも登場する様々な芸術品を、いつ頃、何処で、などという歴史的な制約など取り外して、純粋に、「これいいなぁ」「これナーニ?」と再発見し、鑑賞できる、楽しい美術館だった。(写真OK、触れてもいいなんて夢のよう)

そして、残るワクワク感…いつか、本物に出会う時があるかもしれない。
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フィッシュカツ

2008-08-14 | NO SMOKING
徳島の田舎で育った私は、子供の頃、頻繁に食卓に上った豆腐とそうめんが嫌いだった。
スーパーなどなかった田舎で売られていた豆腐は、キャッチボールができるほど固いものだった。父の好物だったため、ほぼ毎日食卓に上ったが、私は表面の木綿のチェックの地模様を見ていると食べる物ではないような気がしてくるのだった。
絹ごし豆腐に出会ったのは、大学時代県外に出て自炊を始めた時だった。豆腐がこんなに美味しいものだと初めて知った。今、麻婆豆腐を作るときでも、私は木綿豆腐は使わない。

夏の昼ご飯としてほぼ毎日のように登場した半田そうめんは、全国的に言うと、ほぼひやむぎに相当する太さで、中に数本入っているピンクや緑を食べてしまうと、すぐに食べる意気込みを失った。
大学時代に母から送られるありがたい荷物には時々半田そうめんが入っていた。おすそわけした友人は、これを焼きそばのように調理した。そうめんの太さではないと認定されたのだ。そして、彼女がそうめんはこれだと作ってくれた「揖保の糸」の繊細さに驚いた。これは、別世界のものだと思った。
その時から現在に至るまで、夏の昼の主食は「揖保の糸」である。

このように、田舎育ちの私は、徳島の田舎生まれの食べ物に背を向けて、生きてきたのだけれど、何処にいても、これだけは、絶対なくてはならない故郷の味がある。
それは「すだち」。田舎の家にはこの木があって、もうすぐ収穫の時期だ。
あらゆるものにかける。味噌汁の苦手な私もこれを絞ると完食できる。

そして、「フィッシュカツ」である。
高校時代、お弁当のおかずによく入っていた。
カレー風味のピリリとした後味の厚さ5ミリくらいの練り物に衣をつけて揚げた、カツというには、余りにも嘘っぽい、安いお惣菜である。
なくてはならないというのではないが、徳島を離れたら、売っていなかった。県外では作られていない、実にローカルな食べ物だったのだ。少し恋しくなった。
だから、徳島に帰るたびに、高速鳴門のバス案内所の横のコンビニで売られている「小松島カツ」を、お弁当のおかず用に買って帰る。ついでに、エビ竹輪も。

夫のお弁当を作って2年、最近は作るのが楽しくなった。

 
    フィッシュカツ入ってます         
      
 

 
                            フィッシュカツ入ってます 

~「信じられない」って言ってたTさん、私、本当に毎日愛妻弁当作ってるでしょ。 
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猫は生きている

2008-08-09 | ネコの本
大学時代、「猫は生きている」という映画の上映会を手伝った。
(監督:島田開、人形製作・操演:人形劇団京芸、1975年)

        

主人公は、東京大空襲の中を、仔猫をつれて逃げる猫の「稲妻」
赤い炎の人形劇だった。
途中から息が止まったような状態でみることになる映画だ。
心の中で「走ってー、走ってー、逃げるのよー」と必死で叫んでしまう。

映画を観た後、この原作本を買った。
「猫は生きている」早乙女勝元作、田島征三絵(理論社、1973刊)

  
              
でも、映画を観た後、すぐには読めなかった。
表紙の絵が、昌男くんで、どんなシーンなのか知ってしまっていたから、
なかなか本を開くことができなかったのだ。
何日か経って、勇気を出して、開いてみた。
稲妻母さんと、ひい吉、ふう吉、みい吉、よう吉がいた。
                       

田島さんの迫力の絵に、本だけど、途中からまた叫んでいる。
「走ってー、走ってー、逃げるのよー」と。
でも、逃げる所はない。

昌男くんのお母さんは、閉ざされた鉄のシャッターの前で、
洪水の日、仔猫を口にくわえた稲妻が、あらん限りの力をだして泳いでいた姿を思い出し、炎の熱さに耐える。

『写真版 東京大空襲の記録』(新潮社)に、学徒兵として東京大空襲時の遺体の処理作業を行った須田卓雄さんの体験記~「花があったら」~が載っている。
「猫は生きている」の昌男くんのお母さんは、ここから生まれた。

「猫は生きている」は、東京大空襲の日、必死に生きようとしたお母さんと子ども達を描いた本だ。
平和な時代に生きる私達に、今の生活のすべての前提が「この国が戦争をしていない」ということであることに、気付かせてくれる本だ。

1945年3月10日、8月6日、8月9日…その後に続く今

ジョー・オダネルさんが長崎で撮った写真「焼き場に立つ少年」を忘れることはないだろう。
大人が始めた戦争から子供達は逃れることができない。

     ~CD「にんげんをかえせ」
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猫のいる部屋

2008-08-01 | 持ち帰り展覧会
美術館近くのリンゴ園の林檎は、今は緑の実。
夏の太陽の下、これから赤く染まっていく。

           

今、芦屋市立美術博物館では「3つの柱~コレクションの底力」が開かれている。
1400点にのぼるこの美術館の蒐集品は
①小出楢重とその周辺画家 ②吉原治良と具体 ③中山岩太と芦屋カメラクラブの3本柱からなっている、という。

1Fの小出グループの展示室には、周囲に目力ビーム出している存在感のあるネコさんがいた。

              (絵葉書売っていました)

仲田好江(1902~95)さんの「猫のいる部屋」(1973年 45.5×33.5)
画家の愛猫が亡くなった直後に描いた絵だとホワイエにある小出資料に載っていた。
お名前は?と呼びかけてみる。
あなたはいつもこんなふうに、凛々しい眼差しで画家とコンタクトをとっていたのね。
70代の画家は、旅立ったネコさんをどんな思いで描いたのだろう。
強い意志を感じるこのネコさんは「私待ってるから」と言ってるような気がする。
きっと今頃、仲田さんは、このネコさんのいる部屋で暮らしている。

美術館の所蔵品目録を見ると、芦屋市立美術博物館には、作者寄贈151点を含む155点の仲田作品があって、題名に猫の名がついている作品は、少なくともあと2点ある。
私は「氷原の太陽」のような、彼女の50代以降の、水色が美しい作品が好きだ。
いつかまたコレクション展に、彼女のネコさんが登場する時を待っている。

2Fの芦屋カメラクラブの作品は、まだライカのカメラが家1件値の高価なものだった、戦前の時代に撮られた芸術写真のコレクションである。
阪神大震災の時、倒壊した芦屋のアトリエから、貴重な昭和初期の写真ネガや銀板が、文化財レスキュー隊によって救出された。その後の学芸員さんやのボランティアの尽力で、これらの作品を見ることができる。
昭和初期のモダニズムの粋のような香りがここにはある。
肖像写真より、いかにも遊び的素材を撮った写真が面白い。
中山岩太さんの、タツノオトシゴや貝殻を配置したモノクロなのに涼しそうな空気が漂うコラージュのような作品は、持ち帰って部屋に飾りたいと思う。

一番興味深い、第1展示室の吉原治良と具体美術協会のメンバー作品は、もう一度訪れてからにしましょう。
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