比治山の桜はもう咲きはじめたかしら。
ヘンリー・ムーアの広場ももうすぐ桜色の世界に変わるはず。
一ヶ月前、冬の終わりの雨模様の日に、標高70Mの比治山にある広島市現代美術館(MOCA)の「高松次郎コレクション in Hiroshima」に行ってきた。
電車道の側、坂道の入り口にある多門院遍照寺。ここの鐘楼は、被爆時の姿のまま残されている。鐘は戦時中の供出で無くなっていたが1949年「ノーモアヒロシマ」の文字が入った鐘が制作され、毎日、朝の8時15分に、鎮魂の鐘が鳴らされている。
美術館に行くには、坂の途中で、広い車道を行くか、階段の山道を登るか、の選択をしなければならない。
雨があがったので、階段を登った。正解!階段を上まで登ると、彫刻の広場に出た。
一目で新宮晋さんだとわかる作品がそこにあった。
新宮晋「私たちの星」1988
澄川喜一「安芸の翼」1988 ヘンリー・ムーア「アーチ」1986
入り口に到着。広島市現代美術館は黒川紀章さんの設計。上空から観てみたい建物だ。
天候のせいか、休館日と間違うくらい、閑散としていた。
兵庫県立美術館のコレクション展Ⅲで、高松次郎さん(1936~98)の「脚立の紐」という作品があった。
大きな脚立にかけられた暴力的とも思える膨大な量の紐。
その横には、シンプルというか表現の限界のような、文字だけの作品、
白い紙に「その七つの文字」とだけ7つの文字が書かれたものと、
「THESE THREE WORDS」と3つの英単語が書かれた作品が展示されていた。
前回のコレクション展Ⅱの高松作品は、低周波の音波がきーんとどこかでしている気がする、不思議な不安が湧いてくる、美しい影の油絵作品だった。
この幅広さはどうだろう。いったいこの人は何を考えているのだろう。
彼の他の作品をもっとみてみたいと思った。
広い会場には、「何だろう?これは」と、考え続けざるを得ない不思議な物が展示されている。
存在の最小の単位は「点」、それを繋ぐ「線」、不在のかたちを表す「影」
紙は細かくちぎられ、また元の一枚の紙になる。
砕かれたレンガ、ビーズ状になった無数の金属片、を見ていると、
「単体」という言葉に至る。
人もまた単体として存在している、などと思ってみる。
その場合、バラバラになった断片の中には無数の経験や記憶が混ざっているだろう。
線を空間に展開したら、紐になった。
ビンから伸び出す紐は、何かと繋がろうとする意志を持っているようだ。
兵庫県立美術館の「脚立の紐」が暴力的に見えたのは、繋がりを断たれた中途半端な存在の多さに、怒りを覚えたからかもしれない。
「The Story」という作品は、第1章[a b c…]第2章[aa ab ac…]第3章[aaa aab aac…]第4章[aaaa aaab aaac]…と、ただタイプで打った文字が続く。文字が意味を持たなければ、どうなるのか、その結果がこれだったのだ。
影の作品には、方眼紙に書かれた綿密な設計図があった。
CGのない1970年代でも、高松さんは、この親子をきっと360度、回転させることができたと思う。
時間が止まったような一瞬。
眼をつむったら見える、いつまでも残る残像のような「影」の作品は、
やはり、哀しくて美しい。
ヘンリー・ムーアの広場ももうすぐ桜色の世界に変わるはず。
一ヶ月前、冬の終わりの雨模様の日に、標高70Mの比治山にある広島市現代美術館(MOCA)の「高松次郎コレクション in Hiroshima」に行ってきた。
電車道の側、坂道の入り口にある多門院遍照寺。ここの鐘楼は、被爆時の姿のまま残されている。鐘は戦時中の供出で無くなっていたが1949年「ノーモアヒロシマ」の文字が入った鐘が制作され、毎日、朝の8時15分に、鎮魂の鐘が鳴らされている。
美術館に行くには、坂の途中で、広い車道を行くか、階段の山道を登るか、の選択をしなければならない。
雨があがったので、階段を登った。正解!階段を上まで登ると、彫刻の広場に出た。
一目で新宮晋さんだとわかる作品がそこにあった。
新宮晋「私たちの星」1988
澄川喜一「安芸の翼」1988 ヘンリー・ムーア「アーチ」1986
入り口に到着。広島市現代美術館は黒川紀章さんの設計。上空から観てみたい建物だ。
天候のせいか、休館日と間違うくらい、閑散としていた。
兵庫県立美術館のコレクション展Ⅲで、高松次郎さん(1936~98)の「脚立の紐」という作品があった。
大きな脚立にかけられた暴力的とも思える膨大な量の紐。
その横には、シンプルというか表現の限界のような、文字だけの作品、
白い紙に「その七つの文字」とだけ7つの文字が書かれたものと、
「THESE THREE WORDS」と3つの英単語が書かれた作品が展示されていた。
前回のコレクション展Ⅱの高松作品は、低周波の音波がきーんとどこかでしている気がする、不思議な不安が湧いてくる、美しい影の油絵作品だった。
この幅広さはどうだろう。いったいこの人は何を考えているのだろう。
彼の他の作品をもっとみてみたいと思った。
広い会場には、「何だろう?これは」と、考え続けざるを得ない不思議な物が展示されている。
存在の最小の単位は「点」、それを繋ぐ「線」、不在のかたちを表す「影」
紙は細かくちぎられ、また元の一枚の紙になる。
砕かれたレンガ、ビーズ状になった無数の金属片、を見ていると、
「単体」という言葉に至る。
人もまた単体として存在している、などと思ってみる。
その場合、バラバラになった断片の中には無数の経験や記憶が混ざっているだろう。
線を空間に展開したら、紐になった。
ビンから伸び出す紐は、何かと繋がろうとする意志を持っているようだ。
兵庫県立美術館の「脚立の紐」が暴力的に見えたのは、繋がりを断たれた中途半端な存在の多さに、怒りを覚えたからかもしれない。
「The Story」という作品は、第1章[a b c…]第2章[aa ab ac…]第3章[aaa aab aac…]第4章[aaaa aaab aaac]…と、ただタイプで打った文字が続く。文字が意味を持たなければ、どうなるのか、その結果がこれだったのだ。
影の作品には、方眼紙に書かれた綿密な設計図があった。
CGのない1970年代でも、高松さんは、この親子をきっと360度、回転させることができたと思う。
時間が止まったような一瞬。
眼をつむったら見える、いつまでも残る残像のような「影」の作品は、
やはり、哀しくて美しい。