星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

点・線・影

2009-03-27 | 持ち帰り展覧会
比治山の桜はもう咲きはじめたかしら。
ヘンリー・ムーアの広場ももうすぐ桜色の世界に変わるはず。
一ヶ月前、冬の終わりの雨模様の日に、標高70Mの比治山にある広島市現代美術館(MOCA)の「高松次郎コレクション in Hiroshima」に行ってきた。
電車道の側、坂道の入り口にある多門院遍照寺。ここの鐘楼は、被爆時の姿のまま残されている。鐘は戦時中の供出で無くなっていたが1949年「ノーモアヒロシマ」の文字が入った鐘が制作され、毎日、朝の8時15分に、鎮魂の鐘が鳴らされている。
                 

美術館に行くには、坂の途中で、広い車道を行くか、階段の山道を登るか、の選択をしなければならない。
雨があがったので、階段を登った。正解!階段を上まで登ると、彫刻の広場に出た。
一目で新宮晋さんだとわかる作品がそこにあった。

新宮晋「私たちの星」1988

 
澄川喜一「安芸の翼」1988     ヘンリー・ムーア「アーチ」1986

入り口に到着。広島市現代美術館は黒川紀章さんの設計。上空から観てみたい建物だ。
天候のせいか、休館日と間違うくらい、閑散としていた。




兵庫県立美術館のコレクション展Ⅲで、高松次郎さん(1936~98)の「脚立の紐」という作品があった。
大きな脚立にかけられた暴力的とも思える膨大な量の紐。
その横には、シンプルというか表現の限界のような、文字だけの作品、
白い紙に「その七つの文字」とだけ7つの文字が書かれたものと、
「THESE THREE WORDS」と3つの英単語が書かれた作品が展示されていた。
       
前回のコレクション展Ⅱの高松作品は、低周波の音波がきーんとどこかでしている気がする、不思議な不安が湧いてくる、美しい影の油絵作品だった。
この幅広さはどうだろう。いったいこの人は何を考えているのだろう。
彼の他の作品をもっとみてみたいと思った。

広い会場には、「何だろう?これは」と、考え続けざるを得ない不思議な物が展示されている。

存在の最小の単位は「点」、それを繋ぐ「線」、不在のかたちを表す「影」

紙は細かくちぎられ、また元の一枚の紙になる。
砕かれたレンガ、ビーズ状になった無数の金属片、を見ていると、
「単体」という言葉に至る。
人もまた単体として存在している、などと思ってみる。
その場合、バラバラになった断片の中には無数の経験や記憶が混ざっているだろう。
               

線を空間に展開したら、紐になった。
ビンから伸び出す紐は、何かと繋がろうとする意志を持っているようだ。
兵庫県立美術館の「脚立の紐」が暴力的に見えたのは、繋がりを断たれた中途半端な存在の多さに、怒りを覚えたからかもしれない。

「The Story」という作品は、第1章[a b c…]第2章[aa ab ac…]第3章[aaa aab aac…]第4章[aaaa aaab aaac]…と、ただタイプで打った文字が続く。文字が意味を持たなければ、どうなるのか、その結果がこれだったのだ。

                   

影の作品には、方眼紙に書かれた綿密な設計図があった。
CGのない1970年代でも、高松さんは、この親子をきっと360度、回転させることができたと思う。

      

時間が止まったような一瞬。
眼をつむったら見える、いつまでも残る残像のような「影」の作品は、
やはり、哀しくて美しい。

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若草山

2009-03-22 | 散歩計
阪神なんば線が開通した。

奈良まで直通。天気はいいし、さぁ、若草山に登ろう。



この雲をみて、何かを決意した人がきっといるわ、と思わせる若草山の上空。
これから毎日、麓から緑が上に拡がっていく。春っていいわー。

538段の遊歩道を、汗かきながら登る。438段目は特にきつい。
ここは、昨年の春から、ずっときたかった場所。
標高343Mで、360度の見晴らし。空が広い。

   おっ、鹿男だ。
    …きっとこんな顔。

                  


      おせんべいを持った鹿使いも登場。

フン♪フン♪フン♪シカの糞 の上に座って、古の平城京を思い描いてみる。



お腹がすいた。深呼吸して、帰り道。
山を一気に駆け下りたいと思ったら、先を越されてしまった。

 とっとっとっとっとー。

いつまでも、この山に登れるように、足腰鍛えようと心に誓った春の一日。
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蜂とオキザリス

2009-03-11 | 五七五
ベランダに春の使者達訪れる

                       

ポカポカと暖かい昼下がり、ベランダの方を開けていたら、
突然、灰色の小鳥が部屋の中に飛び込んできた。
驚いたのは、私と、鳥と、同時だと思う。
驚きの度合いは、私と小鳥と、どちらが大きかっただろう。
小鳥は羽根をバタバタしながら2回ほどリビングの天井近くを旋回して、
自分が入ってきた場所から、またどこかに飛び去って行った。
大丈夫かしら?あの子。
でも、正確に飛び出して行ったわ。
もしかしたら、最初は「あっ、失敗失敗」なんて具合だったのに、いつのまにか、人間を驚かせるために、時々、ベランダからマンションの各部屋に突入しては、驚く人間を感じて楽しんでいる凄腕の鳥なのかもしれない。
鳥さん達から見たら、マンションだって、空中に突き出したコンクリートの大きなオブジェ。

そういえば最近、毎日、ベランダの黄色いオキザリスを訪ねてくる一匹の蜂がいる。

   
     
              


いつも一匹だけでやってきて
「これ、ぜ~んぶ僕のもんだからね」とあわただしくすべての花に顔を突っ込んでいく。
あまりのあわただしさに、花の蜜を吸っているように見えない。
これを見てるとわかる。花は花だけで生きてるんじゃない。虫たちと一緒に生きているんだ、と。

♪野の花は風に揺れ、愛することも愛されることも知らずに咲いているの(森山良子「まごころ」)

ではない。
野の花達は野の虫達に愛されている。                  

               生き物の繋がりを知る幸せ季
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遠い私の街

2009-03-09 | 散歩計
「1、2、3、…20」数えたら路面電車は次の停車場に着く。昔ながらの電車。大学時代、小さな黒いカバンを腰に下げたこの電車の車掌さんのバイトをしていた友人がいた。あの時私も一緒にやれば良かったと思う。私がやったバイトといえば、本屋の店員、家庭教師と珠算教室の先生、ホテルの売店の店番、キャンディの店頭販売…あー、なんて人生経験の少ないことだろう。あの頃なら何でもやれたのに…

 
街にはGREENMOVERMAXという新しい2両編成の車両が走っている。これが35年前と同じ古い電車と同じレールの上を走っている。まるで、阪神電車の各停車両と、新幹線のぞみ号が、同じレールの上を走っているようだ。
時々ドイツの古い電車も走っていたり、やはり広島の路面電車は楽しい。

千田町の大学の跡地は、ドッグランになっていた。大学が郊外に完全移転したのは1995年、もう14年も経っている。キャンパスではなく、東千田公園になっていた。

        
     
土地の一部は高層マンションが建ち、開発途中でそのままになっているような遊休地状態。裏に回るといつもカエルの鳴き声が不気味に聞こえていた理学部の建物が、保存というには窓ガラスは割れるにまかされた野ざらし状態で残されていた。そばには、崩れる危険があるので近づかないようにという立て看板が立っている。

       

この寂しさはどうだ。ベンチに座って、キャンパスの喧噪を思い出そうと、寂しい風に吹かれていたら、向こうの方で踏ん張っていたワンちゃんが全力疾走で目の前を横切っていった。
そう、ワンちゃんにとって、ここは楽園、先に来ている犬が、後からやってきたチビ犬を熱烈歓迎している光景は心温まる。これでいいのだろう。考えたら都会の街中にドッグランがあるなんて、ステキじゃないの。

                

学生が去った街にも、古本屋の「大学堂書店」は、残っていた。大阪と比べたら古本の値段は3割安。
本は1割引きで買えたけど、時給290円(当時でも最安)でバイトしていた「いずみ書店」は、3Fのみの営業、でも残っていた。
「平和書房」のあった場所は自販機が置かれ2軒隣に移転。自販機3台分くらいのあんなに狭い空間にどれだけ本が詰まっていたことか、私はそこでいつも詩集を買うかどうか迷っていた。
あの頃は本を一冊読むたびに、世界が確実に拡がっていった。今も同じと信じよう。

私の♪学生街の喫茶店、「アメリカ」はちょっと怪しげな留学センターになっていた。赤い大きなソファー椅子。店の壁には、月替わりの大きな絵が掛かっていて、美人のママさんがいた。ここのチキンライスはクリームシチューがライスの上に掛かった不思議なものだった。

    

入学してすぐ学科の先輩達と大挙して行った鷹野橋の喫茶「ぶらじる」はコーヒー150円で、ドーナツがついてきた。ここはまだ営業中。2Fは貸しホールになっていて1Fは鷹野橋のイベント情報センターも兼ねている様子。
この日はコーヒー400円で、クッキーが付いてきた。店の奥のTVの画面で、「おくりびと」アカデミー賞受賞のニュースが流れ、大好きな伊右衛門さんが笑っている。おめでとう。そういえば、サロンシネマはまだ、あるのだろうか?

おー、残っていたわー、「サロンシネマ」 

当時からゆったりとしたテーブル付きのソファのような座席だった。
「屋根の上のヴァイオリン弾き」「個人教授」「花のようなエレ」「ブラザーサン・シスタームーン」はここで観た。いつも3本立て。体力が有り余っていたのだ。今なら続けて2本も無理かもしれない。

「北京亭」も鉄板焼きの赤い店「島の香」も健在。こんなに脂っこいものご馳走だと思ってたのねー。

学科の男子が場内整理のバイトをしていた広島市民球場は、新幹線の駅のそばに移転していた。

この街を離れてからの私が経験した年月と、同じ長さの年月を、この街も経験したのだ。あの頃の友人達も、みんな同じ長さの年月を生きているはず。
かつてこの街で物狂おしい時を経験したみんな、どうしてるかしら?

そんなこと思いながら橋の歩道を歩いていたら、○○年前、私が吉島の下宿をひきはらった日、橋を渡りながら歌った歌を、いつのまにか口ずさんでいた。

  ♪朝焼けのこの町を ひとり出かけていく
   片手に荷物を下げ 口笛吹きながら……

『少年は街を出る』…街をでて、まだ歩き続けている。スピードは遅い。   
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縮景園

2009-03-06 | 五七五
冬の間、松の木に、コートのように巻かれた藁(わら)は、防寒の為ではない。
あれは菰(こも)という、松の害虫マツカレハの幼虫を誘い込んで樹上に帰る前に一斉に取り払って駆除する為の仕掛けなのだ。
「霜降りの日」(10月23日)に巻き、「啓蟄の日」(3月5日)に取り外される。
縮景園の松の木の菰も、昨日取り外されたのだろうか。

  

先月広島の美術館を訪れた時、初めて縮景園に寄った。
学生時代広島に5年間住んでいたのに、一度も中に入ったことがなかった。



      爆風に耐えた石橋たたいて渡る

真ん中に池がある回遊式庭園は、1620年広島藩主浅野長晟(ながあきら)が家老で茶人の上田宗箇に作庭させたもので、池には橋が14個も架かっている。
池の中央に架かる御影石の跨虹橋(ここうきょう)は7代藩主重晟(しげあきら)が、京都の庭師清水七郎右衛門を招いて改修した太鼓橋で、8月6日の原爆の爆風にも耐えた。

今もこの橋は渡ることができる。全体の丸いフォルムに合わせてあるため段が斜めになっているので、下りる時は少し足元が震える。

池の真ん中の石の上で、オブジェのように長い時間同じ姿勢で緊張感を漂わせている鳥がいる。きっとこの石は、最初から、鳥のために配置されたものに違いない。


         雨模様 水面見張る池の主

         


              

ここは原民喜の「夏の花」の中に「泉邸」として出てくる庭園である。

   梅の木の根元に届けと香り雨


 
      


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