星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

「アメリ」

2007-08-28 | ネコの映画・ドラマ
本棚を整理したら、2冊重なっていたり、二度と開かないだろうコミックや文庫本が出てきたので、近くのブックオフに、持って行った。34冊で710円。
予想より高額だった。しかし、どんな基準なんだろう。コンビニで買った雑誌仕様の「美味しんぼ」に値段がついて、寺山修司の文庫に値段がつかない、なんて。とにかく自分の価値観が、絶対的ではないことを思い知るにはもってこいの場所だわ。
とにかく、それを元手に店内をぶらぶらしてたら、見~つけた!

      「アメリ缶」

アメリ映画のDVDと特典映像のDVD、ポストカード、ドワーフからの手紙、特製パンフレット、マウスパッド、アメリ・スプーン、アメリのゾロ人形。残念ながらクレーム・ブリュレのキャンドルは入ってないので、4000円。長い足がでてしまったけど、とにかく嬉しい。
だって、「アメリ」よー。私の天使の缶詰。
イメージトレーニング=「アメリ」。
唇の端っこあげてあの表情すると、元気がでるの。

昨年の夏、ツアー旅行中の短いパリ自由行動時間。私の足は、文句なくモンマルトルの丘に向かった。サクレクールの展望台から、今パリの屋根の下で起こってることを、想像してみた。アメリみたいに。
いつか自転車で、あの街を走りたい。その時はきっと私の背中にも、天使の翼がついてる。

アメリが、心通わすものに、私の心もつながる。
川に放たれた時の表情が素晴らしい、クジラという名の金魚。
空に浮かぶウサギ雲。
安息日の日曜日は小銭を受け取ろうとしない駅の物乞い爺さん。
電車の車掌さんの鋏を入れられた木の葉。いいわー。

この映画にはネコさんが2匹登場する。クロネコチャンによく似た「涙のマドレーヌ」の飼うキジネコさんと、ドワーフを持って旅するお友達のスチュワーデスさんから、フライトの間アメリが預かっている茶系のミックス(たぶん♂)ネコの「ロドリーグ」。

ロドリーグが、お伽噺をきいてる後姿のカットシーンが、とても美しい。
DVDからキャプチャーしたい。(今のところできない)
賢いネコさんは皆お伽噺をきくのが好きに違いない。もう、このシーンだけで、「アメリ」が素適なお伽噺であることがわかるわ。

パリのアパルトマンの小さな窓辺にはネコがよく似合う。
恋人達を「やれやれ」という感じで見ているネコさんが、パリにはたくさん住んでいるはず。アメリとニノの静かなキスシーン、ロゴリーグは、「よかったね、アメリ」って、目を細める。その目からは、ステキな愛のビームが出てる。

人は他人の為に奇跡を起こすことができる、ならば、自分の為にも起こせるはず。
というのが、この映画のテーマかな?

この世界が自分と調和した感じがするのは、自分の中に愛があふれた時、という、人生で何度かしか経験できない瞬間を、わくわく描いている。

ドゥ・ムーランの常連客で売れない小説家のイポリットの
「失敗につぐ失敗。永遠に書いては消し、人生は果てしなく書き直す未完の小説だ。」という言葉も心に残る。

「人間には失敗する権利がある」…と、為末選手に伝えたい。
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雷神一過

2007-08-23 | 五七五
昨夜は、肝試しのようにドキドキしながら、ベランダのカーテンを開けた。
PCの電源を抜いて、小一時間。2000発の雷、空一面の稲妻オンステージ。
安全な室内で、守ってくれるであろう(←雷の場合無理です)誰かと一緒にだからできたこと。
…と、無事に過ぎ去ったことだから言えるのであって、本当は、稲妻が光り、夜空全体が明るくなるたびに、震えながら祈っていた。

  雷神の前では消えたくなる自分

臨港線のリンゴさん達無事だったかしら?

 …無事でした。

  みんなより一足先に赤くなり恥じてるような内気な林檎

昨夜の雷神一過、蒸し暑かった今日は、TVで、ペットボトルをおでこにのせたまま、背泳ぎできるジャニーズ系の少年を応援。芸術的な完璧フォームで泳ぐ「バランス王子」=入江陵介君(高3)です。
横のレーンの選手の頭がモコモコ上下するのに、7コースの彼の頭はほとんど動かず、すーいすーいと水平に前に進む。うっとり、見とれてたら、なんといつのまにか、順位も本命森田選手より先に進んでいた。
…結果、世界競泳大会の200M背泳決勝で、金メダルの快挙。
もう、密かに応援どころの話ではなくなってしまった。

  浮かんでも進めぬ背中 前は上…これは私
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「記憶の中の神戸」

2007-08-19 | ネコが出てこない本
手術後順調に回復に向かっている母は、今病院のベッドの上でこんな本を読んでいる。
「記憶の中の神戸~わたしの育ったまちと戦争」画文:豊田和子(シーズプランニング)
 

母は1930年、神戸生まれ。空襲で焼け出され、祖父の故郷の四国に引き上げて、そこでお見合い結婚をして、私が生まれた。田舎に住みながら、お百姓さんが嫌い、戦後の食糧難の時代ひどいめにあったというのだ。周囲ととけ込まない孤独な人だ。
「あの戦争では、いい人カッコいい人から、順番に兵隊にとられて亡くなった。私が神戸の空襲で焼夷弾の中を逃げまどっていた時、父さんなんか、田舎でお米食べながら暢気に対岸の火事として見ていたのよ」と、同じく1930年生まれで、一つ上なら兵隊に行ったはずの父に対して、戦争体験の話をする時は一方的で手厳しい。

戦争ですっかり変わってしまったと、自分の人生を語る母の、神戸での楽しかった子供時代の話を、小さい頃から聞かされて育った私は、書店で偶然この本に出会った時、即座に買い求めた。

著者の豊田さんの出身校「神戸市立第一女学校」は母の母校で、豊田さんの方が一学年先輩だ。湊川神社をシンボルとする生活圏もほぼ同じ。戦前の神戸の下町の様子が実名で具体的に描かれている。戦争でみんな焼けてしまい、もはや記憶の中にしかない街。戦争体験もまた、自分の記憶の中にしか存在しなくなってしまうことへの豊田さんの焦りが、この素晴らしい本を生んだと思う。
豊田さんの絵と文から、戦時下の厳しい銃後の生活の中で、人との別れが日常的になっていくからこそ、美しいもの、楽しいことを求め、大切なことを心に秘めていた女学生の心情が伝わってくる。
これを読む母の中では、きっと豊田さんの記憶と自身の記憶がシンクロしていることだろう。

 

母さん、もう一つあなたにこの詩をプレゼントするから、頑張ってね。
1926年生まれ、私の尊敬する詩人、茨木のり子さんの詩ですよ。
 
  「わたしが一番きれいだったとき」     

 わたしが一番きれいだったとき
 街々はがらがら崩れていって
 とんでもないところから
 青空なんかが見えたりした

 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達がたくさん死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 わたしが一番きれいだったとき
 だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
 男たちは挙手の礼しか知らなくて
 きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの頭はからっぽで
 わたしの心はかたくなで
 手足ばかりが栗色に光った

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた
 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり
 卑屈な町をのし歩いた

 わたしが一番きれいだったとき
 ラジオからはジャズが溢れた
 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
 わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ
 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのように ね
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ローリング・スイカ

2007-08-18 | ネコの映画・ドラマ
夏の暑い日に、住みたい所といえば、星がよく見える高原の別荘。
でも、そんなものも持たず、37℃の暑い東京で、女一人働きながら、暮らさなければならないとしたら、私は三軒茶屋の、あの「つなよし」のいる下宿屋に住みつきたい。
…と、東京で生活したこともない私が、つい言ってしまう憧れ空間、「ハピネス三茶」。
2003年の夏ドラマの傑作「すいか」に出てくる賄い付き下宿屋である。



脚本は木皿泉。「やっぱり猫が好き」も書いた謎のデュオ脚本家である。
好きな女優さんばかり出てくる、というか、好きになる。
みんなとてもファッショナブル。それぞれの個性を見事に表していて、茂木裕希江さんというスタイリストの名前も記憶したくなるドラマだ。

ハピネス三茶の大家さんは、ゆかちゃん(市川実日子)。彼女を見ると元気が出る。アイスキャンディの当たりが続く回は忘れられない名シーンが続く。これ以後実日子さんの出てる映画やドラマはチェックするようになった。彼女は市役所の地味な事務員やっても、OLやってても、握り拳が美しい!

つなよしの飼い主は、売れない漫画家のキズナさん(ともさかりえ)。彼女の不器用さと繊細さに、時々胸がきゅんとなる。彼女の唇の曲がり具合がとても美しいって思う瞬間が何度もある。

そして、私にとって美しい人の代名詞、浅丘ルリ子さん演じる教授。相変わらず声がステキ!大切なことを譲らずに生きてきた文化人類学者は頼もしい。

信用金庫に真面目に勤める主人公のもとこさん(小林聡美)。普通の女の子が、普通に真面目に働いて、必ずぶち当たる壁。それをこの夏、彼女は越えるのだというストーリー。

もとこさんの母親が白石加代子さん。相変わらず白塗りだけど、主婦役の彼女は新鮮。
信用金庫から、3億円を横領して逃亡するもとこさんの同僚万里子(小泉今日子)。万里子をおいかける女刑事(片桐はいり)。「泥舟」というスナックの、「もう帰ってちょうだい」しか言わない不思議なママ(もたいまさこ)。

もうこのキャスティング、だけでワクワクするわ。



私、こうみえても(?)幼い頃、スイカ丸ごと一個を一人で食べて、おなかを壊さなかった強者なのです。これは、暗い過去なのか、明るい過去なのか、時々わからなくなるけど…。
 
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花はどこへいった♪

2007-08-16 | NO SMOKING
このところ、ディートリヒ号で毎日、入院中の母のところに通っている。私がディートリヒという女優さんの名前を初めて聞いたのは、母からだった。炎天下のサイクリングには、つばのある帽子と、両手の中指にリングをひっかける、UVカットの白いボレロが欠かせない。
この自転車は、昨年の暮れ、「愛するアニタ~♪」を歌っていた頃の植田君(知らないって?)のそっくりさんが経営する小さなサイクルショップで購入した。
その時、私は、CATVでマレーネ・ディートリヒの生涯をつづったBBCのドキュメンタリー番組をみて、ドイツ語で「花はどこへいった♪」を歌う1963年のディートリヒに、感動した直後だった。
気がついたら、自転車の選択基準は、「ディートリヒが乗りそうな自転車」になっていた。私が乗るのに…。前にも後ろにもカゴつけるのに…。

先日NHKBSで、ディートリヒの歌をまた聴くことができた。(世紀を刻んだ歌 Where have all the flowers gone『花はどこへいった~静かなる祈りの反戦歌』2000.12.5の再放送)
  
♪ Where have all the flowers gone?  Long time passing.
  Where have all the flowers gone?   Long time ago.
  Where have all the flowers gone?
  Young girls picked them ev'ry one.
  Oh, when will you ever learn?  Oh, when will you ever learn?

 花はどこへ行った?娘たちが摘んでいった
 娘たちはどこへ行った?若者たちに嫁いでいった
 若者たちはどこへ行った?兵士になって戦場へ行った
 兵士たちはどこへ行った?みんな墓場へ行った
 墓場はどこにある?墓場は花に覆われた
 花はどこへ行った?娘たちが摘んでいった
 いつになったら、人はわかるのだろう?
                
この曲を作ったアメリカの良心、ピート・シーガー(公民権運動で歌われた ♪We shall overcomeも彼が作った)本人が、「花はどこへ行った♪」は、ショーロホフの「静かなるドン」に出てくるロシア民謡にヒントを得て生まれた曲だと語る。雨の中、2000年夏にワシントンで行われた「イラク経済制裁反対集会」でこの歌を歌う81歳の彼の映像が流れた。この歌は3番までは彼の歌詞だが、4番からは、集会でみんなで歌うために後に他の人が付け加えたという。
「花はどこへ行った?」というフレーズが、多くの人の心を経ていくたびに、より普遍性のある歌に進化していったのだ。

この進化の過程に、カタリナ・ヴィットさんのフィギュア演技も登場する。
彼女は1984年サラエボ、1988年カルガリー冬季五輪で優勝し、東ドイツの国家代表としてその任務を果たした80年代女子フィギュアの女王である。
1994年のリレハンメル冬季五輪の時には、すでにピークは過ぎていたが、統一ドイツの選手として参加した。当時はボスニア紛争(1992~95)が激化し、かつて彼女が金メダルをとったサラエボは戦火のまっただ中にあった。
赤いコスチュームの彼女が、平和への思いを込めて「花はどこへ行った♪」にのせて銀盤に舞う。素晴らしい演技だった。この時の彼女は国家代表ではない。自分が氷の上で表現できる限界に挑戦するアーティストだった。彼女の「花はどこへ行った♪」という曲にこめた思いが、この歌を知る多くの人の心をつないだ。その演技から、80年代から90年代というヨーロッパの歴史の転換の中で、彼女が体験したこと、考え続けたことが、伝わってきた。それはちょうどディートリヒの歌を聞いたときの感動と同じだった。

ピート・シーガーは、自分が作ったこの歌が、歌われなくなる日がくることを願っていると言っていた。この歌を忘れてしまうほど、平和な世界の訪れを願うと。

…When will they ever learn? いつになったら、人はわかるのだろう。
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お地蔵様に水かける夏

2007-08-10 | 私の星々
私が都会で学生生活を始めるにあたり、田舎の両親は、「大学に近く男子禁制で大家さんのしっかりした下宿を」と、同郷の先輩に下宿探しを依頼した。

私は初めてそこを訪れる時、「橋を渡って大きな通りに出たら、右に曲がってお地蔵様のある家」を目指すようにと、教えられた。でも、私はお地蔵様を見つける前に、仙人に出会ってしまったのだ。古い木造家屋の戸口に座った、真っ白の長いおひげの仙人を見たとき、なぜか、私はここに違いないと思った。目があったら仙人はニコニコと天上の笑顔で迎えてくれた。誰一人知る人のいない都会でこの笑顔が私にはきっと必要なんだと思った。

その下宿の1Fには、お地蔵様と、大家の新太郎爺さん夫婦が住んでいた。2Fには同じ大学の英検1級をめざしていつもリンガフォンかけてる先輩と、私を含め新入生二人の3人の下宿人。座らないと流しが使えない屋根裏部屋のような一部屋はさすがに空室だった。
それぞれの部屋に通じる階段は別々で、間取りは部屋ごとに全く違っていたが、どこも台所と寝室の2部屋セットになっていた。隣人の部屋には、床の間があり、私の部屋にはガラスの天窓があった。それぞれの台所は中庭に面したベランダがついていて、互いの部屋のベランダがつながっているという複雑な間取りの2Fだった。

仙人の新太郎爺さんは、耳がほとんど聞こえない。お婆さんは黒いメガネをかけていてほとんど目が見えない。そんな二人が仲良くお地蔵様を守りながら暮らしていた。私は老夫婦とお地蔵様に守られながら、3年後、新太郎爺さんが、娘さんや息子さんのところに行ってしまうまで、その下宿で学生生活を送った。

毎朝、お婆さんはお地蔵様に新しい水をかけ、お花の水を変える。道行く人が供えた花をビンにさす。私は、新太郎爺さんの座る戸口から、その笑顔に送られて、新しい日々の中に出ていった。

月末に、私たちが揃って家賃を持って行った時、普段無口なお婆さんが、おはぎを私たちに勧めながら、話をしてくれた。
娘さんと息子さんは二人とも、1945年8月6日、爆心地近くでの、勤労動員で、建物撤去作業をしている時、被爆し、弔うこともできなかったと。写真もないのだと。自分たち夫婦も被爆手帳を持っていると。自分は真夏でも長袖しか着れないと。

ヒロシマという街で大学生活を送った私にとって、平和公園と元安川の川辺は、デートコースだった。緑が多く、ベンチも多い。暑い陽射しを浴びても、若い私は夾竹桃の暑苦しい色に、反感を抱く余裕すら持って、今の3倍くらいのスピードで、毎日ずんずん歩いていた。川沿いの道が整備されているのは、そこに何もなかったから、何もなくなっていたから、整備しやすかったんだとは、その頃は思いつかなかった。

8月6日、今年も広島平和記念公園で、式典が行われた。同じ場所で何層もの歴史が重なり合っているのは遺跡のあるローマだけではない。ヒロシマの式典の行われているあの緑の芝生の下に、私の青春の思い出があり、その下には、新太郎爺さん夫婦の、彼らの娘さん息子さんの地獄絵が重なっている。

私はずっと、だいぶ長いこと、自分が生まれる前は、世界が白黒だったと思っていたような馬鹿な子供だった。昔の写真や映画や、ニュース映像がみんな白黒だったからかもしれない。歴史を勉強しても自分とつながらなかった。
昔、絵巻物の時代にも、戦国時代にも、戦争中にも、美しい青空と、緑の木漏れ日があり、自分と同じように、空をぼーっと眺める人間がいた。と、本当に認識できたのは、あの平和公園の緑の芝生の上に寝転がり、赤い風船を飛ばした時であったような気がする。赤い風船は原爆資料館の上の青い空高く、飛んでいって空に吸い込まれて消えた。
その空を見ていて、あの8月6日の朝だって、ここの上に空は青く美しく広がっていたんだと、思った。でも青い空は一瞬にして、キノコ雲に変わり、黒い雨が降った。
それがどんなに酷いことか、ヒロシマに生き続けた、新太郎爺さんも、お婆さんも知っている。

爆心地から1.2㎞の場所のお地蔵様に、毎朝、水をかけるお婆さん。その水には、涙や悔しさや、新太郎爺さん夫婦がここにいる理由や、いろんな思いがこもっていること、が、私にもわかった。
私自身が、ここにいる、理由も、お地蔵様にかける水に含まれているような気がした。

                  
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芦屋の水

2007-08-06 | 持ち帰り展覧会
芦屋川は、六甲山麓から一気に下る短い急流である。
中流からは天井川となり、JR東海道本線は芦屋駅の西で芦屋川の川底の下のトンネルを通っている。
阪神芦屋駅は芦屋川をはさんで左右の川岸をつなぐようにかかっている橋のような駅だ。ホームから上流を臨む風景は素晴らしい。六甲山・カトリック教会・川辺を散歩する犬。…ここから見ると、空に浮かぶ雲さえ、いつも美しい。自分がぐらぐらしていても、めそめそしていても、美しい。
ただ、映画の一場面のように、美しすぎて別の場所のような気がする時がある。この風景と自分が分離してると感じる時は、自分がちょっと危ない精神状態の時である。

芦屋市は、明治22年(1889)にこの芦屋川沿いの三条村・芦屋村・津知村・打出村の4村が合併してできた精道村が、昭和14年に市制となった自治体である。明治38年に阪神電車が開通して芦屋駅ができるまでは、国鉄の駅もない、農村だったのだ。ただし、芦屋川沿いには、多くの水車が回っていた。大坂商人の注文で菜種油を絞る水車は、農村に現金収入をもたらし、豊かな農村であったという。



今、芦屋市立美術博物館の2Fの小さな展示室で、「水と芦屋」という展覧会が開かれている。
ミュージアム=美術館だと思いがちだが、本来MUSEUMという語には、博物館の意味もある。公立のミュージアムには、郷土の歴史資料を保存するという役割もある。

1995年の阪神大震災の時には、阪神大水害(1938)や空襲(1945)さえのがれた旧家の古い蔵も、倒壊した。
今、美術博物館には、所有権のある寄贈品の他に、こうした旧家からの期限付きの寄託品である歴史資料が多く集まっているのだ。

平和な江戸時代、新田開発が進んだ。新しい田ができるたびに、問題となるのが、水である。芦屋の旧家に伝わる文書のほとんどは、毎年のように起こる水争いの裁定文書である。毎年話し合いで決まったことを記載した文書は、4村の村方三役(庄屋=名主・年寄・百姓代)が保管した。

展示品の中に、「ふか切り雨乞い図」というのがある。
95日間日照りが続いた天保5年(1834)の夏、村は霊験あらたかな山伏に頼んで「ふか切り」を行ったという。今もある芦屋川上流の大岩の上で、芦屋の沖合で捕らえた魚に包丁を突き刺し、その血を神の宿る弁天岩にあびせる。それに怒った神が血で汚れた岩の汚れを払うために雨を降らすだろうことを期待して行う雨乞い行事だ。
神の怒りを逆手にとる、というこの発想に驚く。
              
                    

文政10年(1827)6月、西隣の住吉川から無断で芦屋川に水を引いたことに怒った住吉村の住民が怒って、ドビ(土管)を割る事件が起こった。この水争いは11月に結着し、住吉から芦屋への水引は禁止されたが、損害賠償として、銀5貫が住吉村から、芦屋村に支払われた。これを元手に、芦屋村年寄の猿丸又左右衛門安時が芦屋川の上流に溜池を20年かけて造ったのが、今の奥池である。芦屋の水の安定供給の歴史がここに始まった。

芦屋川の水を引く9つの私設水道組合が統合され、浄水場を持った村営水道の供給が始まったのは昭和13年(1938)のこと。昭和47年(1972)年には奥山貯水池ができた。1995年震災でストップした後、改築された奥池浄水場では緩速濾過方式が行われており、ここからの水道水が、芦屋市の阪急線より北の地域に、供給されている。それは全市の供給量の14%。阪急より南は阪神水道企業団からの買い取りだから淀川の水である。

美術博物館で、芦屋市水道部の出前講座があり、ペットボトルが配られた。
水道部は、今「おいしいね 芦屋の水」キャンペーンを実施していて、なんと奥池浄水場で作られた水道の水をペットボトルに詰めて500ミリリットル100円で売り出しているのだ。ミネラルウォーターではなく、ボトルドウォーターという。飲んでみたら、実際「六甲のおいしい水」との区別が私には、つかなかった。水道の水をこの値段で売るというのはかなり図々しいと思うけど、芦屋の水道の水を飲んでもいいということは納得できたから、このキャンペーンは成功と言っていいのだろう。

考えたら、大量の石油を使ってフランスやカナダから運んでくる水を飲む必要はない。それの安全性を疑ったことがないのに、水道水だけ疑うのは間違っている。「水道の水は、ミネラルウォーターの点検項目よりはるかに多くの点検項目をクリアしているんです。」と、水道部の課長さんは言う。あなたを信じていいのね?水道水を煮沸してカルキを飛ばした水は、長くおいておくと細菌が発生してかえって危ないという話も聞いた。湧き冷ましで氷を作っていた私は間違っていた、水道水で直接作った方が安全なのだ。

あとは、マンションの貯水槽・配水管がクリーンなことを確認しなければ…。しかし、どうやって?
水争い、トリハロメタン…昔も今も、水の話なのに、涼しくならないなぁ。
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人魚亭の「迷い猫」

2007-08-01 | 劇空間
尼崎ピッコロセンター中ホールで、綺想舎人魚亭の第59回公演、
「迷い猫」を観てきた。原作ダニエル・キイス。構成・演出小林千夜詞。



「かれはうたえり 
 これ花を愛するにあらずんば すなわち死せんと欲す と
 われはこたへむ 
 死せんと欲すれど 夢に咲きいづる花 愛を誘ひてやまず と」

…チラシには、杜甫の「不是愛花即欲死」に、清岡卓行さんが応えた詩が載っている。
おー、久しぶりの、赤い薔薇一輪・汚れた赤いドレスの出てきそうな芝居、人魚亭だわー。
ゆきさんの、ドスのきいた声がまた聴ける…ワクワク。

舞台と客席の段差がないピッコロの中ホール。装置は木のテーブルと2脚の椅子だけ。
座席はフリーなので早めに来て座っていたら、足元をエアコンの冷気が走る。「寒いわー」ってつぶやいていたら、隣の席の見知らぬ高齢の女性が、幕が開く寸前に膝掛けを受付で借りてきて、なんと、「ついでですから」って、そっと私にも渡して下さったのだ。自分より年配の方の好意に少し恥ずかしくなる。それは、心まで温まる膝掛けだった。私はこんな風に歳をとっていけるかしら。

「迷い猫」という題であったが、原作はあの「アルジャーノンに花束を」だった。
赤い薔薇ではなく、青い矢車草かな。
ハツカネズミのアルジャーノンがジロキチに、チャーリーが波子さんに、なっていた。もちろん波子さんは人魚亭の不老不死の人魚、萩ゆきさんが演じた。

「彼らは、自分たちこそ迷路の中で右往左往していることに気づいちゃいない、彼らは自分たちで解けない迷路に私たちを追い込んで、謎解きをやらせようとしてる…ジロキチ、もう、彼らのために走り回ることはないのよ…」
と、波子がジロキチを連れて研究室を脱出し暮らし始めた棺桶のようなアパートの隣に住む、絵描きの哲郎…今回この哲郎を演じた志摩馨さんが、よかったー。語り口が自然で、個性的。彼の芝居、また観てみたい。

波子が作ろうとするジロキチのための立体迷路の話に、
「どこまでも続く回廊、壁、分岐点、そしてやっとみつけた出口。だが、その出口は次の入り口にしかすぎない…」
と、彼がさらっと言った台詞が、心に残る。

演出の小林千夜詞さんは、この劇に「迷い猫」という題をつけた。
実験対象になった、ジロキチや、波子が、特別な存在ではなく、誰だって、出口求めて迷路を彷徨っているんだ、と告げる役割を、志摩さん演じる哲郎が担ってる。
希望を語るはずの科学者は、いつも、袋小路に追いつめられたかのように、イライラしてる。

「私にはもう他人と分け合う余裕はないの。時間とともに自分が消えていく…」
「ダメよ、もう私はもう私じゃない。ばらばらに崩れていく…そんな私を、あなたに観ていられたくないの」と、愛する人に告げる波子は、せつない。
のどから絞り出すようなゆきさんの声、好きだなー。

最後は、「どーかついでがあったら、うらにわのジロキチのおはかに花束をそなえてやってください」という波子の声で終わる悲しい劇だった。

花束というのは、出口と入口のどちらに飾るのがふさわしいのだろう。
それは、出口と新たな入口の境目の目印なのかもしれない。
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