星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

「恋するアラブ人」

2007-04-26 | ネコが出てこない本
ブルカを着るアフガニスタンのニュースに出てくる女性達を見て、自分はイスラム世界に生まれなくて良かったと、思った。それは着るというより、着せられているという感じが強いからだ。目すら網目に覆われた囚われ人のような彼女達は、あの中で身体を伸ばすことができるのだろうかとさえ、思う。

一昨年の夏、初めての海外旅行で訪れたウィーンの宿は、3日間泊まるので電車の便利がいい、リンク(環状道路)に面するラディソンホテルにした。ガイドブックには、宮殿を改造したホテル、アラブの富豪も泊まると書いてある。でもそれにしては値段が安い。その謎は行ってすぐに解けた。アラブの富豪が泊まる時は、大勢の召使いも連れている。私達の部屋は、そうしたお供の人の家族が泊まっている部屋の階だった。彼らの部屋のドアの前には、強烈な匂いのする使用後の器が出されていた。豪華客船の3等キャビン。

ウィーンの夕暮れ時、街のシーフードの店で食事をしていると、私達の隣の席に黒ずくめの女性の一団がやってきた。子供を抱いた若い母親を中心に、親族らしき女性たち5人。幼い男の子は普通の子供服、それ以外の女性達は、みんな目の周り以外を黒衣で覆ったチャドルに黒い長衣姿。迫力があった。思わず見てしまう。彼女達の黒い瞳は美しい、エネルギーを放出してるような強い視線、派手な金の腕輪に輝く指輪。ここまでは想像通りだった。アラビア語らしき言葉の響き…そのしゃべること、食べること…私達と同じだった。そのうちに一番若い15歳くらいの美少女の口から♪マドンナという音に近い音が聞こえてきた。(サラ・ブライトマンならともかく)ムスリムがマドンナとは有り得ない。と、改めて見ると、彼女だけは私達と同じようにキョロキョロと周りを見ている。情緒が他の女性達と明らかに違う。もしかしたら、彼女の黒衣の下は超ミニスカートで、刺青などしていて、どこかでパッと脱いでマドンナみたいに踊り出すのかもしれないなぁ、などと想像してしまった。

ウィーンからザルツブルクに向かう列車には、私のトランクの6倍くらいある大きな古いトランクを4つ持ったムスリムの5人家族(父母息子)が乗っていた。(ドイツに移住するトルコ系の家族かな?言葉が聞こえなかったからわからない、いや聞こえててもわからない)彼らを見て、今自分が乗っているのはヨーロッパを東から西に横切る国際列車なんだ、アジアとヨーロッパは地続きなのだ、と実感した。母親は紫色の柄物衣装にオレンジスカーフとカラフルだ。緊張感はない。80年前のケマル・アタチュルクの近代化政策は、トルコの女性を黒から解放した。

昨日、私の生活圏で、すなわち普段行くスーパーの100円ショップで、初めて黒チャドルの女性達を見かけた。目だけでなく顔全体を出しているから、全身黒でもウィーンの時のような強いインパクトはない。若いお母さんはベビーカーを押していた。同じ格好のお祖母さんらしき人と一緒に、髪留めの七色ゴムを籠に入れていた。彼らはアジアを、西から東に向かってやってきたんだなぁ。
しかし、問題は七色ゴムの使い道である。あの黒いチャドルの中の髪はどうなっているんだろう?アラレちゃんのように二つに分けてゴムで留めるのだろうか、やわらちゃんのように前髪も留めてたりして…。やっぱり、子供用かな。

チャドルを身につけた女性達…どうして今更こんなことに興味をもつかといえば、最近、師岡カリーマ・エルサムニーさんの「恋するアラブ人」(白水社)という素晴らしいエッセイ集を読んだからだ。そして、自分が今までどんなにイスラム社会を知らなかったことかと反省したからである。
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林檎の花咲く頃

2007-04-26 | NO SMOKING
図書館近くのリンゴ園の林檎が赤い蕾をつけてると思ったら、可愛い花が開き始めた。


            

震災の後、復興を祈願して寄せられた苗木を、ボランティアの方たちが育てているらしい。
どうか、秋には育てた人が収穫できますように。
以前、御前浜にサツマイモを植えたら、今度の日曜日は芋掘り大会、という金曜日に、誰かがごっそりもっていった。ぼこぼこの穴を見ながら、子ども達に何を伝えたかったのかと、大人達がへこんでしまった秋だった。あの時の子ども達はあのことから何を学んだことだろう。彼らももう自分の子ども達連れて芋掘りする年頃になってるはず。

リンゴ園は臨港線にそった歩道沿いにある。桜が散ったと思ったら、足元でツツジが街を彩り、街路樹の若葉が爽やかに風に揺れる季節に変わっていた。


新しい季節においていかれそう
様々な緑に迷う鳥になる
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隅っこネコさん

2007-04-24 | ネコ日和
図書館の庭の隅っこに、もう一匹いたー。

     

シャイな白黒隅っこネコさん。
君は、決してベンチの上には座らないタイプかな?
サクラチャンと、目鼻立ちよく似てるけど…。
「あなたツツジの花がとても似合うから、もっとお花のほうに出てらっしゃい。」
って誘ってみたけど、答は「ッシャー!」だった。
君は正統派のノラさんね。

今日はサクラチャンいないようだから、聞いてくれる?

さっき懐かしいワンちゃんに再会したのよ。
震災前からこの街には、「BIRTHDAY」っていうカフェがあってね、
その店の前にはいつもゴン太君が入り口のドアをふさぐように寝ていて、
彼にちゃんと挨拶して、気にいられないと入れなかったの。
震災の後しばらくして行った時、彼はいなくて、
店の名前は変わってないけど、違うお店になった気がして、
それからずっと行ってなかった…
今日久しぶりに行ったらお店の前に、彼が座っていたの。

           

私の図書館は、入り口で、君たちが守っているのかな。
今度来たときも、挨拶するから、また元気よく「ッシャー」って言ってね。

誘っても目で追うだけの隅っこネコ
また会えた通せんぼする堅気犬
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旅するまなざし

2007-04-20 | 持ち帰り展覧会


芦屋市立美術博物館の、「旅するまなざし~コレクション遊覧」展に行ってきた。自館所有の、芦屋ゆかりの6人(ハナヤ勘兵衛、上山二郎、吉原治良、菅井汲、大橋了介、仲田好江)の作品展である。

パンフレットの、銅鑼が鳴って今まさに出航という1936年の神戸港の写真を撮ったのは、ハナヤ勘兵衛さん。材料はシルバープリント、ゼラチンとある。(ゼラチン?なんで?って調べたら、写真の現像には乳化剤として絶対必要なものらしい。工業用ゼラチンは、ヴァイオリンなど繊細な楽器の接着剤としても使われているという。)白黒写真の迫力はすごい。一本の枯れ木の存在感を観よ。デジカメでは、到底こんな水の流れる力は写せない。
                          
後に具体の中心になる吉原治良さん。若い頃は、魚や、シュールレアリズムっぽい作品を描いていたんだ。夢の中の風景のような淡い色調の海辺の白い散歩犬が可愛い。彼の絵本「スイゾクカン」の色は茶色がかった赤、緑がかった青と、色彩が限られている。この時代のカラー印刷の限界なのだろう。彼が蒐集した1930年代ロシア絵本も展示している。動物の絵本がいい。

第二展示室の資料が面白い。

仲田好江さん(1902~95)は明治大正昭和平成と20世紀を生ききった女性。50歳過ぎてからの作品がいい、色彩が生き生きしている。彼女が初めて渡欧したのは、50代後半。彼女の欧州への憧れは、戦前に彼女の作った人形に表れている。マレーネ・ディートリヒ、グレタ・ガルボ、ジャン・コクトーのそっくり人形は、ほんとによく似ている。(これは写真だけど)

大橋了介さんは、1920年代にフランスに行き、パリの風景を描いた画家。戦前ヨーロッパに行くというのは、庶民にとっては大変なことである。ガラスケースの資料の中に、「大橋了介渡欧後援会」趣意書というのがあった。彼がヨーロッパに行く際に、一口150円の援助金を募った趣意書だ。大正時代の1円は、今では約2000円の価値らしいから、1口150円といえば、30万円ということになる。一月15円ずつでも、まとめてでもいいと細かい。
「後援会費を出してくれたら、ここ1年間に描いた6号の絵を1点、渡欧後向こうで描いた10号の絵を帰国後1点、お渡しします」とある。呼びかけ人6人の中には高村光太郎も入っている。
結局、何口集まったか、資料はないのでわからないけど、なんとか彼はパリに旅立った。彼はそこで、佐伯祐三に会い、強い影響を受けた。厳しい表情、白いほお骨の硬そうな佐伯と一緒に写した写真がある。彼の風景画は佐伯祐三に似ているがさらに暗くて寂しい。残念なことに、大橋了介さんのパリの絵は、私にこの街への憧れを抱かせない。ここに行ってみたいと見る人に思わせないのだ。もしかしたら彼にとってこの街はあまり楽しくわくわくするところではなかったのかもしれない。そこで彼は生涯を共にするエレナさんと出会ったというのに…。

船旅だったのよね~と、昔神戸オリエンタルホテルのティールームに飾ってあったヴィトンの箱トランクなど思い出したりしながら、ガラス張りのロビーで、明るい春の光に包まれて座っていると、時が止まったような気がする。動いているのは、前庭の大阪城築城の際に残された石のオブジェの上でデートしている2羽の小鳥だけだ。
…いや、けたたましい選挙カーがやってきた。

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サクラチャン

2007-04-17 | ネコ日和
桜の花びら耳の図書館猫さんに、サクラチャンと声をかけたら振り向いた。
君の名前決定!

雨がポツポツしてきたので帰るね。
     …
上の歩道に上がって、ベンチを見たら目があった。
サクラチャン、バイバイって言ったら
一直線で石塀を駆け上ってきた。
おいおい、図書館の結界を越えていいの?

越えちゃったー!
今日はここまで付いてきた。うんうん、よしよし、次は…

目があえば駆けよる猫のおなか撫で 名付けることの意味考える

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夜の博物館

2007-04-16 | 劇空間
○十年前、E・L・カニグズバーグの「クローディアの秘密」(松永ふみ子訳・岩波書店)を読んだ。ヴァイオリンケースと、トランペットケースを持ってメトロポリタン美術館に家出した姉弟が、夜の美術館で不思議な彫刻と出会って、違う世界を発見する、最初から最後までわくわくするカニグズバーグさんの傑作だ。それ以後、私の不思議世界の中に、「夜の美術館」というのが加わった。

夜の美術館、想像してみる…高い天井、静寂の中に響く自分の足音。前にも後ろにも自分を見つめる目がある空間。一枚の人物画があれば、それを描いた画家の魂が、そして描かれた人物も魂が、そこに存在している。そこでは、それを描いた時間が止まっている。

これが、恐竜も、ネアンデルタール人も、ファラオも、モアイも、アッティラもいる、「夜の博物館」だったら、もっと凄いはず。そこでは時間は止まらず、博物館での時間が重なっていく。
…そんな映画「ナイト・ミュージアム」を神戸MINTで観た。

「ジェラシック・パーク」を観た夜は、夢でうなされた私だけど、嬉しいときにシッポを振る恐竜は可愛い(骨だけだから?)。昼間、腰を痛めそうな姿勢で展示されてるティラノザウルスは、夜になると、ワンちゃんのように、骨を追いかけて無邪気に遊ぶ。

オールド警備員として、「メリー・ポピンズ」や、「チキチキバンバン」のディック・ヴァン・ダイクが出ている。彼がまだ元気なのが嬉しい。やはりただの警備員じゃなかった。

ジオラマがいい。コンピューターゲーム開発する人より、ジオラマつくる人の方が私は好き。大陸横断鉄道建設に多くの中国人が使われていたのも正確だ。彼らは夜になっても、そのままの大きさで、活躍する。心通わせた小さいオクタヴィアヌスとカウボーイに、私はいつのまにか声援を送っていた。

ロビン・ウィリアムズ扮する第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、ガラスの向こうのネイティブ・アメリカンの女の子に恋してる。サカジャヴィア…アメリカの1ドルコインに刻まれた、西部開拓史の伝説の女性である。400年前のポカホンタスはディズニー映画で知っていても、200年前の彼女のことは、日本ではあまり知られていない。彼女は、アメリカ人にとって、西部開拓の礎、正確には、白人の西部進出の端緒となったルイス・クラーク探検隊(白人で初めて北米大陸を太平洋まで横断して帰ってきた)の女神のような存在である。ルイス・クラーク探検隊は、生まれたばかりの小さな赤ん坊を背負った16歳の少女が通訳・道案内として同行することで初めて大陸横断の8000㎞、1年5ヶ月に及ぶ旅を達成し得た。サカジャウィアが素晴らしい能力を発揮したおかげで、その後の「Manifest Destiny」の歴史が始まったのだ。でもそれは、ネイティブ・アメリカンの悲惨な衰退史の始まりでもあった。
ただし、映画の中のサカジャヴィアは、実際の博物館の展示では必ず背負っているはずの、彼女の大切な赤ん坊を背負っていない。

博物館は、この地球上のいろんな時代のいろんな生き物たちを、同時に存在させることのできる不思議な場所だ。ラストの、パーティーシーンは、みんな仲良く共存しましょうというメッセージにも思える。

ま、この際、大英博物館は、世界中からの強奪品である、というようなことは忘れて、踊っているわけだけど…
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十二単を着てみよう

2007-04-15 | 劇空間
先月の終わり、大阪千里のよみうり文化ホールで、十二単装束着付けショー(by雅和装学院)を見た。

 髪は大垂髪(おおすべらかし)、小袖に長袴から始まった。

姿勢も表情もほとんど動かない御方様モデルさん。着付ける衣紋者は、御方様に息を吹きかけては失礼にあたるので座ったまま。

重ねていく、重ねていく。そのたびに、前の腰ひもをサッと引き抜いていく。腰ひもは着付けに2本を交互に使うが、最終的にはたった1本で12枚を支える。

最後に唐衣と後ろに長くひく裳をつけてできあがり。所要時間約30分。

後ろ姿も素適。長い髪が映える衣装だわ。

藤原紀香さんのように、結婚式で着ようと思ったら、20㎏を覚悟しなければならない。

この長い髪、寝る時はやはり邪魔になるため、枕元の、打乱箱(うちみだればこ)に髪をいれて寝ていた。と、昔古典の授業で習った。卒業式の壇上の賞状を入れているお盆を見ると、そのことを思い出したものだ。
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アントワネットが聴いた曲

2007-04-15 | 劇空間
兵庫県立芸術文化センターには、阪急電車で行くので、いつも駅から続く2Fから入っていく。
昨日、古楽器の演奏会「マリー・アントワネット~革命前夜のヴェルサイユ」に行ってきた。演奏するのは、バロック・アンサンブルの「ラ・フォンテーヌ」4人組。

 

開場まで少し時間があったので、前から気になっていた、1F正面玄関入ったところにある外車くらいある大きな茶色い石の正体を確かめに下りた。
そして、その大きさから隕石か?と今まで思っていたそれが、石ではない!ということを知った。たまたま、バッグが触ったら、金属音がしたのだ。
周りに何の解説もない、ということは芸術作品ではない。
そういえば、この間ここのスタッフさんがこの上に座っているのを見た、という人がいる。これはオブジェ風の大きな椅子だったんだ(?)。ひんやりとした感触、夏の暑い時期にはここで寝そべったら気持ち良さそうである。

でも、ずっと石だと思っていて、金属だったというこの感じは、パイナップルが木になってる果実ではなく、キャベツのように畑に育つ作物であったことを知った時の驚きにも似ている。

小ホールは初めてである。高い丸天井、中央の舞台を四方から見下ろす客席。
チェンバロの調律を、演奏開始直前までやっている。繊細な楽器なのだろう。
オーボエもリコーダーも、シンプルな形である。
チェンバロの水永牧子さんは、コスプレ看護婦さん姿でも登場していて、とても可愛い。
楽しい演出ではあったけど、今日のバロック音楽は、私の心には届かなかった。音楽に集中しようとしたら、何分間か心地良く寝てしまった…4000円の贅沢な眠り。

バロックのこうした曲は、宮廷で、王侯貴族が、飲み食いして、ざわめいていたり、ウトウトしている日常のバックに流れていたんだという印象を深めた。
あの時代、こんな曲を演奏しながら、こんな寸劇が行われたのかもしれない。
リコーダーの江崎浩司さんは、宮廷でも活躍したに違いない。
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魚は、なぜ飛ぶの?

2007-04-12 | NO SMOKING
お花見しながら夙川を南に向かって歩くと海に出る。



鳥たちが集まり春を歌ってる

春の海辺では、子どもたちや、お散歩犬が遊んでいる。
光る海を見てると、水面で、さらにキラキラキラキラ激しく動く光がある。
それは、飛び跳ねる小さな魚たち。トビウオではない。
泳ぎながらぴょ~んぴょ~んと、時々空中に飛び出してくるのだ。
まるで海の水が温かくなったことを、喜んでいるように。
…お魚たちが跳ねていると、サギもやってきた。
           


西宮回生病院の南の遊歩道の岩の下には、かつてネコさんたちが住んでいた。
どこへ行ったのか、最近彼らの姿を見かけない。
…ぴょ~んと、飛び出してこないかなぁ。春だから…
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水都の桜

2007-04-10 | NO SMOKING
 

7年前、大阪市立美術館でフェルメール展を見た。「青いターバンの女(真珠の耳飾りの女)」の眼差しがまだ瞼に残ったまま館を出た。そして出た瞬間に彼女が消滅した。青空カラオケ演歌の大音量が彼女をかき消してしまったのだ。ここは、17世紀オランダではない、間違いなく大阪の天王寺なんだ。この美術館での泰西名画鑑賞には覚悟がいると思った。
シアターブラバに行くために大阪城公園を通る際にも、時折公園内でがなり立てるカラオケが響いていることがある。青空カラオケ演歌は大阪名物なのだろうと、諦めるしかなかった。
だから、私の中では、大阪での花見にいけば、そこには演歌のカラオケがガンガンうなるように鳴り響き、きっと桜の花は、花札の模様のように見えるに違いない、という思いこみが、いつのまにかできあがっていた。
だから、ずっと避けていて、昨日友人の、「料亭のお弁当買って、桜の下で食べましょ」という美味しい誘いがあって初めて、有名な「造幣局」を通り抜けたのだった。


                  


通り抜け日程は、気象庁の誤った開花予報に従ったもので、1週間ずれている。まだ造幣局の桜は五分咲きだった。カラオケ演歌にかわって、絶えず耳に響いていたのは「立ち止まって写真を撮らないで、先に進んで下さい」という警官の拡声器の声だった。しかし、ここに来て立ち止まって写真撮らないで帰る人がいるだろうか?

いろんな種類の桜がある。鬱金という黄色い桜、御衣黄というのは緑色の花びらの蕾がついてる桜。これが満開になったところも見たいと思った。

橋を渡って向こう岸から造幣局をみたら、ピンクの川縁がどこまでも続く。
これを見ていて、大阪が水の都であり、セーヌ川のように、この街も舟に乗って、川から見てみたら素適なのではないかと思った。
大阪の桜の宮は、花札の桜ではなく、広い空につながるピンク色。ゆったりといつまでも座っていたい川辺がそこにはあった。


                  

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白雪姫の息子

2007-04-02 | ネコ日和
今日の夙川には、五分咲の桜の下でひとりゆっくり花見をしている黒猫さんがいた。
私には、仁川で花見をしてる時、阪神競馬場から脱走した馬に追いかけられたという経験を持つ友人がいる。
そのせいで、夙川のお花見に行くと、いつも桜のアーチの道を桜吹雪蹴散らしながら、こっちに向かって疾走してくるサラブレッドの姿が、一瞬脳裏をかける。
その馬は、いつのまにか私の中で、美しい白馬に変わっている。

白い馬花のアーチを駆け抜ける

2万頭に1頭しか生まれないという白毛のサラブレッド。
今日、その白馬、ホワイトベッセルが阪神競馬場第1レースで1着!だった。
これは中央競馬史上初めてのことで、奇跡のようなできごとらしい。

この貴重な1勝をあげたホワイトベッセルのお母さんの名前はシラユキヒメ(白雪姫)という。
阪神競馬場で「シラユキヒメ」の息子が、緑のターフを走るところを見たい。今年の目標に加えよう。まずは、帽子を買わなくちゃ。(マイ・フェァ・レディ)
それまでに、彼が、赤いリンゴを食べませんように。

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「猫とともに去りぬ」

2007-04-01 | ネコの本
ジャンニ・ロダーリ著 関口英子訳(光文社古典新訳文庫)2006刊

イタリアの児童文学者ジャンニ・ロダーリ(1920~80)の父は、彼が9歳の時、嵐の中仔猫を助けるために全身ずぶ濡れになり肺炎を起こして亡くなった。本書は、彼が書いた短編ファンタジー集だ。

「猫とともに去りぬ」…家族のみんなから邪魔者扱いされた年金生活者のアントニオ氏が、猫と暮らす決意をして家を出て、古代ローマの遺跡に住み着く猫になる話。自分だけだと思ったら広場の猫の半数は人間業を辞めて猫になった人達だった。…結局孫娘のダニエラが「じーじ」を見つけて…という話。(ありそうな気がするのだ)ロダーリさんの手にかかると、遺跡の柵を越えるだけで人間は猫になれる。しかし猫に生まれた者でこの柵を越えて人間になりたがる猫はいないらしい。

「恋するバイカー」…日本製のバイク「ミーチャ」と結婚したがる馬鹿息子の話。(これもありそうな気がする)

「ピアノ・ビルと消えたかかし」…相棒のピアノを奏でながら、イタリア半島をさまよい続ける孤高のカウボーイの話。村外れの夜のとばりの中でバッハの「フーガの技法」を弾く彼はカッコイイのだ。

「ガリバルディ橋の釣り人」…どうしても釣れない糸をテヴェレ川にたれてる男が、釣れるまじないの言葉を探して何度も同じ人生を生き続ける話。

「箱入りの世界」…人間が捨てたビンや缶やボール箱が、どんどん膨張していって、やがてボトルシップのように人が暮らすようになる怖い話。

訳者の関口さんが解説で、ロダーリさんの「覚書」という詩を紹介している。

 毎日、昼間やらないといけないことがある。
 身体を洗う、勉強する、遊ぶ、おひるになったら、テーブルのしたくをする。
 
 夜やらないといけないことがある。
 目を閉じる、眠る、夢に見るべき夢を持ち、耳は聞こえないようにする。
 
 ぜったいにやってはいけないことがある。
 昼間だろうが、夜だろうが、
 海の上だろうが、陸のうえだろうが、
 それはたとえば、戦争。    

 
これを読んで、物語とは、そう、何でもありの書いた者勝ち、であることを久しぶりに実感した。
ファンタジーは、読んでる者が、その世界にどう自然に入っていけるかが、ポイントだと思う。ロダーリさんのイタリアン・ファンタジーは、実に自然に、時に笑いながら、境目の向こうに私を連れて行ってくれる。そして、伝えたいことがあるんだ、という希望のメッセージがそこにはある。
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