星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

「みる」ことにおける存在

2013-02-13 | 持ち帰り展覧会
抽象画の中には、その絵の中の世界に自分が入っていける絵がある。

2010年夏の兵庫県立美術館のコレクション展で
木下佳通代(1939~94)の作品「88―CA505」に近づいていった時だった。         

       

       10メートル向こうから、いくつもの風景が重なって見える。
       
       感じるこの懐かしさは、
       かつて住んでいたあの町の風景?
       夢の中では、細部がリアルで詳しいのに、
       いつも町の全体像はぼやけている。
       過去のその時間までのあいまいな距離感。
       確かにそこに自分は存在していたのだけれど、
       どんな自分がその町の中に存在していたのか知りたいのだけれど、
       セピア色の影になる。
       それでも、消しても消しても浮かんでくる自分の軌跡。

       もしかしたら、遠くの方に見える町は、
       これから訪れる場所なのかもしれない。


春節祭で賑わう神戸元町の古本屋で、彼女の画集を見つけた。
1994年に彼女は癌で亡くなった。震災の4ヶ月前。画集は翌々年編まれている。
扉の写真に添えられた言葉は…

       すべてがあるがままに「在る」ためには…。
       すべての絶対的存在と
       「みる」ことにおける存在。
       または物理学的存在と形而上学的存在。
       すべての「存在」を認識し続けること。


1970年代の木下佳通代は、同じ画面に異なる時間に撮った写真を合わせた作品を制作。
それを見ている私に、見ている「今」という時間から、写真が撮られた過去までの距離感のあいまいさを自覚させる作品を残している。
神戸の花時計の風景写真と、その写真を撮る人を入れた風景写真の10枚セットの作品。
彼女が、もう少し長生きして震災を経験したなら、その後どんな作品をつくっただろうか。今、あの花時計のそばの東公園には「1・17希望のひかり」が灯っている。
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ランゲルハンス島の住人

2013-02-05 | ネコ日和
~僕の家と学校のあいだには、川が一本流れている。それほど深くない、水の綺麗な川で、そこに趣のある古い石の橋がかかっている。……まるで心がゆるんで溶けてしまいそうなくらい気持ちの良い春の午後で、あたりを見まわすと、何もかもが地表から二、三センチぽっかりと浮かびあがっているみたいに見えた。僕は一息ついて汗を拭き、川岸の芝生に寝転んで空を眺めた。……目を閉じると、柔らかな砂地を撫でるように流れていく川の水音が聞こえた。まるで春の渦の中心に呑みこまれたような四月の昼下がりに、もう一度走って生物の教室に戻ることなんてできやしない。1961年の春の温かい闇の中で、僕はそっと手をのばしてランゲルハンス島の岸辺に触れた。~
      「ランゲルハンス島の午後」村上春樹・安西安丸著(光文社1986刊)より 


あっ、いるいる!

      

亀は万年生きるというから、この亀さんは、1961年の春の昼下がり、生物の教科書を取りに帰って学校に戻る途中、ランゲルハンス島に迷い込んだ春樹少年を、見ていたかもしれない。

      

夙川にかかる葭原橋の下の石の上で、晴れた日には、この亀さんが甲羅干しをしている。
この亀さんは泳ぐのが速い。橋の上でカメラを向けてる間に、ささーっと影を横切って行く。

  

  

橋の向こう側には、切り株の上で日向ぼっこしている、葭原橋の番猫がいる。

 

          

「ミトコンドリア」「ランゲルハンス島」という単語に、初めて出会った時、ワクワクした。自分の身体の中に、大きな宇宙が存在しているような気がした。
春樹少年も、この橋のたもとで、自分の中の宇宙にワープしたのだわ。

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