星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

図書館競争

2013-06-15 | ネコが出てこない本
映画を見た後、「舟を編む」を図書館で予約したら、732番という順番だった。
この本を「買わないけど読みたい」という私のような人が西宮市近辺に731人いる、ということ。
ベストセラーは買わないという私のような人も案外多い。さーっと早く読める小説は買わない。もう一度読みたかったら買えばいい。誰かの書いた本を全部揃えたいとは、昔のように思わなくなった。出会う時には出会う。我が家の本棚には、まだ読んでない本がたくさんある。おそらくもう二度と読まない本もたくさんある。図書館の古い棚と同じ匂いがする。そろそろ棚卸しをしなければいけない。
最近はAmazonで検索する前に、図書館の蔵書検索をするようになった。自宅から予約する。この時ばかりは、本当にインターネットって便利だわと、単純に思う。

我が家から散歩圏内には芦屋市立図書館と西宮市立図書館があって、両方登録している。
読みたい本を予約しておくと、「あなたの番がきましたので、一週間以内に取りに来て下さい」とお知らせメールが届く。両方あって貸し出し中の本は両方予約する。一方からメールが届くと、他方は予約解除をする。映像化された作品や話題の新刊書となると、予約数がすごい数となり、予約したことを忘れた頃にメールが届く。1年近く待った本もあった。途中寄贈されて冊数が増えるので、思ったより早く届くこともある。

2012年末の芦屋市の人口は94554人、西宮市は485399人と西宮市が5倍である。
市立図書館分室は、芦屋市には4施設、西宮市には10施設ある。

今朝の時点で、両方で予約している本のうち、

「舟を編む」三浦しをん著は、芦屋市立図書館では114番目(所蔵数11冊)、西宮市立図書館では614番目(30冊)
「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」村上春樹著は、芦屋で182番目(11冊)、西宮では436番目(23冊)
「聖なる怠け者の冒険」森見登美彦著は、芦屋で27番目(2冊)、西宮で26番目(1冊)
「楽園のカンヴァス」原田マハ著は、芦屋で15番目(4冊)、西宮で181番目(15冊)

さあ、どちらの図書館からのメールが先に届くだろうか?
ちなみに「図書館戦争」有川浩著は、芦屋市立図書館が、勝利した。
(しかし、この本は手に取った途端に違和感。2ページ読んで返却…こんなこともある。)

図書館の本に走る最大の理由は、文庫の小さな活字が、読みにくくなったことかもしれない。

コメント (3)
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西の魔女が死んだ

2008-06-04 | ネコが出てこない本
これからの目標は、魔女になるしかないわ、と思う時がある。

魔女は身体にいいものを食べる。その際とてもていねいに作業をする。
トカゲの尻尾を鍋に入れ忘れては効き目がないのだ。
魔女は日常をていねいに生きる。

魔女は自分の考えを常に持つ。妥協はしない。
自分の意志を相手にそっといつのまにか伝えている。

魔女は悪を口にすることで、この世界が暗くなることを知っている。
だからそんなことにエネルギーを使わない。

魔女は自分の命が大地と共にあることを知っている。
だから大地の木々の名前、花の名前や育て方を知っている。

魔女は自分の能力を磨いて良き魔女を目指す。
自分の能力は、自分の努力で育てることを知っている。
そして魔女はその能力を、他人のために使う。

魔女は、人が元気になるおまじないの言葉を、たくさん知っている。
人はみな幸せになるために生きるのだと、
信じるように魔法をかける。

魔女は自分が死ぬ時を知っている。
死をその時だと受け入れる。

魔女は頭をあげて姿勢良く歩く。
他の人とは違うシッポや角が時々見えてしまうこともあるかもしれないけど気にしない。
まるでクロネコチャンだ。

私は良き魔女に憧れる。

映画「西の魔女が死んだ」の試写会に行ってきた。
どうもツボを押さえていない、こだわりのツボが、この監督と私とはかなりずれている。
銀龍草が出てこないなんて。切り株が出てこないなんて…。

数年前に読んだ、梨木香歩さんの原作「西の魔女が死んだ」(新潮文庫)を、もう一度読み返して、良き魔女になるための日常を生きようと、決意したのだった。
只今魔女の修行中。
               
   
     (クロネコチャンの水入れをひっくり返して濡れた跡の残る本)
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読書の秋に入る

2007-11-05 | ネコが出てこない本
1970年の私の憧れの人は、なんといっても鳥飼久美子さんだった。
TVでみた万国博覧会の思い出は、ほとんど彼女と密着している。
「同時通訳」…この人達がいなければ外交なんてできない。国際会議が開けない。
中学のスピーチコンテストで、「An earthquack is dreadful…」と言って、頭の中が真っ白になって壇上で凍ってしまった辛い過去をすでに抱えていた私にとって、同時通訳者は、届かぬ天上に輝く憧れの人であった。

幕末の黒船来航時、それまで知らなかった文明に触れた時、まったく違う価値観の社会に住む人間が、互いに存在しない言葉を自分に当てはめて、どのくらい理解できたのだろうか。
幕末ほどでないにしても、それは現代でも同じ。通訳の役割の大切さは同じだ。米原万里さんのエッセイ集を読むと、豊富な知識蒐集と好奇心、自身の人間性、集中力と決断力によって、外交の「場」を「人」がつくっていく様子がわかる。
通訳・翻訳者という、異文化の仲介者が、どれだけの語彙と想像力をもっているかで、歴史は変わるのだ。

「あの人ならこうするだろう」という価値基準が、私の中で何かが動き始める原動力になることがある。そうした憧れの対象。昨年私はその一人を失った。56歳で米原万里さんは亡くなった。なぜこんなに早く?どうして?としばらく呆然とした。彼女の書いた物をみんな読んでしまったら、もう本当にいなくなってしまいそうで、かえって遠ざかろうとさえしていた。
彼女はまだ長編小説を一冊しか書いていないのに…。

米原万里著「オリガ・モリソヴナの反語法」(集英社文庫)

米原さんは、1960年代前半という、ソ連衛星下のチェコスロバキアという、ちょうど先日観たアメリカでは「ヘアスプレー」時代の、共産圏で、思春期を過ごした。そこで実在した尊敬するダンス教師とフランス語教師の謎を、それから30年後のソ連崩壊後のロシアで、解いていく。
ワクワクするミステリーであり、一人一人の人間にとって、スターリン体制下のロシア・共産圏で生きていくことの実態を、丁寧に追っていく、ノン・フィクションのようでもある小説である。

彼女の一冊しかない長編小説を、ついに読んでしまった。予想通り、途中で置くことができない、夜明けまで一気に読んでしまう、残りページがだんだん少なくなるのが残念な小説だった。自由な時間がたっぷりあるのに、細かい字が読みにくくなってからは、極端に減ってしまった読書時間。でもやはりこれは、一瞬で異次元にとんでいける素晴らしい時間だ。

高校2年生の夏休みに、私は、薄青紫のカバーの新潮文庫のドストエフスキーにどっぷりはまっていた。「罪と罰」に始まり、「虐げられた人々」「貧しき人々」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」と…。ロシア人の名前は覚えにくいから途中で本を置いたら、出てくる人物がわからなくなる。だからというわけでもないけど、高2の夏休みは、夜昼が定かではない日々をおくってしまった。あの暗く重く悲しい話を、当時世間知らずの田舎の女子高生がどれだけ理解できたかは、疑問だけど、要するに、はまったのである。なかなかそこからでてこれなかった。ロシア正教も、神の実在についてなんて、考えたこともない私には、出てくる人は自分がそれまであったことのない人達ばかりだった。なのに、どうしてあの時はまったんだろう。なんであんなにナターシャが登場するたびに、ドキドキしたのだろう。

今になっては、ストーリーもはっきり覚えていない。でも、その時、自分が何かに感動したことは、事実だ。
一瞬の視線に、どれだけの意味が込められているのか、それを説明する言葉がどれだけありえるのか、それを証明してみせる長編小説の凄さに打たれた。
諸悪に満ちた世の中に、きれいな心、というのが確かにあるんだ、少なくても、小説の中には、それがある、と思った。
それを私が選ぶのなら不幸であってなぜいけないの?という生き方もあることを、知った。

「オリガ・モリソヴナの反語法」は、ドストエフスキーの小説よりも、波乱に富んでいる。
あぁ、万里さん、あなたの書いたものを、もっと読みたいです。
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「記憶の中の神戸」

2007-08-19 | ネコが出てこない本
手術後順調に回復に向かっている母は、今病院のベッドの上でこんな本を読んでいる。
「記憶の中の神戸~わたしの育ったまちと戦争」画文:豊田和子(シーズプランニング)
 

母は1930年、神戸生まれ。空襲で焼け出され、祖父の故郷の四国に引き上げて、そこでお見合い結婚をして、私が生まれた。田舎に住みながら、お百姓さんが嫌い、戦後の食糧難の時代ひどいめにあったというのだ。周囲ととけ込まない孤独な人だ。
「あの戦争では、いい人カッコいい人から、順番に兵隊にとられて亡くなった。私が神戸の空襲で焼夷弾の中を逃げまどっていた時、父さんなんか、田舎でお米食べながら暢気に対岸の火事として見ていたのよ」と、同じく1930年生まれで、一つ上なら兵隊に行ったはずの父に対して、戦争体験の話をする時は一方的で手厳しい。

戦争ですっかり変わってしまったと、自分の人生を語る母の、神戸での楽しかった子供時代の話を、小さい頃から聞かされて育った私は、書店で偶然この本に出会った時、即座に買い求めた。

著者の豊田さんの出身校「神戸市立第一女学校」は母の母校で、豊田さんの方が一学年先輩だ。湊川神社をシンボルとする生活圏もほぼ同じ。戦前の神戸の下町の様子が実名で具体的に描かれている。戦争でみんな焼けてしまい、もはや記憶の中にしかない街。戦争体験もまた、自分の記憶の中にしか存在しなくなってしまうことへの豊田さんの焦りが、この素晴らしい本を生んだと思う。
豊田さんの絵と文から、戦時下の厳しい銃後の生活の中で、人との別れが日常的になっていくからこそ、美しいもの、楽しいことを求め、大切なことを心に秘めていた女学生の心情が伝わってくる。
これを読む母の中では、きっと豊田さんの記憶と自身の記憶がシンクロしていることだろう。

 

母さん、もう一つあなたにこの詩をプレゼントするから、頑張ってね。
1926年生まれ、私の尊敬する詩人、茨木のり子さんの詩ですよ。
 
  「わたしが一番きれいだったとき」     

 わたしが一番きれいだったとき
 街々はがらがら崩れていって
 とんでもないところから
 青空なんかが見えたりした

 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達がたくさん死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 わたしが一番きれいだったとき
 だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
 男たちは挙手の礼しか知らなくて
 きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの頭はからっぽで
 わたしの心はかたくなで
 手足ばかりが栗色に光った

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた
 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり
 卑屈な町をのし歩いた

 わたしが一番きれいだったとき
 ラジオからはジャズが溢れた
 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
 わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ
 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのように ね
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コビトカバに乗って

2007-07-16 | ネコが出てこない本
芦屋市立図書館から、「あなたの番ですよ」という電話をもらった。
小川洋子著「ミーナの行進」(中央公論新社・2006年刊)
の貸し出し予約をした時、32人の順番待ちで、3ヶ月待ったことになる。
この本はどうしても、芦屋市立図書館打出分室で借りたかったのだ。

                   

そう、この小説の語り手である朋子さんが、白いとっくりセーターの司書さんに出会って、淡い恋心を抱く図書館は、私の生活圏に実在する古い建物である。



震災の後、財政難に陥った芦屋市は、美術博物館と共に、この図書館打出分室も閉鎖する方針を出した。
村上春樹さんの「風の歌を聴け」でも登場するこの図書館の存続運動が起きて、現在ではボランティアにより水木金土のみ、かろうじて開館している。市内在住の小川洋子さんは、もしかしたらその辺りの事情を知った上で、この本の中に、この図書館を登場させたのかも知れないなぁ。ここは、将来村上春樹記念館とか小川洋子記念館として、残る可能性がある。

私も中学1年生の夏休み、建て替えたばかりの田舎の町役場の2階の隅っこにあった小さな図書室に通い続けた。とっくりさんがいたわけではない。司書もいない文書室のようなところで、蔵書数は僅かなもの(おそらく誰かの寄贈品)だったが、私の求める本がそこにあった。
巻頭に映画写真が載ってる世界文学全集…「風と共に去りぬ」「誰がために鐘は鳴る」「嵐が丘」「戦争と平和」などに、初めて出会ったのである。不思議なことに、その夏、私はそこで自分以外の利用者に出会わなかった。役場の隅っこで本達は、私が読むのをじっと順番に待っているような気がした。

今から思えば、私にとっても、図書館は、何かが始まった場所である。

さて、「ミーナの行進」の主人公は、コビトカバのポチ子である。(といっても過言ではない。)

  

問1「コビトカバに乗って登校できるのか?」

…道路交通法では、許されている。
道路交通法第2条第1項第11号の軽車両=「自転車、荷車その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽引され、かつ、レールによらないで運転する車(そり及び牛馬を含む。)であって、身体障害者用の車いす、歩行補助車等及び小児用の車以外のもの」に該当する。

問2「芦屋の邸宅の庭でなら1939年~1973年の間コビトカバは、存在できたのだろうか?」

…これは疑わしい。

まず、「コビトカバ」は、ジャイアントパンダやオカピと共に世界三大珍獣の一つで、現在世界で2000~3000頭。日本では、上野動物園・東山動物園・白浜アドベンチャーワールドにしかいない。生きた化石と呼ばれる希少動物だったのだ。(おとなでも、体長170㎝、体重は160~270㎏で普通のカバさんの1/15、目が飛び出ていないのでカバさんほど水中に滞在しない。)

そして、戦争があった。戦争中の動物の立場を考えると、まず有り得ない話と思う。

それでも、小川洋子さんは、コビトカバを腹心の友とし、それに乗る少女を書いた。
コビトカバの背中から降りて、自分の足で歩き出す少女を書いた。
少女はやがて大人になるけど、少女がマッチ箱に記した星のかけらのような物語は、そのまま光を放つ。

コビトカバは、小川洋子さんのマッチ箱の中から飛び出した動物である。           
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二羽さん

2007-05-31 | ネコが出てこない本
「エロイカより愛をこめて」を懐かしくパラパラしてたら、本棚のコミックスコーナーの奥から、
わかつきめぐみ著「ご近所の博物誌」(白泉社、1993年刊)が出てきた。

これに出てくる植物学者、二羽(にう)さんの、このセリフが好きだ。

「本気で星まで行きたいって思った時にはね
 もう思いは空を飛んでるのよ
 できるかどうかはともかく その「思い」に追いつきたいでしょ」

             

過去に、二羽さんが、私に憑依してる瞬間があった。
(いや、こんなにかっこよくなかったけど…。)
今は、二羽さんが、私に正面から向かっている気がする。
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「恋するアラブ人」

2007-04-26 | ネコが出てこない本
ブルカを着るアフガニスタンのニュースに出てくる女性達を見て、自分はイスラム世界に生まれなくて良かったと、思った。それは着るというより、着せられているという感じが強いからだ。目すら網目に覆われた囚われ人のような彼女達は、あの中で身体を伸ばすことができるのだろうかとさえ、思う。

一昨年の夏、初めての海外旅行で訪れたウィーンの宿は、3日間泊まるので電車の便利がいい、リンク(環状道路)に面するラディソンホテルにした。ガイドブックには、宮殿を改造したホテル、アラブの富豪も泊まると書いてある。でもそれにしては値段が安い。その謎は行ってすぐに解けた。アラブの富豪が泊まる時は、大勢の召使いも連れている。私達の部屋は、そうしたお供の人の家族が泊まっている部屋の階だった。彼らの部屋のドアの前には、強烈な匂いのする使用後の器が出されていた。豪華客船の3等キャビン。

ウィーンの夕暮れ時、街のシーフードの店で食事をしていると、私達の隣の席に黒ずくめの女性の一団がやってきた。子供を抱いた若い母親を中心に、親族らしき女性たち5人。幼い男の子は普通の子供服、それ以外の女性達は、みんな目の周り以外を黒衣で覆ったチャドルに黒い長衣姿。迫力があった。思わず見てしまう。彼女達の黒い瞳は美しい、エネルギーを放出してるような強い視線、派手な金の腕輪に輝く指輪。ここまでは想像通りだった。アラビア語らしき言葉の響き…そのしゃべること、食べること…私達と同じだった。そのうちに一番若い15歳くらいの美少女の口から♪マドンナという音に近い音が聞こえてきた。(サラ・ブライトマンならともかく)ムスリムがマドンナとは有り得ない。と、改めて見ると、彼女だけは私達と同じようにキョロキョロと周りを見ている。情緒が他の女性達と明らかに違う。もしかしたら、彼女の黒衣の下は超ミニスカートで、刺青などしていて、どこかでパッと脱いでマドンナみたいに踊り出すのかもしれないなぁ、などと想像してしまった。

ウィーンからザルツブルクに向かう列車には、私のトランクの6倍くらいある大きな古いトランクを4つ持ったムスリムの5人家族(父母息子)が乗っていた。(ドイツに移住するトルコ系の家族かな?言葉が聞こえなかったからわからない、いや聞こえててもわからない)彼らを見て、今自分が乗っているのはヨーロッパを東から西に横切る国際列車なんだ、アジアとヨーロッパは地続きなのだ、と実感した。母親は紫色の柄物衣装にオレンジスカーフとカラフルだ。緊張感はない。80年前のケマル・アタチュルクの近代化政策は、トルコの女性を黒から解放した。

昨日、私の生活圏で、すなわち普段行くスーパーの100円ショップで、初めて黒チャドルの女性達を見かけた。目だけでなく顔全体を出しているから、全身黒でもウィーンの時のような強いインパクトはない。若いお母さんはベビーカーを押していた。同じ格好のお祖母さんらしき人と一緒に、髪留めの七色ゴムを籠に入れていた。彼らはアジアを、西から東に向かってやってきたんだなぁ。
しかし、問題は七色ゴムの使い道である。あの黒いチャドルの中の髪はどうなっているんだろう?アラレちゃんのように二つに分けてゴムで留めるのだろうか、やわらちゃんのように前髪も留めてたりして…。やっぱり、子供用かな。

チャドルを身につけた女性達…どうして今更こんなことに興味をもつかといえば、最近、師岡カリーマ・エルサムニーさんの「恋するアラブ人」(白水社)という素晴らしいエッセイ集を読んだからだ。そして、自分が今までどんなにイスラム社会を知らなかったことかと反省したからである。
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