兵庫県立美術館のコレクション展で、井上覚造の「詩人」1951という絵をみているうちに、
30年以上前の展覧会の絵葉書と、
長田弘という詩人の「一人の私は何でできているか?」という言葉を思い出した。
J・ミロ「人物と鳥」1967
詩の題は「人生の材料」
なにより脆い身体、そして
どこにあるのかは知らないが
じぶんのうちにある魂
感情は信じられないが
感覚は裏切らないとおもう
生まれた土地を離れても
なまりののこる話す言葉
石に彫りこむように
単純さにむかって書く言葉
考えるとは、知恵の
悲しみを知ることである
百年の樹齢をもつ木の上の空
すべて目に見えないもの
明るい孤独でない自由はない
木の家 年老いた猫
冷たい水 あたたかな食べ物
音楽 繰りかえし引く辞書
忘れることをしたくない千冊の本
友人が死んだ日から生やしはじめた髭
一人の私は何でできているか?
この詩集の題は「一日の終わりの詩集」(みすず書房・2000年刊)
詩集には、疑問符で終わる詩が並んでいる。
…一人の記憶は何でできているか?
…ひとの一日はどんな時間でできているか?
…愛すると言えるものがいくつあるか?
…一人の言葉は何でできているか?
…一人の孤独は何でできているか?
やはり、一番大きな問いは、「一人の私は何でできているか?」だろう。
この問いが気になって、ある日チャート表などつくってみた。
今の私に繋がる過去の出来事、私に繋がる人びと、身のまわりの出来事や、物たち、言葉。
無限に拡がるようで、案外書き出すと100個ぐらいで、つまる。
というか、飽きる。画家や詩人は、ここでとことん最後まで粘るのだろう。
でも、三日くらい考えてたら、気が付いたことがある。
「一人の私は何でできているか?」
の中心にあるものは、過去のつながりなんかではなく
「これからしたいこと」なのだ。
それは生きる欲望という単純な言葉なのかもしれないけれど、
ここに思い至った途端、なんだかとても嬉しく楽しくなった。
だから今、これからやってみたいこと、を書き出している。
30年以上前の展覧会の絵葉書と、
長田弘という詩人の「一人の私は何でできているか?」という言葉を思い出した。
J・ミロ「人物と鳥」1967
詩の題は「人生の材料」
なにより脆い身体、そして
どこにあるのかは知らないが
じぶんのうちにある魂
感情は信じられないが
感覚は裏切らないとおもう
生まれた土地を離れても
なまりののこる話す言葉
石に彫りこむように
単純さにむかって書く言葉
考えるとは、知恵の
悲しみを知ることである
百年の樹齢をもつ木の上の空
すべて目に見えないもの
明るい孤独でない自由はない
木の家 年老いた猫
冷たい水 あたたかな食べ物
音楽 繰りかえし引く辞書
忘れることをしたくない千冊の本
友人が死んだ日から生やしはじめた髭
一人の私は何でできているか?
この詩集の題は「一日の終わりの詩集」(みすず書房・2000年刊)
詩集には、疑問符で終わる詩が並んでいる。
…一人の記憶は何でできているか?
…ひとの一日はどんな時間でできているか?
…愛すると言えるものがいくつあるか?
…一人の言葉は何でできているか?
…一人の孤独は何でできているか?
やはり、一番大きな問いは、「一人の私は何でできているか?」だろう。
この問いが気になって、ある日チャート表などつくってみた。
今の私に繋がる過去の出来事、私に繋がる人びと、身のまわりの出来事や、物たち、言葉。
無限に拡がるようで、案外書き出すと100個ぐらいで、つまる。
というか、飽きる。画家や詩人は、ここでとことん最後まで粘るのだろう。
でも、三日くらい考えてたら、気が付いたことがある。
「一人の私は何でできているか?」
の中心にあるものは、過去のつながりなんかではなく
「これからしたいこと」なのだ。
それは生きる欲望という単純な言葉なのかもしれないけれど、
ここに思い至った途端、なんだかとても嬉しく楽しくなった。
だから今、これからやってみたいこと、を書き出している。