今年は710年の平城遷都から1300年。
「せんとくん平城京1日電車乗車券」を買って、奈良に行った。
駆け足してるせんとくん缶バッジが欲しかったわけではない。
「奈良の街中にピラミッドのような不思議なものがある」と聞いたからだった。
奈良町にある元興寺(ガンゴウジ)から新薬師寺に向かって歩く道筋の中程に、それはあった。
頭塔という。ピラミッドというより、ボロブドゥール寺院の系統。
~入り口山門の鍵を管理している仲村表具店で入手したパンフレット
周囲の回廊と手前の屋根部分は見学者用デッキ
世界遺産であるジャワ島のボロブドゥール遺跡は、8~9世紀栄えたシャイレンドーラ朝によって築造されたが、火山の大噴火で火山灰と密林に埋もれ、1814年イギリス人が発見するまで、地元の人々に忘れられていた。
120mの方形壇の上に9段の階段ピラミッドが重なる高さ42mの石積み建造物。
回廊の窪みには432体、上段の72のストゥーパにも1体づつ、計504体の仏像が納められている。
日本の奈良にある頭塔は、767年、東大寺の僧実忠が築いた仏舎利を納める仏塔である。
一辺32mの方形壇の上に築かれた7段の階段ピラミッドで高さは10m。
奇数壇4面に11基ずつ総数44基の石仏が配置されていたらしい。
現在28基が確認されており、そのうち22基が國の重要文化財に指定されている。
1922年に国の史跡に指定されたが、詳しい発掘調査が行われたのは、1986年から。パンフレットには、整備前の写真が、載っている。
南半分は現状保存とし、北半分の復元整備作業が1991年から行われ、2000年に完成している。残った石積と、復元された部分の境目には黒い鉛が入っている。石仏を守るために、屋根がつけられた。
石仏の前には、お地蔵様へのお供えのように、野の花が咲いていた。
頭塔(ズトウ)という呼び名は、土塔(ドトウ)が、変化したものだとパンフレットにはあるが、長い間、僧玄(~746)の首塚だとも言われてきたらしい。
「藤原広嗣の怨霊が、玄を連れ去って、後日頭部のみが興福寺境内に落ちていた」という、とても怖い伝説を、頭塔の周りにある見学デッキで聞いていたら、急に辺りが暗くなった。
ポツポツと雨粒が、そして中空にはギザギザ剣の稲妻が光り、大きく雷鳴が轟いた。
すわっ、僧玄の怒りか?
奈良時代というのは、藤原氏と非藤原氏の、暗い権力闘争の時代であった。
平城京のイメージは、青い空というより、いつ雷鳴が轟くかわからない梅雨空なのだ。
まさに、この地は、その権力闘争の中心地であることを思い出した。
古代の怨霊を振り払うように、早々にデッキから下りて、急な階段を駆け下り、山門の戸を静かに閉めて、21世紀の町に出てきた。
市内循環のバスの中で、強くなった窓の外の雨音をききながら、「出てくることができた」とほっとした。
「せんとくん平城京1日電車乗車券」を買って、奈良に行った。
駆け足してるせんとくん缶バッジが欲しかったわけではない。
「奈良の街中にピラミッドのような不思議なものがある」と聞いたからだった。
奈良町にある元興寺(ガンゴウジ)から新薬師寺に向かって歩く道筋の中程に、それはあった。
頭塔という。ピラミッドというより、ボロブドゥール寺院の系統。
~入り口山門の鍵を管理している仲村表具店で入手したパンフレット
周囲の回廊と手前の屋根部分は見学者用デッキ
世界遺産であるジャワ島のボロブドゥール遺跡は、8~9世紀栄えたシャイレンドーラ朝によって築造されたが、火山の大噴火で火山灰と密林に埋もれ、1814年イギリス人が発見するまで、地元の人々に忘れられていた。
120mの方形壇の上に9段の階段ピラミッドが重なる高さ42mの石積み建造物。
回廊の窪みには432体、上段の72のストゥーパにも1体づつ、計504体の仏像が納められている。
日本の奈良にある頭塔は、767年、東大寺の僧実忠が築いた仏舎利を納める仏塔である。
一辺32mの方形壇の上に築かれた7段の階段ピラミッドで高さは10m。
奇数壇4面に11基ずつ総数44基の石仏が配置されていたらしい。
現在28基が確認されており、そのうち22基が國の重要文化財に指定されている。
1922年に国の史跡に指定されたが、詳しい発掘調査が行われたのは、1986年から。パンフレットには、整備前の写真が、載っている。
南半分は現状保存とし、北半分の復元整備作業が1991年から行われ、2000年に完成している。残った石積と、復元された部分の境目には黒い鉛が入っている。石仏を守るために、屋根がつけられた。
石仏の前には、お地蔵様へのお供えのように、野の花が咲いていた。
頭塔(ズトウ)という呼び名は、土塔(ドトウ)が、変化したものだとパンフレットにはあるが、長い間、僧玄(~746)の首塚だとも言われてきたらしい。
「藤原広嗣の怨霊が、玄を連れ去って、後日頭部のみが興福寺境内に落ちていた」という、とても怖い伝説を、頭塔の周りにある見学デッキで聞いていたら、急に辺りが暗くなった。
ポツポツと雨粒が、そして中空にはギザギザ剣の稲妻が光り、大きく雷鳴が轟いた。
すわっ、僧玄の怒りか?
奈良時代というのは、藤原氏と非藤原氏の、暗い権力闘争の時代であった。
平城京のイメージは、青い空というより、いつ雷鳴が轟くかわからない梅雨空なのだ。
まさに、この地は、その権力闘争の中心地であることを思い出した。
古代の怨霊を振り払うように、早々にデッキから下りて、急な階段を駆け下り、山門の戸を静かに閉めて、21世紀の町に出てきた。
市内循環のバスの中で、強くなった窓の外の雨音をききながら、「出てくることができた」とほっとした。