星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

津高家の猫たち

2010-03-10 | ネコの本
芦屋市立美術博物館の「震災から15年」展で見た、吉野晴朗氏の写真集を見つけた。
題名もずばり「津高家の猫たち~阪神大震災に見舞われて」(東方出版、1995刊)

  

津高家の庭の石や陶板作品の上で遊ぶ猫たち、この家のソファや椅子は来客用というより、おそらくは10匹のネコさん用に置かれていたのだろう。庭中に、家中に、くつろぐネコさんがいる。
津高和一の作品は、こんな幸せそうな猫たちの寝顔を側らに、時々はいとけなき彼らの凝視を受けとめながら、創られたものだった。

津高は書いている。
 「猫たちは私の少年期以降の人生の折々を 凝視しているようでもあった。
  悲喜こもごもが交差する哀歓の渦中で、猫は黙々と不介入ではあったが 点景となっていた。」
 「利害損得では猫たちとはつきあえなかった。
  この小動物たちが、ほんの短い命を 生きながらえることができるならという思いがあるからである。
  そしてこんなに清々と 気持ちのよいということが なにものにも替えがたいからである。」
   

そしてついに44頁には、展覧会に出ていた写真が登場する。

               

この瓦礫の下で、津高和一・雪子夫妻が亡くなった。(合掌)
吉野さんのあとがきによると、津高家の10匹の猫たちと老犬モミは無事で、その後日本各地の里親さんのもとで元気に暮らしているという。
良かったです。きっとお二人もホッとしていることでしょう。

この庭の石のオブジェ、どこかで見たことがある。
そう、西宮大谷記念美術館の庭だわ、と確かめに行ってきた。

      

あったわ。そして、ここでもくつろいだネコさんの姿が…

        

         あっ、ボローニャ国際絵本展の時の、庭先案内ネコさんだ。

津高さん、あなたの作品は、ネコ達を引き寄せる力をもっているのですね。      
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グーグーだって猫である

2008-09-09 | ネコの本
実りの秋を迎えるにあたり、元気な胃腸に戻りたい。
大きな病院で検査を待っている時は、この場所にいる人の中で、癌の人はどれくらいいるのだろうとつい思ってしまう。確率はどれくらいだろう。四人に一人、二人に一人?いや、こんなこと思っていたら、待ち時間が余りにも暗い時間となる。病院で病にかかるとはこのこと。
こう考えよう。あらゆる人にとって、それは常に二分の一の確率なんだと。

胃カメラの初体験から、15年。
バリウムはこの15年でかなり進化を遂げた。
夫の話だと、バナナ味で量も半分くらいになり、ダイエットプロテインが飲める人なら、楽勝だという。
それに比べて、胃カメラは進歩していない。それとも、予算の少ない公立病院だから、15年前の機械をまだ使っているのだろうか。

一回目。
バリウムを飲むのが嫌で、バリウムでひっかっかたらどうせカメラに回されるのだからと、人間ドックにプラスする、という若気の至りで飲むことにした胃カメラ。
お盆明けのその日、バカンス帰りの担当医の顔は、真っ黒に日焼けしていた。
「胃カメラなんてたいしたことじゃないですよ」といった軽い雰囲気のノリが有り難かった。思えばこの最初が一番楽な胃カメラだった。

二回目。
「大丈夫」「簡単だ」…これは患者である私に向かって発せられた言葉ではなく、初めて胃カメラを行う新米医者のそばで、先輩医者が、新米医者を励ました言葉。私には、胃カメラの先端を持つ彼の手が震えているような気がした。
「誰だって初めての時がある、ブラックジャックだって初めての手術の時は手が震えていたかもしれないわ。でもよりによって私の時でなくてもいいのに…。早く終われ。早く終われ。」
この時の体験は私を大人にしたと思う。
「どんな辛い検査だって、終わりがある。2時間後には、コーヒー飲んでる」
とじっと耐えられるようになったのだから。(たぶん)

三回目。
事前に三分間含んで喉を麻痺させる薬を、つい二分くらいで飲み込んでしまったため、きっとカメラ通す時痛いだろうナァ、と凄く不安だったが、前回と同じだった。
映像画面の角度がこちらを向いていて、私は初めて自分の胃の中を見た。
前日から絶食していて良かったと心から思った。案外きれいだった。
「ミクロの決死圏」のような内臓への旅は、不思議な体験だった。

四回目。
「始めます」の一言を最初に言っただけで、ずっと無言だった医者。これは、本当に怖かった。
マウスピースをくわえて涎ダラダラ状態の自分は、この医者に虐められてる、とさえ、思った。
今でもこの医者はサディストだったと思う。

そして今回の五回目。
あのサディストの医者が、春に病院を去ったことを確認してから受けた。
今回は、とてもフレンドリーな優しい口調のお医者さんだった。
「ちょっと頑張って下さいね」…「ハイ(こう応えるしかない)」
ずっとカメラが映し出すものを、細かく実況中継してくれる。
途中見ようと顔を動かしたら、「患者さんは見えないんですよ」(見たい)
「ピロリ菌検査します」「十二指腸のポリープは生検に回しますね。」と、丁寧な解説で心は穏やかであったが、事実上、今までで一番内臓の痛みはひどかった。
思わず唸ると「声を出すと喉が痛みますから出さないで下さい」と言われて我慢していたら、頭の後ろの方がキーンとしてきた。
もう限界、と思ったところで、「はーい、お疲れ様でした」(ッフー)
やっと終わって起きあがったら、ベッドの反対側で若いインターン生が二人、こちらを見て立っていた。私の胃で研修していたのだ。
思わず睨んだら、二人とも目をそらした。
まあいつかどこかでお世話になるかもしれない。しっかり勉強したんでしょうね、君たち。

紙一重で闘病記に変わりそうなブログであるが、今の私が、やはり避けて通ることができないことは、できるだけ笑い飛ばせるように日頃から訓練しておく必要がある。

  大島弓子「グーグーだって猫である1~4」(2000・2002・2007・2008 角川書店)      

「グーグーだって猫である」の第2巻を、大島弓子さんはなかなか出せなかった。治療の目途がつくまで、彼女でさえ描けなかったことがあるのだ。
これを越えなければ次に進めない、でも、きついなぁ。という期間だったのだと思う。
とにかく、治癒できて良かったです。先生、良かった、本当に。
そして、第3巻までまた5年。その間に猫さんは9匹に増えている。

「綿の国星」を限りなく愛する私は、「サバ」も好きだった。
でも、「グーグーだって猫である」となると、全く別ジャンルのもので、漫画としては、もはや従来の大島ワールドではない。どちらかというと、気になるあとがきだ。
猫とともに、まだまだ大切なものを発見していこうと決意しているアラウンド50の日々ブログのような作品。テンションは自分に近い。

「うつぶせになって吹雪とか滝とかをイメージすると楽になった」「寒い、冷たいをイメージすると吐き気はおさまるみたいだ」という彼女の伝言を、いつかの日の私のために、大切にしっかり覚えておこう。
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猫は生きている

2008-08-09 | ネコの本
大学時代、「猫は生きている」という映画の上映会を手伝った。
(監督:島田開、人形製作・操演:人形劇団京芸、1975年)

        

主人公は、東京大空襲の中を、仔猫をつれて逃げる猫の「稲妻」
赤い炎の人形劇だった。
途中から息が止まったような状態でみることになる映画だ。
心の中で「走ってー、走ってー、逃げるのよー」と必死で叫んでしまう。

映画を観た後、この原作本を買った。
「猫は生きている」早乙女勝元作、田島征三絵(理論社、1973刊)

  
              
でも、映画を観た後、すぐには読めなかった。
表紙の絵が、昌男くんで、どんなシーンなのか知ってしまっていたから、
なかなか本を開くことができなかったのだ。
何日か経って、勇気を出して、開いてみた。
稲妻母さんと、ひい吉、ふう吉、みい吉、よう吉がいた。
                       

田島さんの迫力の絵に、本だけど、途中からまた叫んでいる。
「走ってー、走ってー、逃げるのよー」と。
でも、逃げる所はない。

昌男くんのお母さんは、閉ざされた鉄のシャッターの前で、
洪水の日、仔猫を口にくわえた稲妻が、あらん限りの力をだして泳いでいた姿を思い出し、炎の熱さに耐える。

『写真版 東京大空襲の記録』(新潮社)に、学徒兵として東京大空襲時の遺体の処理作業を行った須田卓雄さんの体験記~「花があったら」~が載っている。
「猫は生きている」の昌男くんのお母さんは、ここから生まれた。

「猫は生きている」は、東京大空襲の日、必死に生きようとしたお母さんと子ども達を描いた本だ。
平和な時代に生きる私達に、今の生活のすべての前提が「この国が戦争をしていない」ということであることに、気付かせてくれる本だ。

1945年3月10日、8月6日、8月9日…その後に続く今

ジョー・オダネルさんが長崎で撮った写真「焼き場に立つ少年」を忘れることはないだろう。
大人が始めた戦争から子供達は逃れることができない。

     ~CD「にんげんをかえせ」
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夏への扉

2008-07-22 | ネコの本
眠った後、私が目覚めるのは、本当に数時間後の同じ世界なのだろうか?
いや、時間が経っているのだから、同じ世界ではない。
続いている?続いていることに、どんな意味があるんだろう。

古いフィルムをPCに取り込むという作業をした。
それは古いアルバムを、丁寧に見ていく作業だった。
もはやこの世の何処にも存在しない物がそこに映っている。
物だけでない、人もまた、そこにしかいない。
そこに映っているのは、確かに過去の自分だけれど、その時何を思っていたのかすっかり忘れていたりする。こうなると、他人と同じではないか。
私が呼んだら、すぐにやってくる、親しい人。
私から彼女に話しかけることはできるけれど、彼女には私は見えない、そんな関係かもしれない。
タイムマシンで、30年前の自分の前に、今の私が現れても、きっと気がつかないだろうなぁ。いや、この場合、自分には会えないのが原則だったかしら?



先月、「僕の彼女はサイボーグ」(監督:クァク・ジェヨン 2008)という映画をたまたま2回も観てしまった。監督の他の映画に比べると、特にまた観てみたいと思う映画ではないのだけれど、私はタイムマシンの映画に弱い。好き嫌いではなく、文字通り弱いのである。一回見ただけでは、よくわからないのだ。2回観たけど、結局、最初の彼女がどこの時点でイメージされたのかよくわからなかった。

エアコンのリモコンを探すたびに思い出す映画、「サマータイムマシン・ブルース」(監督:本広克行 2005)は、瑛太くん主演の、蝉の声が聞こえてくる大好きな夏休みの映画である。
この映画の中では佐々木蔵之助先生が、黒板で説明してくれるのだけど、一回みただけでは到底理解できない。だから、CATVで配信されてるたびについ観てしまう。

「バックトゥザフューチャー」シリーズ(監督:ロバート・ゼメキス 1985・1989・1990)は、最高に面白い映画だけど、何回観ても、パラレルワールドがいくつも生まれたということではないか?という疑問が残る。

さて、「夏への扉」(ロバート・A・ハインライン著、福島正実訳、ハヤカワ文庫、1979)である。
     
                    

原作は1957年だから、半世紀前に書かれたSF小説だ。
ここでは、冷凍睡眠で未来に行って、タイムマシンで過去に戻り、また冷凍睡眠で未来に行く。未来とは2000年。1957年に作者が描いた未来像…家事ロボットはいるが、パソコンや携帯電話は登場していない。
ハラハラドキドキの復讐劇なのだが、もし映画化されるなら、主人公ダンに誰がなるかより、ダンの飼い猫ピートをどんな猫が演じるかに、興味を持ってしまう。
作者の献辞に「世のなべての猫好きにこの本を捧げる」とあるように、飼い猫への愛が貫かれた物語である。
ピート(本名ペトロニウス♂)は、家の11のドアのうち、どれか一つは必ず、夏に通じているという固い信念を持った猫で、彼は真冬でも、夏への扉を探すのを決して諦めようとしない。ジンジャーエールが好きで、いつも右でファイトする癖がある。闘うべき時を心得ている凛々しい牡猫だ。
ピートもダンとともに、冷凍睡眠で時間旅行する。
冷凍睡眠というのは、タイムマシンよりもっと更に、科学を、世間を信用し、未来を信じている時代に生まれた発想だと思う。

今夜眠った後、私が目覚めるのは、どんな世界なのだろう?
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アーバンキャッツ

2007-12-19 | ネコの本
榛野なな恵さんの「Papa told me」の中に、「アーバンキャッツ」という忘れられない作品がある。都会の片隅で、ひとり生きる、誰のものにもならないでいようとする月子さんとノラネコさん。ネコさんはもともと自由だけど、人は、日常生活の中で自由であるために、他人と、自分の弱さと闘ってる。
…獣医さんのソファーに座る月子さんの瞳から一粒の涙が落ちる。
それが、知世ちゃんの手の甲に、そして私の心に着地する…ポタッ。

~「Papa told me」1~27(集英社)

「Papa told me」の主人公である的場知世ちゃんは、この上なく素敵な女の子で、彼女のPapaである足の長い的場信吉さんは、理想の30代。こんなに感情と理性のバランスがとれてる父子は現実には存在しない。普通の人なら、人生に一度だけ、こんな瞬間があったなぁ、という、永遠の瞬間が、ずっと続いているような物語だ。二人が登場したのは1987年だから、もう20年間も続いている。

「Papa told me」149話。
私はその中でも、知世ちゃんが、不思議な世界に通じる扉を開けるシーンのある作品が、好きだ。ドゥードゥー鳥や、古ダンス。彼女は時々異次元の扉を開ける。

知世ちゃんはとても賢い小学生だけどサンタクロースを信じている。
それは、信じてしまう感動的な体験を、自分がいつかどこかでしたから。
幼い頃、一度信じたものは、心の中の核となって存在し続ける。

私にも、サンタクロースを信じたクリスマスの朝がある。
暖かい四国の田舎では珍しく、クリスマスイブの深夜に雪が降った。
朝目覚めると、枕元にはお菓子の銀色ブーツがあった。
もう雪はやんでいて、窓から明るく白い光が入ってきていた。
?才の私は赤い長靴をはいて、戸外に躍り出た。
あたりは一面の銀世界。いつもと違う世界。
私は広い畑の真ん中で、思い切り手を伸ばし、冷たい空気を思いっきり吸った。

お菓子の銀色ブーツが、母からのプレゼントだということはすでに知っていたと思う。
近くの竹虎堂の店先で見たことがあったから。
でもこの雪は違う。
白く輝く世界は、サンタクロースからの贈り物だと思った。
これこそ自分が一番望んでいたものだったような気がしたのだ。
こんなに輝いてる世界、眩しくて、ふかふかで、
それが、突然現れるなんて…
自分が異次元への入り口に立ったような気がした朝だった。

キリスト教徒でもない子供の心の中にも、サンタクロースはやってくる。
人は子ども達のためにサンタクロースになりたいと思った時、大人になる。
そして、キリスト教徒でなくても、サンタクロースになりたいと思った大人の心の中にも、
サンタクロースは訪れているのかもしれない。

           ~文庫本についてる栞です。
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「ネコはなぜ絵を描くか」~スモーキーの巻

2007-06-27 | ネコの本
ニュージーランドの自然が生んだ田園ロマン主義の画家、スモーキー。



不機嫌そうにカメラをにらむ彼は、自分の庭に他人が入り込むことを拒否する頑固オヤジだ。
たんぽぽ畑を歩く羊を描いた「真剣な枝分かれ」
頑固な画家は、線をまっすぐ平行にひく。

彼が庭にマーキングした場所に飼い主は画架を置かなければならない。

ここで彼は「鬱病のマリーゴールド}を完成させた。
つまり、彼は有り得ないものまで描くのだ。
…この花を手にしたマリア様も思わず、拍手。
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「ネコはなぜ絵を描くか」~ブーツィーの巻

2007-06-26 | ネコの本
今、彼らをみながら、現実逃避しています。
前に、まだ画像処理の仕方を知らなかった頃にUPした
ヘザー・ブッシュ、バートン・シルヴァー共著「ネコはなぜ絵を描くか」(TASCHEN)という本に登場する猫の巨匠たち。

             

まずは超越表現主義の画家、黄金の前足を持つ猫ブーツィー。ひゅーひゅー、ブッ飛んでるー。


 彼の作品「オウムの時間」    
赤青黄色の生き生きしたオウムの羽根、黒い前足、そのオウムに何かが起こったことを表す白。
…う~ん、ヤンキーヘヤーの女性の横顔にも見えるわねー。
わたしのつけた別題は「失恋した飼い主へのオマージュ」。
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「雨の木曜パーティ」

2007-06-13 | ネコの本
池田あきこ著(ほるぷ出版、2001年刊)
梅雨の季節になると思い出す挿絵です。
雨に喜ぶカエルさんとあくまで濡れたくないダヤン。
濡れることを恐れなければ、雨の日は楽しいってカエルさんが言ってます。

  古池や 蛙飛びこむ 水の音

という、有名な俳句と初めて出会ったのは、中学の国語の時間。
「旅の途中、松尾芭蕉という人が、古い池のほとりで休んでいたら、一匹のカエルがポチャーンと池に飛び込んだ、水面には波紋が拡がり、それが消えた時、辺りは前よりも、シーンとなりました」と習ったような記憶がある。

ところが、これは大間違いだと、高校の生物の先生は言った。
「芭蕉がこの俳句を作った季節は春だから、オタマジャクシから孵った大勢のカエルが、パシャパシャパシャとひっきりなしに池に飛び込んで、うるさくてうるさくて…という風景を描いたものなんだ。古い池だから静かな風景だという先入観をもってはいけない」と。

それを聞いた途端、私の中で、何かが弾けた。
私はどちらかというと、思いこみの強い方らしい。一度すり込んだイメージを固守しようとする。だからこそ、自分の中のイメージが、大きく変わった瞬間の、感激が後々までも忘れられないほど強烈に残る。

国語の授業じゃなかったけど、俳句は季節を詠むものなんだと、心から納得した瞬間だった。
ものごとを理解するには「いつ?」というのが、欠かせないと認識できた瞬間でもあった。
同じ言葉でも、人それぞれの知識や経験で、全く違うものとして使っていることも知った。

何よりも、知らないことを知るのってステキって思えた瞬間だった。
単なるデータの更新というんじゃない。
いつもこれを思い出したら、少し大げさだけど、生きててよかったー、と思えるのである。

私に、こんな人生の節目を与えてくれたカエルさんが、今ツボカビ症のために、絶滅の危機にあるという。
地球上でパンダが絶滅したら、いったい自分の生活にどんな影響があるのか?「とてもさみしくなる」「中国という国のイメージが完全に悪くなる」くらいしか、今のところ思いつかないけれど、カエルが絶滅したら、生態系が大きく変化して、大変なことになるだろうという、想像はつく。
もうすぐ、梅雨の季節をむかえる。蛙さん達には、元気に池に飛び込んで欲しい。

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みつあみ編んであげる

2007-05-31 | ネコの本
雨が上がったので、図書館に行ったら、こんな本を見つけた。

「『エロイカより愛をこめて』の創りかた」(青池保子著、マガジンハウス、2005刊)

巻末には、青池保子+大島弓子+おおやちきの合作「いまごろなぜか真夜中のカレーライス・パーティー」という超豪華作品が掲載されていた。おさげの少佐のそばで、おたま持ったチビネコがチョロチョロしているのだ。
                
 

漫画雑誌を読まなくなって久しい。でも、買い続けているコミックスはある。
1976年から、青池保子さんが書き続けている「エロイカより愛をこめて」もその一つ。ソ連解体、冷戦終結など、世界情勢が変化しても、NATO軍のエーベルバッハ少佐は、相変わらず、レオポルド戦車のごとく長い黒髪を時に振りみだして走り回っている。少し足が短くなった気がするけど。

昨年夏のヨーロッパ・ツアーで、ドイツ文化圏では、食事のたびに、ジャガイモがドーンと出た。そのテーブルのお皿の上の色彩感覚の欠如に驚いた。スイスでフランス文化圏に入るまで、ほとんどグリーン野菜は出なかった。
どこからか、「それがどうした。ジャガイモは美味い!」というエーベルバッハ少佐の声が聞こえてくるような気がした。
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「猫とともに去りぬ」

2007-04-01 | ネコの本
ジャンニ・ロダーリ著 関口英子訳(光文社古典新訳文庫)2006刊

イタリアの児童文学者ジャンニ・ロダーリ(1920~80)の父は、彼が9歳の時、嵐の中仔猫を助けるために全身ずぶ濡れになり肺炎を起こして亡くなった。本書は、彼が書いた短編ファンタジー集だ。

「猫とともに去りぬ」…家族のみんなから邪魔者扱いされた年金生活者のアントニオ氏が、猫と暮らす決意をして家を出て、古代ローマの遺跡に住み着く猫になる話。自分だけだと思ったら広場の猫の半数は人間業を辞めて猫になった人達だった。…結局孫娘のダニエラが「じーじ」を見つけて…という話。(ありそうな気がするのだ)ロダーリさんの手にかかると、遺跡の柵を越えるだけで人間は猫になれる。しかし猫に生まれた者でこの柵を越えて人間になりたがる猫はいないらしい。

「恋するバイカー」…日本製のバイク「ミーチャ」と結婚したがる馬鹿息子の話。(これもありそうな気がする)

「ピアノ・ビルと消えたかかし」…相棒のピアノを奏でながら、イタリア半島をさまよい続ける孤高のカウボーイの話。村外れの夜のとばりの中でバッハの「フーガの技法」を弾く彼はカッコイイのだ。

「ガリバルディ橋の釣り人」…どうしても釣れない糸をテヴェレ川にたれてる男が、釣れるまじないの言葉を探して何度も同じ人生を生き続ける話。

「箱入りの世界」…人間が捨てたビンや缶やボール箱が、どんどん膨張していって、やがてボトルシップのように人が暮らすようになる怖い話。

訳者の関口さんが解説で、ロダーリさんの「覚書」という詩を紹介している。

 毎日、昼間やらないといけないことがある。
 身体を洗う、勉強する、遊ぶ、おひるになったら、テーブルのしたくをする。
 
 夜やらないといけないことがある。
 目を閉じる、眠る、夢に見るべき夢を持ち、耳は聞こえないようにする。
 
 ぜったいにやってはいけないことがある。
 昼間だろうが、夜だろうが、
 海の上だろうが、陸のうえだろうが、
 それはたとえば、戦争。    

 
これを読んで、物語とは、そう、何でもありの書いた者勝ち、であることを久しぶりに実感した。
ファンタジーは、読んでる者が、その世界にどう自然に入っていけるかが、ポイントだと思う。ロダーリさんのイタリアン・ファンタジーは、実に自然に、時に笑いながら、境目の向こうに私を連れて行ってくれる。そして、伝えたいことがあるんだ、という希望のメッセージがそこにはある。
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「猫を食べちゃう本!?」

2006-11-19 | ネコの本
星野みなみ著 (双葉社)1994年

「料理なんて毎日作ったら旦那はそれがあたりまえだと思って
 感謝なんかしなくなるの。
 たまに作ると、すごい凄いと感謝されるのよ。」
なんて、うそぶいてた不良主婦の私だけど、
たまに、これ食べてもらいたいなぁと思うことがある。
それこそ、た~んまにだけど。

この本に出てくる「おいニャリずし」、
向こう向いてチョコンと座るのは
甘辛くたいたあぶらげに身を包んだお稲荷ネコさん、

首にはかんぴょうのおリボン、つけてる。
この座り姿の可愛いこと。
それになんといっても、美味しそうなのだ

忍耐強い旦那様、
いつか、お弁当箱開けてこれが出て来る日を楽しみにしていて下さい。
いつかね。

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「しましまのおひげちゃん」

2006-11-16 | ネコの本
                           

   詩:サムイル・マルシャーク  絵:ウラジーミル・レーベジェフ
  「幻のロシア絵本」復刻シリーズ4 (@museum) 2004年 

芦屋市立美術博物館で2年前開催された「幻のロシア絵本」展のおまけ、が売店に残っていた。発音さえもわからない言葉で書かれた本だけど、あまりにもその表紙の仔猫さんが可愛かったので連れて帰ってしまった。12ページの紙芝居のような絵本である。

図書館で探したら、童心社の「おひげのとらねこちゃん」という訳本があった。
幼い女の子が、まだ名前もつけてない仔猫の世話をする。仔猫は気ままでなかなか女の子の思うとおりにはいかない。
仔猫をショールにつつんで外に出た女の子にみんなが聞くの。
抱っこしてるのだあれ?…わたしの赤ちゃんよ。
どうしてこのこのほっぺはねずみ色なの?…ずっと顔を洗ってないの。
どうしてこのこはけむくじゃらでおひげが生えてるの?…ずっとひげをそってないの。
そのとき、仔猫がぱっと飛び出した。
…やがてお馬鹿さんの仔猫も賢くなって、女の子も1年生になりました。
というお話。

1920年代、誕生したばかりの社会主義国ソ連で、詩人達は、子供達に希望を語った。超一級の詩人と画家がタッグを組んで、未来を夢見ていた。すなわち、子ども達のための絵本をつくっていた。

マルシャークといえば、ミュージカル「森は生きている」の彼である。
中身は忘れたけど小さい頃出会ったこの「森は生きている」というフレーズは、強烈なインパクトがあって、なにか自分を勇気づけた言葉であった。

1930年代、資本主義国がまさに恐慌をきたした頃、希望の国のはずのソ連で、詩人達の絶望が始まる。
「子供たちよ、灯台のようであれ!闇に苦しむ人々のため光で進路を照らすんだ」と『夜の海を照らす孤独な灯台』で書いたウラジーミル・マヤコフスキーはピストル自殺をする。

希望の国ではなくなったソ連。
でもこの絵本の表紙を眺めてると、こんな仔猫を抱いた少女が、どんな時代にも、ロシアにはずっといることが伝わってくる。
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「のりたまと煙突」

2006-10-25 | ネコの本
星野博美 著 (文藝春秋)2006年刊


生きていたら「いつかむかえる死」を覚悟しなければならない。

ということを、私は実際には、猫から学んだような気がするけど、この本の著者には、猫の潔さ、のようなものがある(最大級の誉め言葉です)。人生の折り返し点あたりで、これからも自分が自分であり続けることを願い、一人であることを恐れない、いや、ちゃんと恐れてなおかつ自分の足でしっっかり立とうとする勇気を感じる。

久しぶりに、一語も飛ばすことなく、著者の言葉に耳を傾けて一気に読んだ。日常自分が感じた違和感みたいなものを、面倒だなぁと思わず、丁寧に正確に言葉で説明しようとするひたむきさに向かいあうのは、楽しい。

『ディープ・インパクト』…自分が旅行中で一度も映像を見ないうちに終わってしまった湾岸戦争については語れないが、9・11の同時中継映像を見たから同時多発テロについては語れると、思うことの危うさを自覚する彼女…これが一番秀逸。

『名前』…訪れるネコに名前を付けた途端一線を越えてしまう事になると、必死で抵抗する彼女…わかるなぁ。

『筋肉老女帯』…「和気あいあい」に憧れているのに、どうしてもそれに背を向け「一人黙々」を目指してしまう彼女が、公立のスポーツセンターには日曜日の午前中に通う理由に納得。図々しいおばさんになりたくないと努力してたらおじんくさくなってしまったというオチがつく。

『過去の残り香』…人々が模型飛行機を飛ばす公園の広い空から、そこが軍需工場→空爆→米軍住宅地→公園の歴史を持つ土地であることを思い起こし、半世紀後のイラクの地に思いを馳せる…風景に感じるちょっとした自分の違和感を信じ、追求する彼女は、きっといい写真を撮るだろう。

『白猫』…地球上に白猫ほど美しい生き物はない、という彼女のしろが死んだ。仔猫の時の写真は多いけど、成猫になってからは、写真がグンと少ないことに気づく。もう遅い、でも、あわてて老いつつある他のネコの写真を撮ろうとすることは、次の別れの準備のような気がする…激しく共感。

こんな60題からなるエッセイ集である。
図書館の本棚で初めて出会った星野さんは40歳。
次は30代前半に書いた「転がる香港に苔は生えない」を読んでみよう。
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「夢見森のモーリス」

2006-10-13 | ネコの本
MAYZON作 (小学館)1997年

☆「夢見森のモーリス」

亡くなった猫はどこへ行くのだろう?
どうやら、人間の心と交感してしまった猫は
夢見森に行くらしい。
「夢見森は現世の見えない一部であって時間も空間も現世と共有しあっています。
この森は現世という世界が見ている夢の世界みたいなもの。ここに住む私達はおとぎ話の主人公達のように現世の中でも確かに生きているのです」
と仕立て屋猫のチャップリンがいう。
夢見森の住人のメッセージは人間達の夢の中に届く。

☆「夢見森の星送り」

清い心の左ブチ猫に、いきなり鼻チューされた者は、みんな同じ表情になってしまう。この世の中で最もみんなを幸せにできるものに生まれ変わりたい、と願う左ブチ猫に、「君が幸せであれば、存在自体がみんなを幸せにするんだよ」と夢見森の祖である山猫がいう。星送りの夜、左ブチ猫はまた左ブチ猫として転生する。

晴れた夜、ベランダの手すりにすわるクロネコチャンが
見つめていたのは、待っていたのは、
青く美しい「天使の心☆」が降りてくる星送りのイベントだったのかもしれない。

幸せそうな顔して寝てるクロネコチャンを見てると私も幸せになった。

☆「モーリスの竜退治」

飼い主が亡くなった動物のために蒔いた花の種は、
夢見森の永久花になるのね。

☆「猫地区の幽霊」

心を病んだ小猫のブラッキー、夢見森に来た時は、世の中のすべてが自分を傷つける恐ろしいもので、その恐怖や不安や失望から逃れるために、自分の存在を否定して空気のように、無反応になっていた。現世で愛情を受けられず、何の楽しみも知らずに生を終えたブランキー。
彼が夢の森で、外部に心を開いていくわずかな変化である、自分の服にジャムを塗ってアリの巣のそばにじっと座ってアリをたからせるシーンは、涙なくしてみられない。

親の虐待で死んでいく幼い子どものニュースを聞く度に、
なんで何のためにその子は生まれてきたのか、っていつも思う。
神様が、してはいけないことを、している気がするのだ。

最後のページ…
モーリスの慈愛の眼差しと、ブランキーのあどけない明るい瞳に救われる。

☆「海猫」

母性を描いた、とても悲しく、美しい話。(夢見森シリーズ外)

これを読んで、20年以上前、仔猫をくわえて我が家の台所に現れた3本足の母トラ猫を思い出した。…初めて入ってきた日、彼女は真正面からじっと私を見つめてきた。その後、当然のように我が家の飼猫クッキーのお皿のご飯を食べ始めた。若い雄ネコのクッキーは椅子の上でおとなしくあっちの方を向いていた。それから毎夜、左の後ろ足が短い彼女は、堂々と子連れでやってきてクッキーのご飯を食べてから仔猫と自分の身繕いをした後、夜のどこかに出て行った。帰るところがどこかにあるのだろうかと思いながら彼女を見送り、1週間くらい経って、彼女用のお皿を用意した日、新しいお皿から食べた後、出て行こうとした彼女は振り返って、じっと私を見つめた。今度は来た時より短かった。…そして翌日、彼女と仔猫は姿を消した。
「ちょっとだけ世話になることにしたわ」とやってきて、「世話になったわね、さよなら」って、カッコ良く去って行ったのである。

…私は今でも彼女に、到底かなわないなぁと思う。
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「君のいる場所」

2006-10-05 | ネコの本
作絵:ジミー 訳:宝迫典子 (小学館)2001年

高校生の時、授業中にぽーっと窓の外に広がる秋の空を見てたら、
カラスと目があった。(ような気がした)。そしてふと思った。
「このカラスに私はどんな風に見えるんだろう?」

カラスにとって、私は四角い箱の中で同じ方向を向いて座ってる制服姿の人間の一人にすぎない。授業中だから私の後ろに5人、そして私のいる7組の後ろの教室にも同じ方向むいて座る6組の生徒、そしてその後ろにも…。同じ格好をして同じ方向むいて座る人間が延々続いてるはず。待てよ、上にもいるわ…ガラスの檻の中…。

ちょうどその頃アンデルセンの「絵のない絵本」を読んだ。
お月様からみた地上の人間達の物語。
いつか出会う私の運命の人もきっと、今同じこの月を見てるかもしれない
って思いながら受験生の私は、ひとりで夜空を見上げてた。

この本読んでたらそんなことを思い出す。
台湾の作家ジミー・リャオの「向左走向右走」は日本では「君のいる場所」になった。
宝迫典子さんの訳もいい。

都会の古いアパート、隣どうしの二人、でも彼女はいつも左に、彼はいつも右に向かって歩き出すから会ったことはない。二人が出会ったのは冬の日、恋におちる。たった1日の出会い、雨に濡れて読めなくなった電話番号。相手からかかってくる電話を、二人は同じ壁にもたれて待つ。互いを探す街の雑踏の中、二人は何度もすれ違う。同じ風景をながめ、同じ香りをかいで同じ音を聞く。でも会えない。隣の部屋で彼が弾く淋しいヴァイオリンの音色を彼女は聴きながら、さらにもっと淋しくなる。
求め合う二人は近くて遠い。季節が過ぎていく。訪れる冬、雪が降ってきた…

まるで素適な映画の絵コンテのような絵本。
「気持ちがどんどん沈んでいく」…こんな言葉を表現する絵。
彼女の想いが、風景にとけて伝わってくる。

ところで、ネコはどこに出てくるって?
彼と出会う前の彼女に喉をなでさせてあげるブチネコさん、
街を彷徨い歩く彼とも、彼女とも遊んであげたトラ猫さん
そして、二人のハッピー・エンドを見届けるホワイト・キャット。

そう、街ネコさんのゴロゴロや、「ニャ~オ~ン」が聞こえてくるようなシーンがあるんです。
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