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星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

煩悩

2020-12-30 | 持ち帰り展覧会
        

兵庫県立美術館の「今こそGUTAI」展。
ほぼ10年ぶりに、森内敬子のこの「作品」(1968/2004再制作)が出ていた。

        

   座布団は敷く物なのに
   クッションはもたれる物なのに
   立ってる。
   百八つも。
   ドミノのように倒れる時を待って立っている。

   煩悩が真っ白のはずはない。
   真っ赤なものやピンク色
   黄色や、真っ青や真っ黒
   泥色や迷彩色だって混じっているはず。

   でも、一瞬、ほんの一瞬、
   私がバタっと倒れる直前に
   きっと、真っ白になるんだ。
   その劇的瞬間。
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芦屋の時間

2020-10-28 | 持ち帰り展覧会
芦屋市立美術博物館の自転車置き場の雑草が可愛い。
       

その上に広がる秋の空。

       
       
その間の空間を、ふわふわと私は歩いている。
手には分厚い、キャプション=解説書を持って。
美術館を出てからも楽しいことが待っている予感がする。

                 

壁面を作品がヨーロッパの邸宅の壁のように密に並ぶこの秋の展覧会
~「芦屋の時間=大コレクション展」~は、
芦屋市立美術博物館のオールスターズ、収
蔵作家126名全員集合。約190作品が出ている。
迫力の作品数(普段の展覧会は60~70点)に、作品説明のキャプションを掲示する壁の余白がなくなり、解説キャプションはA4版38頁の冊子として配られた(無料、しかも前後期筆者が変わるという超豪華解説書。前後期合わせると73頁になる)。

この機会に、丁寧な解説書を読みながら、自分で作者年代表を作ってみた。
芦屋市立美術博物館の収蔵作品作家年代表である。



(青色水色は男性。黄色桃色は女性)(黒線は今回の出品作制作年。赤線は再制作年)
(名前着色は、「具体美術協会=GUTAI」に一度でも参加したメンバー)    

この表からすぐわかること…

*126人中、女性は19名。
*126人中、存命者は29名。
*一番短命な作家は、山崎福之助(享年27)
☆GUTAIメンバーが38名。そのうち女性は6名。(さすが具体の聖地!)
*1965年前後の作品が多い。

解説書で作品名を確かめると、
*出品作品で一番古いのは(江戸時代を除き)鍋井克之「虎ノ門赤煉瓦風景」1913。
*一番新しいのは、田中哲子「00618A」2000、
 いや、作品としては、2004年再制作された、山崎つる子「作品」
つる子さん28才の時の作品を77才で再制作している。今回の会場で一番キラキラしてる作品。再制作バンザーイ! 
        
この年表と、解説書や、日々更新される芦美博Twitterを読みながら、作品と作者の人物像を想像してみる。美術館の外でも楽しむ展覧会。

*これは作家の生涯の時間の中でどの位置にある作品?
*作者は、関東大震災、第二次世界大戦、阪神淡路大震災、東北の津波を経験した?
*その前の作品?後の作品?~結果、どの時代の空気感を纏っている?
*同世代、作家と作家の関係は?
*さらに欧米留学年代を入れてみようかしら。重なり合ったら面白いわ。
などなど…

そして、そっと自分の生きた時間を彼らの年表に重ねてみる。
…かなり重なる。
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彫刻室

2020-08-13 | 持ち帰り展覧会
神戸の横尾忠則現代美術館の隣には、阪神淡路大震災まで、1階に広い彫刻室のある兵庫県立近代美術館があった。兵庫県立美術館の前身である。
忘れられない彼らがいた。
半身裸像で少し高い岩の上に座る「風の中のベートーヴェン」(ブールデル作1904)。
何かに耐えているような彼の視線の先には、ロダンの「永遠の青春」1884。
アクロバット的に身体をそらした恋人達の情熱的な抱擁シーンを、ベートーヴェンが眉間に皺寄せて強い視線で見下していた。
一瞬、ベートーヴェンが気の毒になる。でもこれこそベートーヴェンだと胸がキュンとなった。。
像の台座には「風が立つとき、わが魂も渦巻く」と彼の言葉が刻まれていた。
彼の中では、今、どんな風が吹いているのだろう?どんな音楽が生まれているのだろう?
違う作家が、別の場所で、別の時間に想像した作品が、美術館の空間で出会う。
彼らが、そこに、そのように在ることで、新しい物語が生まれてくる。

残念ながら、兵庫県立美術館では、もう2度とこんなシーンは現れない。
「風の中のベートーヴェン」は、西宮の兵庫県立芸術文化センターに行ってしまったからだ。
二つもあるのだから、一つは美術館に帰ってきて欲しい。

彫刻室の空間は学芸員さんが創る。面白いだろうなあ。これとこれの視線をそろえたり、交差させたり。新たな出会いの空間を創るお仕事。

昨年、安藤忠雄記念室ができた為、2倍に広くなった兵庫県立美術館の彫刻室。
そこには、近代彫刻の傑作がたくさんある。現代彫刻も、面白い作品が並ぶ。

2020コレクション展Ⅰでは……
ジャコメッティの「石碑Ⅰ」。首の長い男が、やや上向きにじっと前をみている。
いつも、禁欲的な彼が登場すると、周りの空気を浄化する。
でも、今回は、いつもと違う空気を漂わせている。
彼はさっきから、彼女のことが気になって仕方がないのだ。いつもに増して姿勢を正しているけれど、頬の辺りが緊張している。

           ジャコメッティ「石碑Ⅰ」1958

「こっちへ来る。こっちに向かって歩いてくる。泣いてる。彼女は泣いている。」

                   

 クロチェッティ「マグダラのマリア」1955

右から見たマグダラのマリアは、「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン)の世界に、時空を超えて繋がっていた。
              

「石碑Ⅰ」の男が、そのことを知ったら、針金のようになってしまうかもしれない。
いや彼は知っている。だから、さっきから喉仏が動いたりしないように意識を集中している。
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ビーム体験

2020-05-08 | 持ち帰り展覧会
昨年の今頃は、岡山県立美術館の「ロマンティック・ロシア展」で、彼女と会っていた。
   
     
          イワン・クラムスコイ「忘れえぬ女(ひと)」1883 
 
「ビーム体験」できる絵がある。
美術館で本物の肖像画を見た時、画面の人物の視線を受けとめてしまった、という体験。視線を受けとめた途端に彼らは私の心に住み着く。彼女は住み着いて30年以上経つ。
三度目の彼女の視線を受け止める。
彼女の左目の涙が確認できるくらい近づいた瞬間に、彼女から何かが溢れてくる。
前回も今回も、何かはわからなかったけれど、今回は気が付いたら私も涙ぐんでいた。

人と、外の世界との境界線は、皮膚である。
でも、一カ所だけそうじゃないと、中学生の頃、そう思春期の頃、思い始めた。
目である。視線の届くところまでが自分だと思っていた。
生意気の「生」は、あの視線が生み出していた。

あの頃は、興味ある異性に対していつも目からそっとビームを出していた気がする。
自分と視線が合った瞬間の彼らの顔を半世紀近くたった今も覚えている。
その後別に何か進展があったわけでもないのだけれど、
互いの視線を受け入れた瞬間、私の胸の何処かに彼らは住み着いた。

大人になってよほどの事がない限りビームがでるほどじっと人の顔はみなくなった。
仕事をしている時は、相手の目をしっかりみて話すようにしていたけれど、それは自分からより相手の視線を何とか受けとめようとしていたのだと思う。
退職してからは、他人としっかり目を見て話していない。だからなかなか顔を覚えられない。
どちらかというと、犬や猫の方と、目を見て話すことが多いような気がする日々である。

そんな中で、久しぶりの出来事。
2017年の秋、芦屋市立美術博物館での「小杉武久 音楽のピクニック」展のイベントに登場した、
高橋悠治さん。2階の階段上がった所で、彼に向かって、真正面から
 「ずっとあなたの♪サティを聴いています」
と長年の思いを告白した私の目からは、中学生の頃のように熱いビームが出ていた。
高橋悠治さんはしっかり受けとめてくれたから、私はその時の彼の顔を今でもすぐ思い出せる。
(そして思い出すたびにドキドキする)
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チャペック兄弟

2018-08-30 | 持ち帰り展覧会
年をとると、時間が早く過ぎて行くのはなぜ?
チコちゃんによると、感動が少なくなるからだそうです。
そういえば、本を読むたびに確実に世界がひろがっていくと感じたあの頃…,
それまでどこにもなかった世界が、突然現れてしまう、あともどりはできない。

「一冊の本」の価値を再認識した本に出会った。
★『アウシュビッツの図書係』アントニオ・G・イトゥルベ著小原京子訳(集英社2016)
★『橋をかける~子供時代の読書の思い出』美智子皇后(すえもりブックス1998)

実話を元にしたフィクション、『アウシュビッツの図書係』の主人公エディタは、ナチスドイツがプラハに侵攻した時、9才のユダヤ人の少女だった。ゲットー、アウシュヴィッツの家族収容所(ここで8冊の本と生きた本を守る)を経て、墓場的ベルゲン・ベルゼン収容所に送られ、そこでなんとか生き延びた。連合軍により解放された1945年春、彼女は16才になっていた。解放の数週間前、チフスにかかったアンネ・フランク、姉のマルゴット・フランク、そして(本には書かれてないが)ヨゼフ・チャペックも彼女のそばで亡くなっている。

『橋をかける』は、美智子皇后によるIBBY(国際児童図書評議会)ニューデリー大会の基調講演「子供の本を通しての平和」を文章化したもの。その中で戦時疎開中に、1936(昭和11)年刊行の「日本少国民文庫」シリーズ『世界名作選』(山本有三編)で、カレル・チャペックの「郵便配達の話」を読んだという思い出を語られている。2003年の復刻・新潮文庫で確認すると、中野好夫訳でヨゼフ・チャペックの挿絵も付いていた。私が持っている短編童話集『長い長いお医者さんの話』(岩波少年文庫1976)の一編と同じだ。戦前、母の世代の子供達が、すでにチャペック兄弟の世界に触れていた。兄弟が生きているうちに日本で翻訳されていた。日本ではモンゴメリ『赤毛のアン』(1952訳本出版)よりも前からのロングセラーだった。
   
この夏の「チャペック兄弟と子どもの世界」展…芦屋市立美術博物館のフロアの思い出コーナーには、こんな絵があった。
     

展覧会場には、ヨゼフ・チャペック(1887~1945)カレル・チャペック(1890~1938)という、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間という激動の中欧チェコから新しい文化を発信し続けた兄弟の、子どもたちや犬や猫に向けた優しい眼差しから生まれた作品が並んでいる。

  

第一次世界大戦後誕生したチェコスロヴァキアという国で、パリに留学してキュビズムの洗礼を受けた兄弟は、次々と新しい文化を創造していく。
兄ヨゼフは簡潔なフォルムで対象を描き、力強い線でユーモアのある動きを、また淡いパステルで独自の表現を生み出した。
弟カレルは現実の様々な側面を、戯曲・SF小説・旅行記・評論と多様なジャンルで書き記し、独裁・全体主義と闘った。
~多くの人々は、完全な真実が宣言されることを求め、その一定の主張だけが唯一絶対の真実であり、他のすべては虚偽で欺瞞で戯言だと叫ばれることを求める。…それぞれの物事に一片の真実を認める相対主義は、たんなる無関心ではなく、存在するものすべてへの、不安に満ちた配慮である。それとは逆に、絶対的な判定と矛盾するような生の声に耳を貸さないことの方が、狂暴な無関心を必要とするのだ。~(カレル・チャペック「相対主義について」1926)

チェコへのナチス侵攻直前の1938年描かれた「二人の子どもの頭部」は、1931年の「夏の少年たち」の挿絵と同じ構図だけれど、比べると、少年の顔からは笑顔が消え、不安に満ちた表情に変わっている。ヨゼフが描いた自分たち兄弟の自画像のようである。 
この絵が生まれた頃、カレルは左右翼両陣営から攻撃され、ついに肺炎で死去。ヨゼフは1939年、ナチスにより政治犯として逮捕された。      
       ~展覧会図録より


西宮市立図書館に、展覧会に出ていたヨゼフの「子どものモチーフ」の絵にフランチシェク・フルビーンが詩をつけた絵本『青い空』があった。いでひろこ訳(偕成社1979刊)

 
         
                        

とても仲の良い兄弟だった。
20世紀前半の二つの大戦を生き抜くのは大変なことだった。しかし確かに彼らが生きた証を私は見ている。

彼らはきっとわかっていた。子供=未来だと。
「子どもたちのことを考えるのは、未来のことを考えること」だと。
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花の旅笠

2017-12-18 | 持ち帰り展覧会
あっ、木枯し紋次郎!


         
                 

画面左の風下にむかって、飛ばされた笠を必死においかけている男がいる。画面右には、道中合羽を翻して風に向かって歩いていく男がいる。「あっしには関わりのないことでござんす」という台詞が聞こえてくるようだ。笹沢佐保さんは、かつて、この広重の保永堂版「東海道五拾三次之内」の44枚目「四日市 三重川」を見て、木枯し紋次郎を思いついたに違いない。街道では、見知らぬ同士が出会い、すれ違う。

この秋、芦屋市立美術博物館では、「生誕220年 広重展~雨、雪、夜 風景版画の魅力をひもとく~」が開かれていた。天保4(1833)年、歌川広重(1797~1858)37才の時に刊行された保永堂版「東海道五拾三次之内」をゆっくり見ていった。

2枚目の「品川 日の出」で大名行列が通り過ぎている横で一般人が普通営業しているのを見て、ふと「土下座しなくていいの?」と思った。調べると、土下座をしなければならないのは徳川将軍家と御三家のみで、他の大名行列は道の端に寄って道を開ければよかったという。TV時代劇の知識しかない時代の暮らし…きっと、調べれば、一枚一枚に「そうだったのね」が、ついてくる。

いろんな人が街道を通っていく。弥次さん喜多さんのような男達が多いが、女性も旅している。 瞽女(ごぜ)(盲目の旅芸人)さんもいる。
広重の風景画では、登場人物が今体感している気温や湿度、風や爽快感が伝わってきて、その人がそこにいる理由が描かれている。

何年か前に読んだ、田辺聖子の『姥盛り花の旅笠~小田宅子の「東路日記」』(集英社文庫2004刊)を思い出した。

広重と同じ頃、天保12(1841)年、九州は筑前の商家の内儀、数え年53才の小田宅子(おだいえこ)さんが、習っている歌の会の同年代の女友達3人と、荷物持ちボディガードを兼ねた男性3人とともに、伊勢参りに出かけたが、目的地はどんどん遠くにのびてゆき、結局、海陸800里、5ヶ月間の長旅をした後に旅日記『東路日記』を記した。私が読んだ『姥盛り花の旅笠』は、田辺聖子さんがそれを元に、彼女たちの道程を丁寧に辿りながら、江戸時代女が旅することはどういうことなのか、を書いた本である。イザベラ・バードや、『花の下影』も登場する。ちなみに、小田宅子さんは、俳優の高倉健さんの5代前のご先祖様にあたる。

健さんのご先祖だからと言うわけでもないけれど、彼女達の健脚には驚く。
彼女達は一日に7里歩いている。1里=3.921㎞。歩数計では私は1㎞を約1410歩で歩くので、一里は約5500歩。7里だとなんと38500歩!私のスマホ万歩計の1日の最高記録は17468歩だから、その2倍以上彼女たちは歩いている。

旧暦1月16日(太陽暦では3月8日)~6月12日(7月29日)と、春から夏への5ヶ月間の旅。九州を出発して、瀬戸内海を、潮待ち・寄り道しながら、大阪へ。奈良から伊勢神宮へ。ついでに、信濃の善光寺をめざし、ここまで来たらと、日光・江戸見物へ。帰りは、出女になるから、関所改めが厳しい。だから箱根と新居の関所を避けるため、東海道の藤沢から御油(53次の7~36)までは甲州街道・秋葉みちを通る迂回路をとった。苦しく怖い目にもあっている。だからこそ着いた京・大坂では、20日間、芝居見物などして思い切り遊んでいる。伊勢物語や源氏物語・平家物語ゆかりの地では歌を詠み、名物を味わい、名産品を買う(なんと宅配便で送るしくみもあったらしい)…ワクワクする旅である。今なら126万くらい費用がかかった旅だと田辺聖子さんは概算している。

彼女たちが行った場所は、今も観光客が訪れる場所である。
…錦帯橋・厳島神社・金刀比羅宮・須磨寺・四天王寺・興福寺・東大寺・法隆寺・金峯山寺蔵王堂・伊勢神宮・二見浦・熱田神宮・善光寺・浅間が原・日光東照宮・増上寺・泉岳寺・新吉原の昼見世・江戸歌舞伎見物・鶴岡八幡宮・清浄光寺・豊川稲荷・養老の滝・石山寺・東本願寺・八坂神社・知恩院・南禅寺・吉田神社・六角堂・北野天満宮・仁和寺・上賀茂神社・二尊院・釈迦堂・東福寺・黄檗山万福寺・平等院・金閣寺・住吉大社・道頓堀芝居小屋・天満天神……私がまだ行ったことのない場所がたくさんある。

彼女たちは、朝目覚めると、
「今日は私の人生で私が一番若い日」
と思ったのかもしれない。
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六甲ミーツアート2017

2017-10-25 | 持ち帰り展覧会
私が六甲山を訪れたのは、こんな雲が空に浮かんだ秋晴れの日だった。
    

ガーデンテラスには、空に浮かぶ富士山をじっと見ている黒い男がいた。
 

男は空を見ながら、泣いていた。
                    
              ~佐藤圭一「空を見てたら涙が出ちゃいました」

台風21号の暴風雨が吹き荒れた今週末、六甲山上の、あの牛さんたちは、大丈夫だったのかしら?
   
 ~松蔭中学校高等学校美術部「六甲ハイ・チーズ」ぶらぶら揺れるしっぽが可愛い。

池の中には、伝説のロッカーの熱狂的ファンがいる。彼がステージに立って、ギターを弾きながら「恋」という歌詞が出てくる昭和の歌謡曲の「恋(Koi)」の部分を連唱すると、池中の鯉がわらわらと彼の足下に、バシャバシャ水しぶきを上げながら集まってくるのだった。
  ~現代美術二等兵「KoiのRock'n Roller」

何かが生まれそうなレモン。レモン太郎ってきっと金髪ね。
~伊藤彩「こんなんどうですか」

植物園では、キノコのような岩や、女の子の脳みそみたいな新種のキノコが育っていた。
  
             ~三木サチコ「Funky-Mushroom」

おや?林の向こう、崖の上に見えるのは、何かしら?

        
竜宮城だった。
              ~楢木野淑子「あるべきような」

植物園の山道の滑り止めが美しい。年輪踏みしめてしっかり歩こう。

   人は真ん中を歩く。

オルゴール館の前には。鏡の花が咲いていた。地上でキラキラ光る空の断片。
    
            ~田中千紘「幸せの種まき」

帰宅したら、昨年六甲山上の未来郵便局から私が一年後の私に出した手紙が届いていた。
一年間この手紙はどこを彷徨っていたのだろう?
何を書いたのか全く忘れていたのでドキドキしながら青い封筒を開けたのだけれど…
…そこには、今の私が書きそうなことが書いてあった。
この一年間、自分に全く変化なし、進歩なし、ということかしら?と少しがっかりした。
まるで、手紙は、どこかを旅してなんかなくて暗い郵便局の倉庫の袋の中でじっと一年間眠りについていたみたい。

10年前のブログの記事を自分が読んでもがっかりしないのは、確かに自分が書いたものだけど、自分以外の誰かに向けてのメッセージでもある。だから、少しだけ自分の外に飛び出している。きっとその飛び出してる分だけ新しい自分。
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Be Real !

2017-03-25 | 持ち帰り展覧会
兵庫県立美術館の4月からのプレミアム展のテーマは、<Out of Real=リアルからの創造/脱却>。学芸員さんの話では、リアルという言葉は、もう日本語として市民権を持つらしい。
「リアル」を日常語として使ってはいない私はあわてて、「リアル」を求めて周りを見渡してみた。すると、見つかるものである。

まずは、「リアル」という題のついた本はないかと我が家の本棚を探したら、あった。
長谷部浩著『盗まれたリアル~90年代演劇は語る』(アスキー1998刊)。演劇評論家の長谷部浩氏が、20世紀末に、岩松了、野田秀樹、宮沢章夫、デヴィット・ルヴォー、いのうえひでのり、平田オリザ、松尾スズキという、1990年代を代表する演劇人と対談したもので、あとがきには、セザンヌの次の言葉が引用されていた。
~「私は、例えば太陽を再現することはできないので、それを他のものによって……色によって表す必要があると気付いた時、うれしかった」~
これがセザンヌのリアルからの創造なのねー、と勝手に納得する。

そんな時、美術館に詳しい友人が教えてくれた。
~1995年1月28日~4月9日に兵庫県立近代美術館で開催予定だった「ルネ・マグリット展」は、阪神淡路大震災のため、大阪の大丸ミュージアムに会場を変更して3月1日~26日に開催された。そのマグリット展の題は『シュールな現実、リアルな夢』だった~と。
なんと、1995年を象徴する題だこと。まさに、目の前の被災地はシュールな現実であり、その時一番私達被災者を支えた大切なものは、復興への夢であった。
そう、「リアル」という言葉は、1990年代すでに、そのように使っていたのだ。

 そして、3月20日の朝日新聞に大きな「Be Real」の文字を見つけた。大谷大学の新メッセージを学長が発表している広告だった。それによると…
「Real」とは二つの実、すなわち「真実」(仏教でいう、人間の思慮分別や価値判断が加わる前の世界で真理の姿)と、「現実」(社会問題や一人一人が経験する苦悩など世の中に現れる具体的事象)のこと。
「Be Real」とは、真実を求め、人間や社会の現実から目を離さないということ。
簡単に言えば「ちゃんとしようよ!」ということ。真実と現実の双方を見つめながら、「ちゃんとしようよ!」


…いいなぁ。学生さんに向かって呼びかける言葉だけど、今の自分にも必要な言葉だと思った。「Be Real!」

さあ、「Out of Real」…作家が、それぞれの現実を基点とし、それを超越する、という美術作品が並ぶ。超越の瞬間をリアルに感じたいと思う。
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六甲ミーツアート2016

2016-11-05 | 持ち帰り展覧会
秋の六甲山には、いろんなものが潜んでいる。

ケーブルカーの車掌さんがクマさんだったり、
三沢厚彦「Animal2016-03-B1」

ロープウェー山上駅には、大きな赤いネコさんがいたり、
           
           飯川雄大「デコレータークラブ」

王冠聖人や、貝殻聖人がいたりする。
 
吉田一郎「海に流れついたもの山へ登る」~この題名好き!

ペアリフトから見える池には、なんとUFOが墜落していた。
岡本光博「未確認墜落物体」

芝生の上に、ガリバーが靴を忘れていたりする。
靴郎堂本店「SHOE LODGE」

アルペンローゼのロッカーの中からは変な音がして、流れる映像では窓の中にも外にも無数の飛行機が飛んでいる。
        さわひらき「dwelling」

高山植物園には季節はずれの硬い紫陽花や、恋するヒメジオンが咲いている。
 
角倉起美「紫陽花」

大きなジャガイモとサツマイモかな?と近づいてみると、呑気そうな大仏さまだったり、
シイタケ仙人もいたりするのだった。
  山本桂輔「夢の山(眠る私)」

オルゴールミュージアムの池の主は元気がいい。
君平「プランクトン」

反省してるような赤いダリアの向こうには、大きな矢車草が咲いていたり、
 君平「ヒゴタイ」

樹木の精のような森の民が大勢住んでいる。
  
  0PARANOID ANDERSONS「かくれんぼ」


外は晴れているのに、カフェの中では雨が降っていて、
        近藤正嗣「晴天のアメ」

山の上では、知らない間に、木の枝がネットワークをつくってる。


俗界から少し離れたような場所にある「未来郵便局」から、一年後の自分に宛てた手紙を書いた。
届くかしら?

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オリンピックとチェコ絵本

2016-08-28 | 持ち帰り展覧会
2016リオデジャネイロ・オリンピックが終わった。1964東京オリンピックの時は開会式を見ながら世界地図で国名を確認し、国旗を覚えようとした。百均ショップのなかった当時の小学生は、運動会の度に万国旗を描かなければならなかった。もちろん日本が一番簡単だった。21個も星のあるブラジルは大変だった(現在27個)。東京の時は参加国・地域は93だったけど、リオでは213、と倍以上に増えている。チェコスロバキアという国も、今はチェコとスロバキアになっている。

オリンピックの後、市川昆監督の映画『東京オリンピック』が、全国の小学校を回って上映された。単なる記録映画ではない。脚本には谷川俊太郎も参加している。映画のヒロインは、チェコスロバキアの女子体操個人金メダリストのベラ・チャスラフスカ(1942~)。彼女の平均台の上のV字バランスは美しかった。床の上ならできるもんね、と少女達は真似をした。(あの頃はできたもん!)

1968年、彼女は「プラハの春」とよばれた民主化運動への支持を表明して「二千語宣言」に署名したため、同年8月のワルシャワ条約機構軍の侵攻後、身を隠す。なんとか出国した秋のメキシコオリンピックでは、ソ連の選手との熾烈な戦いを経て、彼女は個人総合で金メダル、女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。その後も彼女は「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたので、国内では困難な状況にあったらしい。が、そんなことは知らずに私は大人になった。
彼女に再会したのは、1989年、チェコスロバキアのビロード革命を伝えるTVのライブ映像だった。群衆の歓声の中、広場のバルコニーに懐かしい彼女が登場した。V字バランスが蘇って胸が熱くなった。

チャスラフスカに次いで、大学時代に私が知ったチェコ人は、カレル・チャペック(1890~1938)。『山椒魚戦争』1936という創元推理文庫で、ナチスの台頭を風刺したSF作家として彼を知った。ロボットというのは、チェコ語の<ロボタ(仕事・労働)>から、チャペックがつくった「人造人間」という意味の造語である。痛烈な社会風刺で、未来を予言するSF作家だった。
その後『長い長いお医者さんの話』1931(岩波少年文庫)『園芸家12ヶ月』1929(中公文庫)というユーモア溢れる挿絵の、不思議に面白い本が私の本棚に加わり、彼が常に様々な分野への発信源であることを知った。的確な線で挿絵を描いたのは、カレルの兄、ヨゼフ・チャペック(1987~1945)。1939年チェコにナチスが侵攻する前にカレルは病死し、兄ヨゼフは強制収容所で亡くなっている。

この夏の芦屋市立美術博物館の「チェコ絵本をめぐる旅」展には、カレル・チャペックの『ダーシェンカ、あるいは仔犬の生活』も登場。『長い長いお医者さんの話』の中の「郵便屋さんの話」の原画が登場している。85年前の原画には、白い修正液も塗られていて、私の持ってる1976年の岩波少年文庫の茶色くなった紙面より、はるかに鮮明な絵だった。


~岩波少年文庫『長い長いお医者さんの話』より


…郵便局に宛名のない手紙が投函された、手紙にどれだけ愛が詰まっているかわかる郵便局の妖精によると、それはボブからメアリへの最高の愛が込められたプロポーズの手紙、郵便屋さんは国中歩き回ってメアリを探す。1年と1日が経った時、悲しい顔の運転手に出会った…
挿絵のマイルストーンが31から880になっていることに今回、原画を見て気がついた。ヨゼフ兄さんの表現は細かい。

展覧会に出品されているチェコの絵本作家は12名で、女性はグヴィエタ・パツオフスカー、ミハエラ・クコヴィチョヴァー、アルジュビェタ・スカーローヴァー、エヴァ・ヴォルフォヴァー、マリエ・シュテファンフォヴァーの5人。

この内、赤い色遣いが印象的なグヴィエタ・パツオフスカーは、知っていた。
 『子どものカラー・オペラ』
 『赤い雨』
             ~「ちひろと世界の絵本作家たち」展で求めたポスト・カード

今回は彼女の絵本数点と自分の展覧会のポスターが6点出ている。ポスターがいい。日曜日のないカレンダー、繋がりそうで繋がらない円など、微妙な線の途切れや図形の傾きが絶妙。赤と黒という強い色でピシッと決めている。

ところで、彼女以外は、姓の方が全員語尾がヴァーで終わっている。調べたら、チェコでは、女性の姓は、父の、結婚したら夫の姓の後ろに「ova」がつくという。「ova」の元の意味は、「~のもの」。つい『更級日記』の作者が菅原孝標女なのを思い出してしまう。
チェコ語では、男性女性によって、動詞も形容詞も変化するから、男性か女性かわからないと、会話がしにくくなるらしい。チェコの新聞記事に載る浅田真央ちゃんは、「MAO ASADOVA」(アサドヴァー)だった。
チェコでオリンピックがあったらどうなるのだろう?

あっ、グヴィエタ・パツオフスカーもベラ・チャスラフスカーも、カーで終わっている。ということは、ダーシェンカも女の子ですね。(細かい事はとばして)

 

会場のメッセージボードには、可愛い絵がたくさん貼られていた。
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ザムザ氏の散歩

2016-02-18 | 持ち帰り展覧会
この冬の芦屋市立美術博物館の「戦後のボーダレス~前衛陶芸の貌」展。
戦後、関西の陶芸界にも新しい流れが起こった。1947年に四耕会、1948年に走泥社結成、若者たちは、新しい時代の新しい焼き物を作った。クレイ・ワークの出発。

まず、第一室には「われわれが活けられないような花器を」と前衛華道家に求められた花器が並ぶ。
器(うつわ)とは、「ウツ」なる空洞なるものがその中に何かの到来を待ちうけているものらしい。オブジェのようだが、そこに花が加わって完成する世界。どんな花を生けようかと、想像しながら見ていく。体用留は考えない。
三浦省吾の「作品」1951は、動きのある男児のように可愛い。まるで映画「スターウォーズ~フォースの覚醒」に出てきた、BB8。
八木一夫の「春の海」1947はお正月に飾りたい。花咲き、蝶が飛んでる季節、春の海では、まあるい幸せそうなフグが泳いでいる。


  三浦省吾「作品」   八木一夫「春の海」 ~写真は展覧会図録より  

持ち帰りに選んだこの2点には、お花は必要ないかな。それでも丸く空いた空間は、何かを待っているみたいなので、私の気配でもしのばせてみよう。

第二室はいよいよオブジェ。
林康夫の1948の作品には「雲」という題がついているけど、私にはおでことおでこをこっつんこしている母子像に見える。真ん中の空間の形が美しい。バレンタインチョコの形にしてもいいわ。
重量感あふれる熊倉順吉の「作品」1956は、洞窟の風景みたい。コップのフチコさんになって坐りたくなる。どこにしようかな。
陶製ではなく、鉄製のオブジェも出ている。現代美術懇談会つながりで登場した、堀内正和の「うらがえる円筒a」1960。確かに途中で裏返っているのに、ある角度から見ると上から下まで一直線を辿れる。本当に格好いい作品。


 林康夫「雲」  熊倉順吉「作品」 堀内正和「うらがえる円筒a」

そして八木一夫の「ザムザ氏の散歩」1954である。

         

このザムザ氏は、おそらく回転しながら歩むのだろう。次々に小さな足を地につけて、自分がまわりながら進むのだ。(そういえば、SMAPがデビューしたての頃、新春かくし芸大会で、グルグル回る鉄の環(ラート)を全身で回して鮮やかに技を決めていた。ドイツ生まれのスポーツを彼ら一生懸命練習したんだろうなぁ。あれから24年)

ザムザ氏とは、フランツ・カフカ(1883~1924)が1912年に書いた小説「変身」の主人公である。二度と読みたくないと思った小説である。

~ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもない大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。(訳:中井正文、角川書店1968)
~ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から醒めると、ベッドのなかで、ものすごい虫に変わっていた。(訳:城山良彦、集英社1989)
~ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。(訳:池内紀、白水社2001)
~ある朝、不安な夢から目を覚ますと、グレーゴル・ザムザは、自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた。(訳:丘沢静也、光文社2007)

カフカは、挿絵として虫の姿を決して載せないように指示した。遠方の姿でさえ駄目だとした。虫の姿形を読者の想像にゆだねたのだ。そのことが、この短編を一度読んだら忘れられない感触をのこす作品にしている。私は巨大なゴキブリのような形の単純なイメージしかなかった。

同じ短編を読んで、この虫の形をつくり出した八木一夫の想像力に驚く。(正直、ザムザに「氏」をつけたところから驚いている。小説では氏がつくのは、父親の方だ。まさか?)
壊れそうな足で立っている。実際に何本かは欠けている。それさえ小説の中味と連動した八木の創作の一部かもしれない。いやきっとそうだ。リンゴを投げつけられてボロボロになった身体だ。長い時間見つめていると、表面の無数の穴からは嫌な虫の匂いも漂ってきそうな質感である。でも、カフカの作品にはない、ユーモラスな要素がこの作品にはある。歩き方だ。
このザムザ氏は、どんな風に歩くのだろうと、作品を見ながら考えているうちに、気がついた。回転するのだ。ゆっくりと次々に横の足を地につけながら。足の方向がてんでバラバラに見えるけど、全身でリズムとらないと、ザムザ氏は歩けない。
あー、カフカに見てほしい。
「春の海」のような作品を作った同じ人が、「ザムザ氏の散歩」を作った。
八木一夫(1918-1979)自身も、この作品によって、伝統ある京都五条坂の陶芸家から、オブジェ焼きという新しい造形作家に「変身」したのだ。

  
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月と人と

2016-01-07 | 持ち帰り展覧会
勤めていた頃、駅で降りて、自転車置き場に向かう時、上空の月はいつも三日月だった。また違う日、自宅に近づく東向きの真っ直ぐな道の上空の月はいつも満月だった。記憶では通勤帰りの特定の場所の風景と月の形の組み合わせは、いつも同じなのだ。どうして?とその当時疑問を持つ余裕はなかった。
記憶の中の、同じ時間帯の特定の風景と月の形の組み合わせが同じなのは、当然のことだと知ったのは、つい1年前のこと。薬局で時間待ちしていた時手に取った、子供向けの「そらの絵本Kid’s SKY」(Gakken)という本の終わり頃のページを開いた時だった。わかり易い絵と共にわかり易い説明があった。

~満月は、東の空に現れて、南から西の空へ動いていくよ。お月様の見え始める方向は、形によって違うんだ。半月は、南の空に現れて、西の空へ動いていくよ。三日月は、西よりの南の空に現れて、西の空へ動いていくよ。~

この本を読む5才の子供さえ知っていることを、私はこの年まで知らなかったのだ。
「午後7時頃、西の方角に月が見える時は三日月、東の方角に月が見える時は満月」というのは、地球が誕生した頃から決まっていたことだった。平安時代のご先祖様が「おろかよのぉ」と高笑いしている姿が脳裏に浮かんだ。
もしかして知らなかったのは、世の中で私だけだったの?と衝撃が走った。子供と一緒に絵本を読む経験が欠落しているせいか?高校の地学の授業中内職していたせいか?
いやしかし、この感動!知ることの喜び、といっていいはず。ここは、お月様と私の新しい関係が生まれたことを、喜ぶことにしよう。
 
現在、芦屋市立美術博物館で開催中の「戦後のボーダレス~前衛陶芸の貌」展に出ているこの絵の月は、南南東の方角から出てくる月。

          
        津高和一「月と人と」1948 ~展覧会図録より

男の肩の線いいなぁ。女がもたれかかった左肩は、柔らかく丸い。きっと何かがあった家族。(たぶん貧しいけれど)強く優しく頑張ろうとしている男。頭を上げて月に向かって何か誓っているのか。黄色い月を見た津高37才のそうでありたい自画像かもしれない。
実際にこの絵の前に立つと、透明人間家族だけではなく、月の光が、絵の前に立つ私にも届いてくる。黄色い月の光は、白い月より温かい。

人は月と、直接つながることができる。サドルの上の私と月、ベランダに立つ私と月。
お月様には会えない日もあるけれど、私のことを忘れない。
淋しい夜に一対一でつきあってくれる。一対一。

「月影」というのが「影」ではなく「月の光」のことだと知ったのも、最近のこと。
まだきっと、知らないことがたくさんある。
 
   そのときは月の光になりたいと願う夜あり
 

  
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海老茶筅髷男

2015-09-29 | 持ち帰り展覧会
自転車で図書館に向かう途中の住宅街の路上で、8才ぐらいの男の子と、6才くらいの女の子が、スケートボードで遊んでいた。すれ違う時、聞こえた男の子の声にドキッとして思わず振り返ってしまった。
 「ハナちゃん、だいぶ上手になったね」
ハナちゃんの手はハッと止まり、じわーっと恥ずかしそうな笑顔になった。8才とは思えない優しい声の男の子の顔は、後ろを向いていて、残念ながら見えなかった。
…彼は、これからいったいどんな人生を送るのだろう。彼の言葉が何人の女を笑顔にするのだろうか?などと、つい思ってしまった。

海老茶筅髷(えびちゃせんまげ)の男は、小さい頃から、あんな声で、女の子に話しかけていたのかもしれない。
私が、海老茶筅髷の男に出会ったのは、昨年の春。芦屋市立美術博物館での「世界を魅了したやまとなでしこ~浮世絵美人帖」という展覧会だった。大正期に商社マンとして海外に出た片岡長四郎氏が主に海外で買い求めたコレクションから構成した展覧会だった。阪神淡路大震災の時、芦屋で倒壊した家屋から出てきた古い皮のトランク。開けたら中には300枚を越える美人画の浮世絵が入っていたという。ゴッホの絵に出てくる渓斎英泉や、歌川国貞(三代目歌川豊国)の、保存状態の良い色鮮やかな美人画が中心の展覧会だった。
この時、私は「笹紅」と「海老茶筅髷」という言葉を初めて知った。

まず、「笹紅」
浮世絵の中で、女性の下唇が緑のものがあった。笹紅とは、赤い紅を重ね塗りすると緑の玉虫色になり、唾液で湿らせると朱に戻る、という実に妖艶な遊女の化粧法であり、文化文政(1804~30)の頃、流行った。ただし、紅は高価で一回塗ると、今の800円くらいかかったので、高級遊女以外は、遠くから見ると緑に見えるように、墨を塗った上に紅をひいたという。ある時代限定の特異なファッションなのである。
この展覧会と同時期に、喜多川歌麿(1753~1806)の肉筆画「深川の雪」が岡田美術館で初公開されていたが、「深川の雪」が歌麿最晩年の作であると認定する決め手となったのが、笹紅だったと聞き、箱根まで確かめに行ってきた。確かに「深川の雪」の遊女達の下唇は、緑色だった。

そして、「海老茶筅髷」
「浮世絵美人帖」展なのに、所々に、女性達より豪華な衣装を身に纏った男が、女性と共に画面に出てくる。概ね、周りの女よりも目立っている。そして、何より、髪型が変。
髷の先が海老のしっぽのように、二つに分かれている。
手回し扇風機や、大きな金魚鉢の出てくる、歌川国貞のこの絵にも登場している。

     
     「吾妻源氏見立五節句 皐月」~展覧会図録より

   


調べたら、浮世絵の一分野として、源氏絵と呼ばれるものがあるらしい。
その絵には、必ずこの海老茶筅髷の男が、登場する。
彼はもともと、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」という合巻(小説)の主人公として挿絵に描かれた男だった。文政12(1829)年~天保13(1942)年の14年間に38編が発刊され、大当たりをとった小説である。その絶大な人気は、種彦の筋立てと歌川国貞が描く挿絵が生み出したものだった。「源氏物語」をベースに時代を室町におきかえ、足利義政の妾腹の子で、美しく女性にもてる足利光氏が、将軍職をねらう山名宗全を、はかりごとで滅ぼすという物語らしい。町民の圧倒的支持をうけたが、大奥・将軍を連想させると当局の弾圧を受け、絶版を強いられ、作者柳亭種彦は天保の改革時に亡くなっている。小説は未完で終わったが、海老茶筅髷の男の人気は高く、どうやら、挿絵から独立して、浮世絵の題材として、このキャラクターが、一人歩きをしていったらしい。

海老茶筅髷男は、徹底してお洒落である。かつてジュリーが「魔界転生」で着ていたような南蛮風外套のような衣装も着こなしている。ただ、周りの人たちと何かがずれていて、ひとりのんびりとしている印象がある。周りの女達が日常仕事をしていても、彼は当然何もしていない。おそらく、彼の仕事は、優しい声で話かけること、だったと思う。

考えたら、当時一枚が掛け蕎麦一杯の値段の浮世絵を買ったのは、男達より、女達ではなかったのか。ならば、役者絵と同じように、絵草紙屋の店頭に、彼が登場する度に、買い求めた女達がきっといたはず。

軽薄そうな口先男は、嫌いだけれど、浮世絵展に行ったら、きっと私は、海老茶筅髷男を捜すと思う。




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トートロジーな勇者

2015-07-01 | 持ち帰り展覧会
勇者が、長い冒険の旅の果てにやっと手に入れた秘伝の巻物。
開いてみると、そこに書いてあったのは…
              

(高松次郎「日本語の文字」1970)

  
思わず硬直してしまった勇者。

「もはや文字は意味を持たなくなったのか…」
「文字は形(かたち)にすぎないのか…」

3時間後、勇者は笑みを浮かべ、
巻物の裏に次の文字を記して、次の冒険に旅立って行った。
  
               こ
               の
               こ
               こ
               の
               つ
               の
               文
               字
     


高松次郎の、この作品を初めて見たのは、2009年兵庫県立美術館のコレクション展だった。その時、この勇者が生まれた。
3時間もの間、彼は何をしていたのか?というのが、謎として残る。

今回の国立国際美術館での「高松次郎~制作の軌跡」展にも出ていて、この作品が、1970年ゼロックスのコピー機普及のプロジェクトをきっかけに制作した作品であることを知った。明朝体の7文字を、コピー機で繰り返し拡大し、それを原版としてオフセット・リトグラフで100部刷った作品。

1970年代、私が大学の卒論を書いた時は、まだ青焼時代だった。隣の研究室にあった、独特の匂いのする湿った紫色の紙が出てくる機械を「青焼き機」と呼んでいた。
コピー機のない時代に、卒論を書いた私や皆様は偉い!
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坂道と影の幻想

2015-06-28 | 持ち帰り展覧会
臨港線の遊歩道から、図書館横の坂道を、自転車に乗って駆け下りる瞬間が好き。「ヒュー!」
坂道は子供が駆け下りても転ばない、これくらいの長さでこれくらいの傾斜がちょうどいいわ。

          
高校生の時、25分の自転車通学の途中に、「ヒューヒューヒューヒュー」が続く長い坂道があった。傾斜は40度くらいあったような気がする。当時田舎のその辺では、唯一整備された主幹道路だったが、交通量は多くなかった。
最初は、とても気持ち良かった。途中でスピードが増して、まるで空中を飛んでいる気分になる。足を浮かせてスカート翻して「ヒュー!」
少しカーブしているので、ブレーキハンドルはしっかり握っていた。
ある日、「今、手を離したらどうなるかなぁ」と、ふと思った。
それからは、毎朝そこを通るたびに、「この手を離したらどうなるだろう?」と、必ず思うようになった。
やがて「手を離したい」という誘惑と戦うようになった。。
毎朝、坂道にさしかかると、もの凄い緊張感が自分を襲うようになった。
足を浮かすことができない。ハンドル握る手のひらがいつも汗をかいていた。
何にも考えず、最初の時のように、浮遊感をただ味わえたらいいのに、どうしてそう自分はできないんだろう?と悩んだ。
受験生を自覚し始めた3年の春、朝の緊張感に絶えきれず、自転車通学をやめて、バス通学に変えた。
恐怖感は、自分でつくり出すことを知ったのだ。

今から思えば、それ以前にも、私は、恐怖心は自分がつくり出すことを体験していた。そして、その時も、これはしてはいけない遊びだと、自分でやめたのだった。
それは、物心ついた頃、近所の遊んでくれるお姉さん達が、学校から帰ってくるのを待っている昼下がり、やっていた、一人で自分の影と遊ぶ、という不思議な時間。
炎天下の影は小さいけど強い。夕方が近づくとだんだん長くなる。

     「私なのに、私じゃない」

つかもうとしても変な形になるばかり。

     「そこにいるのにいない」

キリコの絵のような、午後の不思議な時間。
自分の影を見てるうちに、いつも頭がくらくらしてきた。
ある日、どこにいてもついてくる影を、もうこれからは見ないことにしようと思った。


先日行った、国立国際美術館の「高松次郎~制作の軌跡」展。
「そこにいるのにいない」「そこにいないのにいる」影は、美しい。

          ~高松次郎「女の影」のクリアファイル

子供の影ではなく、大人の影。自分ではなく、他人の影は、怖くない?
フランソワーズ・アルディの歌声が、聞こえてくるような影だった。
この影にぴったりの「もう森へなんか行かない」は1968年の曲。
高松次郎さん(1936~98)も、彼女の歌声を聴いたことがあるかもしれない。
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