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読書案内「南三陸日記」 ③ 防災対策庁舎、もう一人の人

2021-05-19 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ③ 防災対策庁舎、もう一人の人                  

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
  
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

      前回……誰のために記事を書くのか。
     その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。( 冒頭2行を引用)
           その場所が、南三陸町の防災対策庁舎だ。

     

 あの日、2011.3.11 午後2時46分。
 地震が起こった時刻。 
 その日の宮城県南三陸町防災対策庁舎広報係・遠藤未希に焦点を合わせて綴りました。
    このことに関する当時の報道も似たような内容でした。
   結婚を控えていたにもかかわらず 命を賭けて、避難を呼びかけた未希さんの行為は、
 美談としてメディアが取り上げた。
 多くのメディアはこの報道に隠されたもう一人の人のことを、
 取材で掘り起こすことができなかった。
 これを書いている私自身、震災から10年も経つというのに
 「もう一人の人」のことを全く知らなかった。
 そのことを知ったきっかけは朝日新聞記者・三浦英之氏の「南三陸日記」を
 読んでからだった。

 当時の河北新報の記事から、拾ってみよう。
  2011.3.12 震災翌日の記事
       住民救った「高台に避難してください」 宮城・南三陸町職員24歳
       防災無線声の主姿なく
  2011.5.2 
遠藤さんは3月11日午後2時46分から約30分間、防災対策庁舎2階にある放送室から防災

        無線で「高台に避難してください」「異常な潮の引き方です。逃げてください」などと呼び掛け
        続けた。津波が庁舎に迫ったため放送室を出た後、行方が分からなくなっていた。
        あの日から43日が経っていた。
        記事のタイトルは『最後まで避難を呼びかけ 不明の職員遺体発見
  2011.6.10 天国へ ウエディングソング  
        挙式控え犠牲、防災無線の職員追悼(笑顔の未希さんの写真)
        遺族、悲しみ癒えぬまま「庁舎見るのがつらい」
   2012.1.27 避難呼びかけ犠牲 宮城・南三陸町職員・遠藤さん教材に
       埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳の教材に載ることが26日、分かった。
                       埼玉県教育局によると、教材は東日本大震災を受けて同県が独自に作成。
                          公立の小中高約1250校で使われる。

  河北新報の遠藤未希さん関係の記事を拾ってみたが、「もう一人の人」の記事は
  何処にも発見できなかった。
  遠藤未希さんの記事を追いかけるなら、
  その過程の中で「もう一人の人」のことを掘り起こしてほしかった。

  大きな出来事の陰で、メディアに取り上げられず埋もれていってしまう
  事実が存在することを私たちは認識しなければならない。

  さて、「南三陸日記」に話を戻そう。
   
   
    誰のために記事を書くのか。記者の三浦英之さんは、その命題を忘れないために、
 毎朝通う場所がある。記者が拠点としている南三陸ホテルから車で10分そこそこのところにある
 南三陸町役場の防災対策庁舎(写真)だ。

 震災前、この地域は南三陸町の中でも、最も繁華かな場所だった。
 防災対策庁舎の脇には町役場もあったのだが津波に飲み込まれ、
 現在は写真のような防災対策庁舎が宮城県預かりのまま、震災遺構として残すべきかどうか
 町民の審判を待っている。
 私が訪れた昨年秋には、この一帯は「防災祈念公園」として、一般に開放されていた。
    何度も顔を合わせる人がいる。
    三浦ひろみさん(51)。危機管理課の課長補佐として、
    遠藤さんと一緒にマイクを握っていた夫の毅さん(51)は、
    今も行方が分かっていない。
   
  ……あの日、公務員の次男(20)は車の中で防災無線を聞いた。
    「非難しろ」と必死に叫ぶ父の声にうながされ、
    高台に逃げて助かった。
    声は、「ガガガ」という雑音にかき消された。

  未希さんの直接の上司危機管理課の三浦毅さんが一緒にマイクを握っていたのだ。
  震災後10年にして初めて知る三浦毅さんの存在だった。 
 
    日本経済新聞2011.3.28付記事(抜粋)

  東日本大震災で高さ十数メートルの津波に襲われた宮城県南三陸町で、最後まで住民の避難を呼びかけ続けた男性がいる。巨大な波が近づく中、町役場の放送室に一人とどまり、防災無線を通じて約1万7千人の町民に避難を促した。同町では約9千人が避難できたが、男性の行方はいまもわかっていない。男性の妻は最愛の人の手がかりを求めて避難所などを捜し歩いている。

 「6メートルの津波が予想されます。早く逃げてください」。地震直後、同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51)は後輩に変わって防災無線のマイクに向かい、声を張り上げた。

 「もう逃げろ」と同僚が袖を引っ張ったが、毅さんは「あと1回だけ」と放送室を離れず、その後見えなくなった。無事だった同僚からこの話を聞いた時、妻のひろみさんは(51)は「自分より周囲の人のことを考えるお父さんらしいな」と感じたという。

 毅さんの防災無線を通した呼びかけは大勢の町民だけでなく、同県気仙沼市で暮らす次男(20)も救った。次男はたまたま同町で仕事があり、同市まで車まで引き返す途中、毅さんの声に気づいた。海岸沿いの道から慌てて高台に向けてハンドルを切り無事だった。毅さんの防災無線の声は途中でガガガという雑音でかき消された。

 地震から2周間以上立った現在も、ひろみさんは毅さんからプレゼントされたマフラーを首に巻き、手がかりを求めて避難所や遺体安置所を毎日訪れている。ただ、夫の情報が入手できるあてはない。「お父さんの声で助かった人がいる。それだけが救いです」。裕美さんは大粒の涙をこぼしながら、小さく笑った。

  後輩(遠藤未希さん)に代わって、
  防災無線のマイクに向かって声を張り上げた危機管理課課長補佐・三浦毅さん。
  「もう逃げろ」と袖を引っ張る同僚の声に三浦毅さんは答える。
  
  「あと一回だけ」。
  避難勧告放送のあとにガガガという音が聞こえ、音は途絶えた。


 多くの報道から、こぼれ落ちてしまった事例である。
 関係者への電話取材だけで記事を書く場合も、少なくないて聞いている。
 大きな事実の前に、埋もれてしまう真実を掘り起こすことも、
 報道の大切な役割のひとつだと思う。

  『南三陸日記』で「防災対策庁舎」というタイトルで紹介された文章は、
  原稿用紙一枚400字ぐらいである。
  たった400字にも満たない文章の中に、著者の三浦さんの新聞記者としての思いが込められ、
  読む人の胸を打つ。

  防災対策庁舎で「何度も顔を合わせた人」は、毅さんの妻ひろみさんだった。
  「私にとって最高の親友であり、かけがいのない夫でした。…(略)…私はとても幸せでした」
  という、『声』を拾い「もう一人の人」の紹介は次の三行で終わる。

   まるで広島の原爆ドームのように、廃墟になった南三陸の町に建つ。
   なにを書くべきか。
   答えは「現実」が教えてくれる。 

                                       (つづく)

              (2021.5.18記)          (読書案内№174)




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2 コメント

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大津市の民生委員として訪問いたしました。 (ヨシダ ソウジ)
2021-05-19 21:52:23
大津市と南三陸と友好の絆を取り交わし数年間、少しの応援をさせて頂きました。懐かしいひと時でした。
その後、高校生の交流を大津の地で催され、参加させて頂きました。その節にはありがとうございました。
私は、大津でも、現在の守山市においてでも公園の清掃活動に携わり、ほんの少しの自主活動をさせて頂いております。皆さん頑張って、元気に過ごして下さい。私も頑張ます。共に行動と祈りを捧げております。拙いブログへの訪問に感謝いたします。
ヨシダ ソウジさま (雨あがりのペイブメント)
2021-05-21 13:50:02
 コメント、ありがとうございます。
南三陸の海は、今日も穏やかでやさいし波を立て、
10年前の出来事を忘れたかのようにたゆたっているのでしよう。
 魚がおいしく、人情味溢れる街です。
 震災のあと、復旧・復興事業は10年を経て、
やっと未来がすこしだけ見えたかな、と思える様な現状です。
 多くの社会的活動を為されて以後様子。
 今後ともよろしくお願いいたします。

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