読書案内「落花は枝に還らずとも」
② 争乱の時代を生きた会津藩士・秋月悌次郎
ブックデーター: 中村彰彦著 中央公論新社 (上 下) 2004.12初版
中公文庫あり
『落花は枝に還らず、破鏡はふたたび照らさず』
この本のテーマとなる諺(ことわざ)。落ちた花は元の枝には帰らないように、
破れた鏡もまたもとのように輝くことはない、という意味で、『覆水盆に還らず』と同じような意味。
破綻したものは再び元には戻らないという。
だから、人や家族友人などは、大切にしたいという戒めにもなる。
小説ではこの諺にひとひねりのスパイスを効かせている。
落ちた花は二度と同じ枝に花を咲かすことはできないが、次の春に咲くための種(たね)となることはできる。会津藩士・秋月悌次郎の生き方を暗示する題名だ。
会津藩の外交官秋月悌次郎からみた幕末史を丁寧に綴った歴史小説。
会津と薩摩の経緯、長州藩との軋轢、尊皇佐幕から公武合体を経て攘夷倒幕になだれてゆく政情、
累卵の京都で弱腰の十五代将軍・徳川慶喜。
孝明天皇の信頼を得ていた尊皇会津藩が幕府と朝廷の軋轢に翻弄されてゆくさまが、
当時の資料を駆使くし、丁寧に描かれていく。
戊辰戦争に敗れ斗南藩に追い立てられていく過程で、
敗者として生きた秋月悌次郎のことはあまり知られていない。
同じ幕末を描く場合、時代小説と歴史小説があり、前者は作者のイメージを膨らませ、
作者の想像力を駆使くして歴史の中で活躍した人物を描く。かくして、坂本龍馬、近藤勇、
土方歳三など時代の中で活躍した歴史上の人物が描かれるが、
それは、司馬遼太郎の坂本龍馬であり、海音寺潮五郎の近藤勇であり、
池波正太郎の土方歳三ということになる。
また、笹沢左保の木枯らし紋次郎や子母沢寛の座頭市物語のように
架空の人物を創出し活躍させる場合もある。
多くの読者を楽しませるエンターテインメント小説ともいえよう。
歴史小説は、歴史上の人物が残した資料や書簡、和歌などを駆使くし、
できるだけ史実に添った人物像を作っていく。
「落花は帰らずとも」も資料や書簡の挿入が多くなかなか話が先に進まない。
幕末から明治へかけての秋月悌次郎を中心にした群像劇である。
秋月悌次郎は会津藩校「日新館」に学び、
天保13(1842)江戸へ留学し、昌平坂学問所で学び舎長まで務め、「日本一の学生」と謳われた秀才。
安政6 (1859)年初頭秋月悌次郎に下された藩命は、「中国、四国、九州の諸藩を巡歴のうえ、制度、
風俗を仔細に視察してこれを奉ずべし」というものであった。(P70)長く昌平坂学問所の
舎長をつとめて西国諸藩の者たちにも顔の広い悌次郎を視察役に大抜擢した。
幕末の徳川政権が弱まり、攘夷運動の中で勤皇派と佐幕派が対立する京都。
世情定まらずこの一年後の1860年には水戸脱藩浪士等による「桜田門外の変」等がおこり、
幕府の威信は急速に落ちていく。
塁卵の世(不安定で危険な状態の世の中)を乗り切り、
藩を維持するために視察を放ったのは会津藩だけではない。
徳川政権が衰えつつある今、勤皇派(後に勤皇討幕派と称される)は、
京都を制し、禁裏(御所・宮中)を抑えることが時代の流れだった。
文久2(1862)年 会津藩主・松平容保は京都守護職に任命。
幕府が新設した京都守護職は、京都御所を警備し、幕府の主導権を確保し、
幕府の権威を回復するために新設された。
容保は再々の守護職辞退にもかかわらず、結果的には対立する藩論をまとめ守護職を
を拝命する。親藩中で人望があり兵力の充実した会津藩に白羽の矢が当たったのも
時代の流れなのかもしれない。
しかし、この時容保は津藩滅亡への道を歩む悲劇の藩主として後世に名を残す
ことになる。
秋月悌次郎は、会津藩が京都守護職に就任すると公用方に任命され在京各藩との
周旋に奔走。
「同年、八月十八日の政変(七卿落ち)には、藩兵を率い実質的指導者として活躍」
とあるが、これに関する政変の中で、悌次郎の名前は出てこない。
慶応元(1865)年 藩内抗争により公用方の職を解かれ、蝦夷地斜里の代官となる。
明らかに、遠地への左遷だ。
時代の流れを牽引していくように薩長同盟が成立、政局の悪化に伴い、
再び京都に呼び戻される悌次郎。
大政奉還から王政復古の大号令。鳥羽伏見の敗戦を経て、慶喜に見放された会津藩は
辛い戊辰戦争へ突入していく。
再び公用方として戻された悌次郎を待ち受けていたのは、敗戦にいたるまでの屈辱
の任務だった。逆賊という汚名をそそぐための心血を注いだ藩主容保を救うための
嘆願書を草記するが、功を奏せず、戦火は会津若松城下まで及ぶ。
官軍側の圧倒的兵力と戦備に敗戦を余儀なくされる会津藩。
開城交渉を経て、降伏式采配と苦難の道を行く悌次郎。
謹慎中の会津藩主の助命嘆願のため、奥平謙輔に会いに越後に行く、
この旅路の帰路で詠んだ詩文「北越潜行の詩」が、今の世に伝わる。
「賊徒として討たれ会津人の胸のうちを切々と詠んだ詩文であった」
と作者は記している。
北越潜行之歌
有故潜行北越帰途所得 故ありて北越に潜行し帰途得る所
行無輿兮帰無家 行くところもなく 帰る家もない
国破孤城乱雀鴉 国破れて荒れ果てた城には 雀鴉(じゃくあ=野鳥)たちが乱れ飛んでいる
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟 (略)
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠 (略)
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城 (略)
思之思之夕達晨 あれやこれやと思い惑っていると日が暮れ 朝を迎えてしまう
愁満胸臆涙沾巾 愁いは胸中に溢れて 涙がほほを伝う
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき=荒涼)として 惨澹(さんたん)として暗雲が立ち込める
何地置君又置親 藩主や親たちが安心して住める場所は どこにあるのだろう
(意訳・雨あがり)
その後の秋月悌次郎
会津藩敗走後に秋月は終身禁錮に処せられるが特赦を受けたが、
維新後に表舞台に立つことはなかった。
1882年に59歳で東京大学予備門教諭に就き、
さらに1890年には熊本の第五高等学校教諭に指名されている。
熊本五高で彼は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と出会い、
「神のような人」と賞賛されている。
会津藩は敗者となり、愚直に生きようとした会津藩士のなかで、
身を呈して時代の波を乗り切ろうとした秋月悌次郎は、忘れられていく。
一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできないけれど、
来春咲く花の種にはなれる。秋月は維新後の余生を教育に捧げ、
七十七歳のいのちを全うした。
晩年の秋月悌次郎 「北越潜行の詩」詩碑
最後の数行を作者・中村彰彦は次のように結ぶ。
その遺徳を慕う人々は、今日なお少なくない。平成二年(1990)十月には会津若松市民を中心に
三百八十万円の寄付金が集められ、旧鶴ヶ城三の丸跡に詩碑が建立されて幕末維新の逆境によ
く堪えた胤永(かずひさ)の思いを長く後世に伝えることになった。
そこに刻まれたのはいうまでもなく、
「行くに輿なく帰るに家無し/国破れて孤城雀鴉乱る」
とはじまる絶唱「北越潜行の詩」であった。
※(秋月悌次郎は 明治維新後に胤永と名のる)
エピソード 菅原文太と秋月悌次郎
七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち
「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。
一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。
もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、
荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。
すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、
これらを願い続けているだろうと思います。
恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。
菅原文太さん81歳で死去 妻・文子さんが「小さな種をまいてさりました」というコメントの全文。文太氏は2014年11月に
逝去。その時のコメント。
(読書案内№188) (2022.12.28記)
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