供養花火 定命
それぞれの思いを乗せて
夏の花火大会は、全国いたるところで開催され、夏の風物詩になっています。
私たちの同窓会は今年も「供養花火」ということで、
一足先に彼岸のかなたに旅立たれた23名の方のご冥福を願って打ち上げました。
小さな花火大会だが、ローカル色豊かな花火大会です。
家族安全祈願、商売繁盛、合格祈願、初孫誕生祝い等々花火に寄せる思いは様々です。
この「供養花火」を会の活動として提案した〇瀬〇磨が逝ってから早いもので6年の時が流れました。
後を追うように、高〇輝〇、小〇崎〇、〇瀬〇則さんが旅立ちました。
無常とはいえ、昔いっしょに学び舎を共にした仲間が減っていくのはさみしいものです。
仏教に、「定命(じょうみょう)」という考え方があります。
人には、生まれながらに与えられた命の長さがあり、
人は生まれた瞬間からこの「定命」という命の砂時計の砂を
最期の時に向かって休みなく落としていると考えられています。
こうした考え方から、「無常」(とどまることがなく、時は流れていく)という観念が生まれてきたのでしょう。
鎌倉時代の吉田兼好が
「徒然草」の中で「行く河の流れは絶えずして、もとの水にあらず」
「(好むと好まざるにかかわらず)全ては泡沫のように消えていく」と、無常観を表しました。
命の砂時計の砂ももう残りがだいぶ少なくなってきました。
「残りがあとどのくらいあるか」は誰にもわかりません。
今日かもしれないし、明日かもしれません。
命の砂の残りを気にして生きるのではなく、
明日砂が尽きても悔いの無い生き方を日々送れるよう心がけることが豊かな人生に繋がるのではないでしょうか。
※ 同窓会通信はがきより転載しました。
(2017.08.13記) (つれづれに……心もよう№66)
宗教改革を提唱したマルティン・ルッターの信念にもとずいた力強い揺るぎのない言葉です。
とてもいい言葉ですが、私たち凡人にはなかなか実行しがたい内容ですね。
「いのち」に対する不安や自分が消えてなくなることへの複雑な感情が入り混じって湧いてくるからなのでしょうか。
「寿の命」は尽きている。なんと哀しい、そして辛い現実を経験してきた人の言葉として、重く受け止めています。
「命にたいするいたわりがほしい」と、あなたは難病と長い年月闘ってこられ、この愛おしい命に、いたわりがほしいと心の内を吐露しています。
とても辛い気持ちが伝わってきます。
一生懸命生きてきて、行く末の事を考えると、「もう終わりたい」と思い至るあなたの気持ちに正直何と答えていいかわかりません。
「自然な思いです」という言葉に、あなたが頑張って来た、そして今でも頑張って生きている姿が目に浮かんでなかなかパソコンのキーを打てません。
「子供さんに対する思い」も、「もう飽きました」という言葉に、とても疲れているあなたを思うことができます。
「おかあちゃん、辛いけれども頑張って」という子どもの愛情に素直に感謝する気持ちがきっとあなたにはあるのでしょう。
「自由にいられる今の暮らしに感謝」できる気持ちが、生きる灯りに繋がっていくのではないでしょうか。
「定命」を生きるということは、沢山のしがらみを乗り越え、自然に生きていくということだと思います。与えられた環境をありのままに認めて生きる」ということでしょうか。
すこしだけでいいから、肩の力を抜いてみれば、今日を生きる力が湧いてきます。
「今日一日ハウス」という主に薬物依存症の人たちが暮らす施設があります。薬物依存のために、「生きながら死んでいく」というつらく厳しい現実を乗り越えようと必死で生きている人たちが住んでいます。
「辛い今日を生きることができれば、明日を迎えることができる」。これが「今日一日のハウス」の理念です。
神は、克服できない試練は与えないといいます。
どうか、あなた自身を、「いとしい存在」と思い、今日を生きてください。