映像のもたらす仮想現実
ドキュメント番組や報道番組
ドキュメント番組で戦争が出る。命がけで映した戦争の現場、或いは飢餓の場面が出る。それを、エア・コンのきいた部屋で、サンドイッチを食べ、コカ・コラを飲みながら見られるわけだ。 |
ドラマや映画と異なり、ドキュメンタリー番組には現実感がある。
逃げ惑う難民、砲弾で破壊され瓦礫となった街に暮らす人々。
不安と飢餓と非衛生的な生活環境が映し出される。
だが、ここまでだ。
開高 健ではないが暖かい部屋でぬくぬくと見ている。
「ひどいなぁー」と思う反面どこかに他人事いう思いが漂っていて、
今見たテレビの画面はすぐに忘却の彼方に沈んでしまう。
なにも解っちゃいないのに、
映像を見ただけで戦争の悲惨さを理解したような気になってしまう。
錯覚である。
誤解である。
リモコンのボタンを押せば、すぐに映像が飛び込んでくる。
だがこれは現実ではない。
遠く離れた平和な日本で寝ころびながら眺める映像は、
無意識なうちにどこか他人事として処理してしまう。
かつて3.11の映像をテレビで眺めたときも、
圧倒的な自然の驚異の前になすすべを亡くした被災者の姿を見て、
息を呑んだことがあったが、ここまでだ。
あの時、
遠く関東の地にあって、轟音とともに地面が揺れ動き地面に這いつくばった恐怖。
屋根のぐし瓦が崩れ落ちたのを見たときの被害者意識の方が、現実的な不安や恐怖だった。
視覚に訴える映像が、
他人事に感じられるのは、
現場の緊張感や恐怖が臨場感を伴って語感を刺激しないからだろう。
仮想現実なのだ。
映像で見た津波の恐怖よりも、
数か月後に現地を訪れたときの現実感の方が遙かに大きかった。
現場の空気が肌に突き刺さり、瓦礫の匂いが鼻孔を刺激する。
被災した人々の悲しみが空気を通じて漂ってくる。
これが現実だ。
「(テレビの映像を見て)一番悪いのは、それだけでその国の戦争がわかったような気になってしまうことだ。
何もわかっちゃいないのに、わかったという気を起こさせるのが、テレビは他のどんな媒体より激しい。」
ジャーナリストとして、身体を張って戦場を駆け巡った開高 健の重い言葉である。
(2018.3.14記) (ことの葉散歩道№37)