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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

風の行方 (25) 「仮の町構想」(9) 帰村への道険し

2013-03-02 21:34:58 | 風の行方・原発

   帰村への道険し……

 帰村宣言から1月31日で1年を迎える川内村。

空間放射線量は除染で低減しているものの、

安全で快適な故郷の生活環境には、多くの課題が残っている。

 

 不便な環境:郡山市の仮設住宅と較べ、あまりにも不便すぎる。

買い物は隣接する田村市まで30分。

「不自由なく暮らす郡山市との落差は大きい」。

 医療・教育環境:村内の医療機関は「診療所」一ヶ所のみ、

小中学校は再開されたものの、現在村では16人の小学生(震災前114人)、

中学校に14人(同55人)で、4月からの入学生は、小学生6人、中学生1人。

未来を担う子どもたちの帰村は特に少ない。

村内の高校は2011年3月で廃校になり、

近隣の町の高校は警戒区域にあり、いわき市等のサテライト校で授業を受けざるを得ない。

現在、村内から通学する高校生は1人だけだが、

新年度から高校生向けスクールバスの運行も検討していると、遠藤雄幸村長。

 道路改良事業:村民にとって生活圏だった「富岡町」や「大熊町」などは警戒区域内にあり、

いわき市や田村市への依存度が高まり、いわき市と川内村を結ぶ399号線を結ぶ国道の整備も急務。

 雇用・福祉事業:野菜工場【川内高原農産物栽培工場】(4月稼働予定)、

金属加工【菊池製作所】(東京都)の誘致。

村内初の特別養護老人ホーム(平成26年秋頃に開設)。

 

 「原発事故から全村避難、そして前例がない『帰村宣言』。

故郷をとり戻したいという一心で毎日が駆け足のように過ぎた」

 

 「震災と原発事故を機に過疎化の針が一気に何十年も進んでしまったようだ。

10年、20年先の村づくりを進めるためには、

子どもを持つ若い世代に村の魅力を再認識してもらえるよう、様々な環境を整える」

 

「除染やインフラ整備を進めながら『心の復興』にも力を入れる。

ゼロではない放射線量とどう向き合うか、最終的な判断は個々に任せざるを得ない。

そのための判断材料として村はあらゆる情報を迅速に提供する」(2013.1.31福島民報インタビュー)

 

遙かで険しい帰村への道だが、

一歩一歩、「帰村へ向けて歩んでいる確かな足音」が、私には聞こえる。

頑張れ、川内村遠藤雄幸村長、スタッフの皆さん、村民の皆さん。

「帰村宣言」にも謳われています。「自分たちの村は自分たちで守る」と。

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風の行方 (24) 「仮の町構想」(8)   帰村宣言から1年

2013-02-25 15:03:02 | 風の行方・原発

 

  帰村宣言から1年

 福島第一原発事故で一時、役場を含めて全村避難余儀なくされた福島県川内村の遠藤雄幸村長が、

「戻れる人から戻りましょう」、「自分たちの村は自分たちで守る」と「帰村宣言」をして、1月31日で一年が過ぎた。

 

 昨年10月13日には天皇皇后両陛下が川内村の除染の様子を視察。

除染をする作業員たちはマスクを装着し、

防御服を着ていたが両陛下は「付近の放射能レベルは問題はない」というご意向を示され、

防御服やマスクを着用されることはなかった。

まさに並々ならぬ決意で臨まれたご視察だった(女性セブン2012年11月1日号)。

 12月29日には、就任間もない阿部首相も訪問し、

「フロントランナーとして頑張っている川内村の成功が復興の成功につながる」(時事ドットコム12月29日)と強調、

帰還事業に全力で取り組む考えを示した。

 

 帰村宣言から1年 川内村の現状

 1月30日現在、村民2816人中424人(避難先を引き払って完全に戻った人・完全帰村者)が村に戻り、

約700人弱の半帰村者(週に4日以上を村で暮らし、避難場所と自宅の二重生活をしている人)を合計しても

帰還住民は約4割弱と少ない。

復興への第一歩はスタートしたが、復興への道のりは遠く険しい。

 帰村者のうち6割超が50代以上の中高年層が占める。

原発事故以前も過疎化が進行していた村だが、

遠藤村長は「過疎化の村が抱える少子高齢化が一気に進んだ」(福島民報1/31)と現状を語る。

 

 村が行う旧警戒区域以外の除染は、

民家の99%、農地の約70%(田んぼは90%以上)が終わり、コメ作りも今年は再開される。

除染、工場誘致による雇用の確保、道路の整備等、行政としてできることを村は率先して行い、

「帰れるから帰ろう」、「戻れる人から戻ろう」と村民の帰村を促した。

役場機能も学校も再開した

なぜ村民の「帰村」が進まないのか? (つづく)

               (参考資料:女性セブン、時事新報、福島民報、朝日新聞、読売新聞)  

 

 

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風の行方(23) 「仮の町構想」(7)  帰りたい帰れない(2)

2013-01-25 21:54:03 | 風の行方・原発

 

  自分たちの村は自分たちで守るしかない(川内村の決意)

 「原子力災害が解決された場合、帰郷するか」。

2011年5月に郡山市ビックパレットに設けられた仮役場で行われた村民アンケートの問いに

「はい」と84%が答えている。

 

 遠藤村長にとっては、「帰村」に向けての心強い村民の意識であったと思う。

3.11から3カ月弱の村民の意識は、

「望郷の念」が強く、「帰りたい」と、帰村に関して積極的な意思表示が現れていた。

 

「故郷に帰りたい」。原発事故により全村避難を強いられた村民の心情としては、自然な感情の流れだ。

 

 そして、帰村宣言(2012.1.31)からまもなく、

つまり原発事故から1年近く経ったときの村のアンケートは、

【帰る32.6%】【帰らない28.1%】【分からない34.1】と、村民の意識は三つに割れた。

 

 【帰らない、分からない】と答えた人の多くがその理由に「避難先の便利性」を上げている。

村の仮設住宅は郡山市やいわき市の中心部に近いところにあり、店や病院、娯楽施設などがすぐ近くにある。

「仮設住宅は狭いけれど、不便な故郷へ帰ることにも躊躇する」し、

このことが帰村のネックになっているようである。

 

(私は数日前、川内村役場総務課に電話で帰村の遅れている原因を質問し、担当者も同じような答えをあげた)。

 「もともと過疎化が進み、原発事故が追い打ちをかけた」とも。

 

 しかも、帰村を拒む理由はこれだけではない。

 

  国の基準をはるかに下回る放射線量で役場をはじめとする住宅地の安全は確保されたとはいえ、

川内村全体の90%を占める山林の安全性はまだであり、山林には警戒区域も残されている。

 

 「被曝の危険性を過小評価してはならないが、恐れすぎることの害も深刻である」

勇気を以て「帰村」を考えて欲しいと、

櫻井よしこ氏は、週刊ダイヤモンド・2012年3月10日号で延べているが、

放射性物質への不安は簡単にぬぐい去れない。

特に幼児を持つ若い世代にとっては深刻な問題である。  (つづく)

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風の行方(22) 「仮の町構想」(6) 帰りたい帰れない(1)

2013-01-20 21:23:56 | 風の行方・原発

 山峡の町  福島・川内村

 帰りたい帰れない

  今なお16万人を超える人たちが避難生活を続けている福島県。

  遅々として進まない復興計画。

  先の見えない避難生活は間もなく今年の3月で2年目を迎えることになり、

  人の心も疲れ、生まれ育った故郷への望郷の念も薄れていくようである。

 

  原発事故による全村避難を余儀なくされた川内村だが、

  2012年1月31日、帰村宣言がなされた。 

  「(2012年)3月24日と25日の両日で、村役場の職員60人全員が村に戻ります。

   4月1日の新年度から仕事を村で再開します。

   小中学校も保育園も保健センターも再開し、

   みんなが安心して戻れるように放射能の除染を進めます。

   みんなで使う公共施設の除染はめどがつきました。

   一般家庭は調査を進めています。雪で時間がかかっていますが、

   子どもさんのいる家庭を優先して除染します」

   「一緒に還りましょう」

   と村民に呼び掛ける遠藤雄幸村長の眼差しは優しく温かい。

 

   「帰村宣言」が出された1月末現在で川内村の線量は国の基準を下回り、安全性は確保されたと言える。

 

 

   しかし、帰村率は悪く、昨年11月08日現在完全帰村者は12.6%(361人)にとどまり、

   多くの村民は郡山市など都市機能の充実する自治体で避難生活を続けている。

 

         川内村民が避難をしている上位5自治体(2013年1月9日現在)

      ①郡山市 1356人  ②いわき市 386人  ③田村市 135人  ④小野町 67人 ⑤福島市 34人

                                                               (つづく)

                                   次回:なぜ帰村が進まないのかを述べます。

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風の行方 (21) 「仮の町構想」(5) 遠ざかる故郷

2013-01-11 22:11:44 | 風の行方・原発

   遠ざかる故郷  「帰村宣言」(福島県・川内村)

 戻れるから戻りましょう!

 村の復興に向けた福島県・川内村の「帰村宣言」です。

福島第一原子力発電所から30㎞にある川内村は、原発事故以来「全村避難」を余儀なくされていたが、

2012年1月31日、一部を除いて避難区域指定が解けて帰宅可能になった。

 

 故郷を離れ、家族や親しい人との離れ離れの避難生活からやっと解放され、

復興元年がスタートすることになったようです。

 

 「避難生活を余儀なくされている村民の皆様、

ふる里、川内村を離れ慣れない地で辛い新年を迎えられたことと思います。

2012年は復興元年と考えております。」

 

 「スタートしなければゴールもありません。

お世話になってきた多くの方々への感謝の気持ちを忘れることなく試練を乗り越えていく覚悟です。

共に凛として穏やかで安全な村を作って参りましょう。」

 

 「戻れるから戻りましょう!」

と川内村長・遠藤雄幸氏は避難先の村民に呼びかけました。

また、避難者それぞれの事情も考慮して、

「戻れる人は戻る。心配な人たちはもう少し様子を見てから戻る」と、

村民に対する眼差しはあくまでも優しく温かい。誠実である。

 生活移住区域や農地の除染、農作物の放射線量の測定、、保育園・小中学校の再開等

「戻れる」ための復興事業を進めてきた。

 

 「自分たちの村は自分たちで守る」という基本理念で復興を成し遂げたいと川内村長は村民に呼びかける。

 

「村が変わる。変わるためには誰かが変えてくれるのを待つのではなく、村民自身が立ち上がる。

村民自身が少しの勇気を持って一歩を踏み出すことではないでしょうか。

苦しんだ分だけ他人に優しく、辛い思いをした分だけ頑張れるような気がしてなりません。」

 

 村民に呼びかける村長の言葉が胸を打つ。

原発事故を恨むことも、国や県の対応を恨むでもなく、

同じ川内村で生きる村民としての想いが、

「ふる里」をかけがえのない大切なものと捉える息遣いが聞こえてくる。

 

 そして、「帰村宣言」から一年が経過した。

 村はどうなったか。

                      ( 次回は川内村の現在を述べたいと思います。)

           

 

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風の行方(20) 「仮の町構想」(4) 避難区域再編

2012-12-29 23:12:03 | 風の行方・原発

 福島第一原発が立地する大熊町は12/10、全域にかかっていた警戒区域の指定が解除され、

放射線量に応じて3区域に再編された。

 町の人口1万1千の96%が暮らす地域が「帰還困難区域」になり、今後少なくとも4年間は戻れない。

残りの人口の4%にあたる約390人が住む地域は、「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」に指定された。

しかし、町は今年9月「(全町民は)5年間帰町しない」と明記した復興計画を決定していたが、

国は難色を示している。

 

 同様に富岡、浪江町も「五年間帰還しない」宣言をしている。

福島第一原発が立地する双葉町は、今も役場が埼玉県に避難しており、

復興に関わる計画作りが大幅に遅れている。

 国の資料によれば双葉町の住民の75%が帰還困難区域、

残りのほとんどが住居制限区域、ごくわずかが避難指示解除区域の対象になる。

 町は「一部だけ避難指示を解除するのは現実的でない」として、

双葉町全区域を「帰還困難区域」に指定することを国に要望している。

 

 再編の見通しが立っていないのは、富岡、双葉、浪江、川俣の4町。

再編が決まれば、復興計画は一歩前に進み、仮の町構想も具体的に進んでいく。

 なぜ、避難区域再編計画が先に進まないのか     

                                 (つづく)

       用語解説 

  「帰還困難区域」 : 年間積算線量が50ミリシーベルトを超え、5年を経過しても年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らない

                 おそれのある地域で、5年以上の長期にわたって居住が制限される地域。(国が不動産の買い上げを検討)       

  「居住制限区域」 : 年間積算線量が20ミリシーベルトを下回るのに数年かかるとみられる地域。一時帰宅は可。年間積算量が

                              20ミリシーベルト以下であることが確認された場合、避難指示解除準備区域に移行する。

  「避難指示解除準備区域」 : 年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが確実であると確認された地域。早期帰還に向け

                       た除染、都市基盤復旧、雇用対策などを早急に行い、生活環境が整えば、順次解除される。

      ※ 各区域とも宿泊はできない。

                        

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風の行方(19) 「仮の町構想}(3) 帰還困難区域

2012-12-13 22:16:18 | 風の行方・原発

風の行方(19)  第2部(8)

 「仮の町構想」(3)  帰還困難区域

 原発事故から1年半(2012.10現在)が過ぎた現在でも

16万を超える福島県民が避難生活を送っている。

行政の核となり住民の生活全般を支える拠点となる役場が

住民とともに移転せざるを得ない。

こんな大変な事態が1年9か月も続き原発被災地の復興再生計画は一向に進まない。

 

 全町避難の続く福島県双葉、富岡、浪江、大熊の4町がこの「仮の町構想」に手を上げている。

「仮の町」は避難町村の中で唯一福島県外の埼玉県に役場毎集団移住した

双葉町井戸川町長が名付けたものである。

井戸川町長は「町民が1個所にまとまって一定期間暮らす拠点」を想定し、

「仮の町」というネーミングでその設立を政府に要求した最初の自治体である。

 

 しかし、「仮の町」というネーミングには異論がある。

「町の主体性がなくなる」(馬場浪江町長)、

「落ち着いて生活できない印象がある」(渡辺大熊町長)など否定的である。

有力受け入れ先のいわき市も、

「仮の町は避難者が将来地元に戻ったら廃墟が残る負のイメージがある」と難色を示す。

 

 「町外コミュニティー」と呼ぶのは浪江町と大熊町。

馬場浪江町長は住宅の他に、行政、商業、教育、医療機関を整備する考え。

渡辺大熊町長は県が「町外コミュニティーと言っているのでそれに合わせた」、

しかし、高齢者にはわかりにくいとの声を考慮して、「町外拠点」を併用するという。

 

 「サテライト」は遠藤富岡町長が提唱する。

移住拠点をいわき市と郡山市に分散する考えがあり、「本体は富岡町に置き、

「町外拠点としてのいわき市と郡山市の集団移住地は『衛星』と位置づけする」という考えである。

  (住む人が少なくなり取り壊される仮設住宅もある)

 いずれにしろ、1年9か月も続く避難生活から、一歩でも先へ進み、

同郷の者同士が肩を寄せ合って暮らせる場の法的整備を政府は急ぐべきだろう。

 

 「狭い仮設住宅」、「いまだに雑魚寝同然を強いられる避難所」。

 目をつぶり、「見ざる、言わざる、聞かざる」になってはいけない。

                                            (つづく)

 

 

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風の行方(18) 「仮の町構想」 (2) 新しい町

2012-12-06 15:36:01 | 風の行方・原発

  「仮の町構想」(2)  新しい町  ウクライナ市 スラブチチ

 1986年4月、史上最悪の放射能汚染事故を起こしたチェリノブイリ原発の近くにあった

「原発労働者」の町「プリピチャ」は、

前回紹介した消えた村186の村の一つである。

その代替え都市として事故の2年後にウクライナ北部に建設されたのがスラブチチ市である。

チェリノブイリ原発の北東約50㌔にあり、

人口2万6000人のうち約1万人がチェリノブイリ原発関連の仕事に従事しているという。

 だが、原発依存都市「スラブチチ」市は、産業に乏しく工場もない。

ウクライナ政府は同市を「特別経済地域」に指定し、

減税など特典を与えることで投資や企業誘致に取り組んできたが、進展は見られない。

 

 原発事故の風評被害が災いしているのだろう。

 

 ここでテーマとなっているわが国の「仮の町」とは、

すこし意味合いが異なるが、旧ソ連の事故後の対応は早かった。

事故の2年後にはスラブチチ市は建設され、

5つの学校や病院、映画館など日常生活に必要な設備も完備した。

 社会主義だった旧ソ連では、個人が土地を所有することを禁じられ、

国家権力で迅速に政治決着をつけられたという事情はある。

 

 それにしても、我が国の福島第一原発の復興計画が、

遅々として進まないのに比べ、

なんと迅速に進んだ旧ソ連の計画だったことか。

 

 福島第一原発事故から1年9カ月を経過した現在でも、

原発被災地の復興計画にはばらつきがあり、

「帰還困難区域」から避難し、

他の自治体で暮す人々の生活は復興・再生からは程遠い。

               キーワード・「仮の町構想」

                   福島第一原発事故で長期避難を強いられている住民が、

                   帰還の日まで自治体ごとにまとまって暮らすため、自治体が

                   他の自治体のなかに役場機能や病院、学校などの「町」を

                   作る構想。

                     現在の地方自治法には具体的な規定はなく、国が法整備の

                    必要性を検討している。

                      福島復興再生基本方針では、受け入れ先の自治体との間で

                    円滑に進められるよう国が支援することを明記している。

                                                           (つづく)        

 

 

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風の行方(17) 「仮の町構想」(1) 故郷を追われて

2012-11-09 20:19:41 | 風の行方・原発

原発・風の行方(17)  第二部(6)

 「仮の町構想」(1)  故郷を追われて

 福島第一原発事故が起きてから一年と八カ月が過ぎた。

見えない敵に追われるようにして、故郷を捨て、異郷の地に暮らす人々に、

「仮の町構想」の計画が検討されている。

 

 対象は福島第一原発から20㌔圏内にあり、今なお放射線量が高く、

全員避難を余儀なくされている地域で、

双葉郡富岡、大熊、双葉、浪江の4町が「仮の町構想」に前向きな姿勢を示している。

 

 これら4町は既に今後「5年間は帰還しない」という方針を打ち出している。

苦渋の選択である。

「5年間は帰還しない」という言葉に強い「意志」と「決意」が感じられる。

だが、事故を起こした原子炉の廃炉は40年かかるという、

5年で帰還出来るのかどうか。

「5年(原発事故から6年目)経ったら還れるのか」

避難住民の誰もが言葉には出さないが、

不安を隠しきれない放射性物質汚染の現実が横たわっている。

                       (写真・ASAHI SHIMBUN DIGTALより「消えた村」168の記憶)

 チェリノブイリ原発事故は、

26年経った現在でも周囲30㌔圏は立ち入り制限区域に指定され、

動植物の繁茂する人を寄せ付けない「緑の荒野」と化している。

 

 ウクライナ政府によれば、事故の影響は深刻で、

186の村が消えたという。

 チェリノブイリ市中央広場には、

「消えた村」の名が記された186本の立て札が並ぶ(写真)。

186という数字が事故のすさまじさを物語っている。

 

 原発の約2㌔手前、「コバチ村」跡。

「住民1114人が1986年5月3日に避難した」と看板が立つ。

 

 26年後の現在も避難した住民は帰れない。

 

 汚染された「緑の荒野」に人は住めない。

                                          (つづく)

    参考資料THE ASAHI SHIMBUN DIGITAL  消えた村168の記憶

 

 

 

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風の行方(16) たった一度の過酷事故

2012-10-14 22:39:05 | 風の行方・原発

人の心と科学(4)  たった一度の過酷事故

 豊かな自然の中で育まれてきた地域社会の「絆」は、

互いが助け合い、支えあうことによって成り立ってきた。

 その「絆」が、原発の「たった一度の過酷事故」で、壊滅してしまった。

 

 貧しかったが、何にも代えがたいその土地に根っこを張った文化があり、

地域共同体が生き生きと活動していた「故郷」というかけがえのない土地を、

放射物質という目に見えず、

音も匂いもしない不気味な「モンスター」が原発周辺の人々を、不安と恐怖で包んだ。

 

 国は福島第一原発から20㌔圏内にある特に放射線量の多い浪江町、双葉町、

大熊町、富岡町の全域を「警戒区域」に指定(平成24年7月31日現在)。

 

 強制退去に町は「無人の町」と化した。

町は荒れ、田畑は雑草が生い茂り、無人の家は風雨にさらされ、痛ましい。

 

 原発事故から1年半が過ぎた現在でも、

16万人を超える福島県民が避難生活を余儀なくされている。

 

 科学や技術の進歩は、失敗を教訓として次の進歩を確保してきた。

こうして、より安全で信頼できる技術が人間の文化の発展を支えてきた。

しかし、どんなに技術が進歩し安全が確保されても、人間はミスを犯す。

「事故は必ず起きる」という認識を私たちは忘れてはいけない。

 

 原発の事故は、その被害が予測できないほど甚大で、広範囲に渡る。

国家が国家として成り立たなくなるような大規模な事故が起きることだって、

十分に予測できる。

 

 チェリノブイリ原発事故では、たった原子炉1基の事故で放射性物質が飛散し、

日本全土の4割に相当する場所に避難命令が出された。

26年経った現在でも半径30㌔は無人地帯になっている。

事故により爆発し石棺で覆われた原子炉は、

放射能が高く、人間の介入を許さず、いまだに廃炉できないでいる。

 

 原発はリスクが大きすぎ、失敗の許されない科学技術である。

人間が制御できないほど危険な要素を内在する科学技術はいらない。

      写真は、黒煙を上げて爆発する福島第一原発3号機(朝日新聞)

  「人の心と科学」は今回で終了します。次回は全町民避難に関連した「仮の町」について書きます。

 

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