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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「仮面舞踏会後の決闘」ジャン・レオン・ジェローム ②名誉のための決闘は…

2019-01-27 17:30:00 | つれづれに……

「仮面舞踏会後の決闘」ジャン・レオン・ジェローム
         ② 名誉のための決闘は愚行の痕跡を残して夜明けを迎える。

   

 夜が明けかかった森。
 雪に覆われた大地。
 背景の樹々はすっかり葉を落としている。
 画面中央の靄の中おぼろに見える馬車。
 そこから左に視線を移すと人影らしきものが見える。それぞれの馬車の御者たちなのだろうか。
 寄り添うようにして、話をしているようにも見える。
 決闘の結末を案じているのだろうか。
 さらに左の端に視線を移すとここにも馬車が止まっている。

 様々な衣装をまとった男たち。
 昨夜の仮面舞踏会でどんなもめ事があったのか? 画面からは想像できない。
 「名誉のための決闘」に敗れた男の胸には鮮血が滲んでいる。
 手にはまだ剣が握られているが、
 もはや、立つこともままならないほどの痛手を負っている。
 両腕を差し込んで敗者の体を支えようとしている男。
 心配そうに傷口に手を当て、何やら語りかけている赤い衣装の男。
 両手で頭を抱えている男。「あゝ なんてことになってしまったのか」と、嘆きの表情をしている。
 白い衣装をまとった敗者は、ピエロです。
 宮廷のおどけ役のピエロが決闘に敗れ、
 今まさに命の灯を消そうとしている場面が、ピエロの哀れさを誘います。
 一切の哀しみを胸の内にしまい込み、お道化て笑いを誘い、場を盛り上げる。
 そのピエロも死ぬときには、我に還っていくのでしょうか。

 去って行く勝利者の後ろ姿にも、哀れの影が渦巻いているようです。
 肩を落としうつむき加減で支えられながら自分の馬車へと戻っていく。
 勝者のの喜びは何処にも感じられない。
 純白の雪の上に残された勝者の剣と、敗者のマント(?)が虚しい。

 勝者と敗者に漂うものは、徹夜で行われた舞踏会の倦怠と
 他愛もないもめ事から命のやり取りにまで進んでしまった、後悔の念だ。
 その愚かさが画面全体を覆っている。

 絵画って深読みすると面白いですね。
        

         閑話休題:
                                  「名誉の決闘」は、侮辱に対する名誉回復手段と解されていたようです。死ぬまで戦うとは限らなようですが、
            決闘ですから、死の危険にさらされていたのは間違いないですね。こうした決闘は20世紀初頭まで続いていた
            ようです。著名人の中にも決闘経験者がたくさんいたことを中野京子(作家・ドイツ文学者)が紹介しています。
            ドンファンといわれたカサノバ、作曲家ヘンデル、詩人バイロン、画家マネ、ドイツの宰相ビスマルク(生涯に 
            25回も決闘した党われてます)等々は怪我ですんでいるが、決闘のために命を落とした者もいる。ロシア文学者
            プーシキン、アメリカ合衆国憲法起草者ハミルトンなどが命を落としているようです。

   (つれづれに……心もよう№89)       (2019.1.27記)


「仮面舞踏会後の決闘」ジャン・レオン・ジェローム ① 不思議な感覚に囚われる

2019-01-18 17:30:00 | つれづれに……

「仮面舞踏会後の決闘」 ジャン・ レオン・ジェローム
              ① 不思議な感覚に囚われる


(仮面舞踏会後の決闘)
1857年制作 油彩 68×99㌢
 それ程大きな絵ではない。
 だが、この絵をじっと見つめていると、なぜか見えない呪縛にあったような
 不思議な感覚に囚われる。
 
 一体何があったのか?
 想像力を喚起し、
 見る者を「物語」の世界に引き込んでしまう雰囲気を醸し出している絵だ。

 宮廷で行われる華やかな仮面舞踏会。
 貴族たちが競って趣向を凝らす。
 華やかな会場で繰り広げられる「仮面舞踏会」。
 宮廷音楽たちの演奏。
 豪華な晩餐。
 だが、この異様な雰囲気の中で、仮面を被った者同士のトラブルも多かったに違いない。
 トラブルはやがて仮面の下に隠された意地の張り合いになり、
 当時はやっていた「決闘」へと発展してしまう。
 投げられた手袋を拾わなければ、卑怯者になってしまう。
 周りの者の無責任な喝采に煽られ、それぞれに立会人が付き
 意地と名誉をかけて、「命のやり取り」が行われる。

 この絵は、そうした「名誉のための決闘」の愚かしさを描いて
 見る者をとりこにするのでしょうか。
                          (つづく)
           
 次回はこの絵の物語性と鑑賞の手引き等をアップします。
 (2019.1.18記)     (つれづれに……心もよう№88)

























 

   


旅について ② 旅の記憶

2019-01-03 18:09:25 | つれづれに……

旅について ②
  旅の記憶

 
  こまかい日程を組まない。カメラを持たない。
  大きな荷物を持たない。日記を書かない。
  カメラを持つと肉眼がおろそかになってつまらないし、
  日記をつけようとするとウソや誇張ばかり書きたがる。
         
              ※ いい旅とはなんだろう 開高健

 

                ※ 開高健(1930-1989) 小説・随筆・ノンフィクション作家。
                 代表作「輝ける闇」「裸の王様」「パニック」等。1964には、
                 朝日新聞臨時特派員として戦時下のベトナムへ。
                 ベトナム共和国軍に従軍し、その時の体験を「輝ける闇」として
                 発表。
上記の文章は次のように続いている。                
 (写真に収めたり、メモに残したりしなければ忘れてしまうような旅は、)もともと見なかったことでもあり、無存在しなかったことでもあるのだ。のこったもの、自分のものになった記憶だけが「見た」と言える事物なのだから。

本来、「旅」というのは、誰かに伝えるためのものではない。
旅の途中で感動したことや、考えたことを記憶のフイルムに焼き付ける。
時間の経過とともに、多くの記憶は消えてなくなるが、
消えてなくなるような記憶なら、それはそれでいいのではないか。
脳の記憶の容量は限られているのだから、
薄れていく記憶を写真や記録をたどって再認識しても、
所詮それはバーチャルリアリティーの色あせた記憶に過ぎない。
あの日の感動が欲しければ、また、その場所に旅すればいい。
記憶は鮮やかによみがえってくる。

二十代のときの感動と五十代のときの感動は違ってくる。
それでいいのではないか。
成長とともに感性も考え方も変化していくのだから。

寺山修二は
「書を捨てよ、街へ出よう」と言った。
読書は見聞を広げ、時によっては人生の啓示を与えてくれる。
旅もまた何ものにも代えがたい貴重な時間を与えてくれる。

他人につたえようがないから貴重であり、
無益だったとしても、だからこそ貴重なのである。
若きの日に旅をせずば、老いての日に何をか語る。

 俳聖芭蕉もまた人生を旅になぞらえ、生涯を旅にささげた求道者だったのでしょう。

旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る

 芭蕉51歳。
 臨終を迎える四日前に詠んだ句である。
 芭蕉のは精神の孤独を追い、「わび」「さび」を極めようとする
 旅だったのでしょう。
 九州への旅立ちの旅中、大阪の宿で病に倒れてしまう。
 倒れた病床の中で芭蕉は、旅への憧憬を断ち切ることができず、
 夢の中に浮かんでくる枯野を駆けている孤独な自分の姿だったのでしょう。

 旅に何を求めるかは、人の置かれた立場によって違ってくる。
 楽しい旅。グルメの旅。傷心の旅。
 どんな旅でも、
 やがて、それぞれの人生の旅へと繋がっていく。

      (2019.1.3)         (つれづれに……心もよう№87)
 

 

        

 


旅について ①日常から非日常の世界へ

2018-12-30 08:30:00 | つれづれに……

旅について  ①
   日常から非日常の世界へ
 
「旅に出たい」。

 日常の閉塞感から逃れ、自分を解放したい。
 時々、そう思う時がある。

 もう、若くはないので、
 「自分探しの旅」とか、
 「新しい出会いの期待感」などを抱くことはない。

 「北」へ。
 なぜか「南」へ行きたいと思ったことはない。
 
 石川県・能登半島
 福島県・会津 東山温泉 野地温泉
 今年新しく加わった処がある。
 新潟県・津南町
 やっぱり北だ。

  何度も訪れている。
  見慣れた風景と安心感のある「いつもの宿」。
  テレビは見ない。
  食事が終われば、部屋に戻って持参した本を読む。 

 人が旅に出る理由の一つは、
 いつもの生活から解き放たれて、非日常を体験するためではないでしょうか。
                            ※ 加賀屋女将 小田真弓さん

  「旅館の椅子に座って、ご婦人の一人は海と雲をずっと眺め、もう一人はかたわらでゆっくり本を読んでいる。そういうお客様が増えてきたように感じます」と、女将は言う。
                   ※ 石川県七尾市の老舗旅館・加賀屋は
                   「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」総合1位の常連。

 
日常から逃れて、非日常の世界に身を置いてみる。
雑音を取り除いた時間の中に、身をゆだね、
何もしない。
何も考えない。
こうして、ひと時の時間を過ごす。
金銭には代えがたい貴重な時間を体験する。

一昔前までは、観光バスを仕立て大きな宴会場で、酒を飲んで騒ぐ。
「旅の恥は掻き捨て」的な旅行が多かった。
数少ない旅の経験は、日常生活から非日常世界へ身を置くことで、はめを外して、
丸裸になってしまう。
成りあがりの、さもしい心が見えてくるようで、みぐるしい。

旅についての考え方は、人によってさまざまだからその良し悪しを決めることはできないが、
人に迷惑をかける旅は避けたいものだ。
(2018.12.29記)   (つれづれに……心もよう№86)           


死顔 最後のお別れ②

2018-12-21 08:30:00 | つれづれに……

死顔  最後のお別れ②

読経が終り、焼香が始まった。
斎場の係の案内で、前の方から順に祭壇の前に案内され、
焼香がすすめられていく。

この時を「故人との最後のお別れ」と、私は理解している。
祭壇の遺影に向かって合掌し、無言の「さようなら」を呟く。
近しい人や、生前深い親交のあった人には、
在りし日の姿を思い浮かべ、
胸の中で語りかける少しの時間が欲しいのだが、
焼香の列は続き、流れに沿って歩みを進めるしかない。

型どおりの告別式が、進行し焼香が終わると、
「お別れの儀」が始まる。
棺のふたが開けられ、遺族や親族等によって「別れ花」が、
棺の中の個人に供えられる。

最後のお別れだ。

最後に斎場の係員の呼びかけで、
一般の参列者に向けて、「別れ花」を供えるよう促す案内がある。
傍観者であった一般の参列者が、棺に横たわる故人の顔を拝みながら、
「別れ花」を供える。

私はご焼香の時に、「最後の別れ」はすませてきているので、
今さら個人の顔は見たくない。
病み衰え、或いは老いて昔日の面影の残らない顔を見るに忍びない。

(だからこそ、個人の旅立ちへのはなむけとして、遺体の周りを花で埋め尽くし、
彼岸への旅立ちに、「別れ花」で飾るのかもしれない)。

生前の元気な顔を祭壇の遺影の中に求めて
「別れ花」を私は供えなかった。

肉親以外の最後のお別れは、ご焼香で行えばいい。
一般の参列者にまで、故人の顔をさらすのはいかがなものでしょう。

「死」をテーマにした小説の多い、吉村昭は小説の中で次のように述べている。

   通夜の席で遺族から死顔を見て欲しいといわれた時には、
        堪えられませんので……と言って辞退することにしている。

    おおむね病み衰えての死であり、
        その死顔を眼にするのは死者への冒涜ではないか、という思いがある。

    また、無抵抗に人の目にさらしている死顔を一方的に見るのは
    僭越だという気持ちもある。
                           ※ 花 火 吉村昭 著
   
   棺の中の死者は、多かれ少なかれ病み衰えていて、
   それを眼にするのは礼を失しているように思える。
   死者も望むことではないだろうし、
   しかし、抵抗することもできず死顔を人の眼にさらす。
 
                           ※死 顔 吉村昭 著

実際の吉村氏の「最期」は、完璧だった。
 手術の前に克明な遺書を書き、延命治療は望まない。自分の死は三日間伏せ、
 遺体はすぐに骨にするように。葬式は私(津村節子夫人)と長男長女一家のみの家族葬
 で、親戚にも死顔を見せぬよう。…(略)原稿用紙に、弔花御弔問ノ儀ハ個人ノ意志
 ニヨリ御辞退申シ上ゲマス 吉村家 と筆で書き、門に貼るようにと言い残して
 逝った。香奠はかねがねいただかぬ話をしていた。
  (遺作短編集「死」の遺作について 津村節子 より) 
 (吉村氏の死が間近であることがはっきりしてきた時)夜になって、彼はいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけてきた娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を(夫は)引き抜いてしまったのである。私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという。
 介護士が来た時、このままにしてください、と私は言い、娘は泣きながら、お母さんもういいよね、と言った。
 ………吉村が息を引き取ったのは平成十八(2006)年七月三十日の未明、二時三十八分であった。

                    吉村昭氏のご冥福を祈る。     合掌
    (2018.12.18記)   
(つれづれに……心もよう№85)                                        

 

 

 

 












                                  

    

 

 


死顔 最後のお別れ①

2018-12-18 08:30:00 | つれづれに……

 
死 顔
   最後のお別れ ①

        
         通夜の席で遺族から死顔を見て欲しいといわれた時には、
        堪えられませんので……と言って辞退することにしている。

    おおむね病み衰えての死であり、
        その死顔を眼にするのは死者への冒涜ではないか、という思いがある。

    また、無抵抗に人の目にさらしている死顔を一方的に見るのは
    僭越だという気持ちもある。

                                   ※ 花 火 吉村昭著

     棺の中の死者は、多かれ少なかれ病み衰えていて、
   それを眼にするのは礼を失しているように思える。
   死者も望むことではないだろうし、
   しかし、抵抗することもできず死顔を人の眼にさらす。

                                   ※死 顔 吉村昭著

   「死」をもって、その人の一生が終わるわけではない。
死後の世界を信じているわけではないが、
人は死んでもその人のゆかりの人々の心の内で生きている。

 余談ではあるが、心臓が止まっても、聴覚は最後まで機能しているらしい。

 「死」を迎えた瞬間から、一個の物体となるわけではない。
心臓が止まると、全ての臓器がその機能を停止していく。
血流も止まる。
臨終を宣告されてもしばらく体は温かい。
この時、聴覚だけは生きているらしい。

 すすり泣く声、死者に向かって語りかける声。
死者を取りまく声を、死者は横たえた体で、聞いている。
理解はするが、答えることはできない。
答えることはできないけれど、「こころ」は生きている。

語りかける。
思いをこめて頬を撫でる。
物言わぬ人のなみだがほほをつたってひとすじ流れる。
寝たきりで、延命措置で行かされている人でも、聴覚だけは生きているから、
感謝の言葉の代わりに、涙を一筋流す。
たった一つの意思伝達の方法だ。

死後、どのくらいの時間聴覚が機能しているのかは解らない。
徐々に声が遠ざかり、闇が深くなり、音が閉ざされる。
魂の離脱するときだ。

徐々に体が冷えてくる。
彼岸への旅立ちの時が訪れる。
…………………    
           (つづく)

        (2018.12.18記) (つれづれに……心もよう№84)

  (メモ№1351)


カール5世騎馬像 ハブスブルグ家の下あご

2018-12-08 08:39:09 | つれづれに……

カール5世騎馬像 ハブスブルグ家の下あご
(カール5世)
1548年 油彩 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作。
ミュールベルク戦でのカール5世戦勝記念の縦3㍍を超える大作である。
威風堂々の騎馬像だ。今まさに前足をあげ、顔を下に向けて跳躍しようとしている騎馬に、槍を携え、悠然と前方をみつめるカール5世。甲冑に身を固め、兜には愛馬とお揃いの赤いぼんぼり。スティール製の甲冑は日に照らされ金色に輝いている。戦勝記念にふさわしい絵だ。
しかし、この時彼は痛風と喘息が悪化して、馬に乗れる状況ではなく、勇ましい扮装はしていたけれど輿(こし)にかつがれて移動していたと、仏文学者でもあり、美術に関する著書も多い中野京子氏は述べています。鉄砲や大砲の改良により、当時すでにもう実戦では甲冑は過去の遺物であったが、権威誇示として、前より派手で高価な甲冑がつくられていたとも述べています。
話しが横道にそれました。
本題に入りましょう。

  
 騎馬像の顔を拡大して見ました。右2枚もカール5世の肖像画。
下あごがちょっと長めです。

(フェリペ2世・カール5世の息子) やはり下あごが……。


185年続いた栄光のスペイン・ハプスブルグ家の肖像画を辿ってみましょう。
 (カルロス2世)やはり下あごが しゃくれています。
スペイン・ハプスブルク家の最後の男子です。38歳で死去(1700年)。
彼には子がいなかったため、スペイン・ハプスブルク家は断絶しました。彼は心身ともに脆弱で知能も低くかったようです。

(フェリペ4世) やはり、下あごが……。カルロス2世の父です。
父王のフェリペ4世は息子カルロス2世の将来と自国の未来を憂えつつ60歳で亡くなりました。
即位したカルロス2世はこの時まだ4歳だった。そのため母親の摂政政治が行われました。
彼は10歳で字が読めず、会話も困難で、成長が遅く年齢に比べずっと小柄で、足を引きずって歩き、年々精神状態がおかしくなっていったそうです。

神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(1576~1612) オーストリア ハプスブルグ家マクシミリアン2世の王位継承者として生まれる。
やっぱり長い……

  これを下顎前突症という。
  婚姻による一族外に領土が流失することを防ぐために、
  代々近親結婚を続けて来た結果が大きな要因になっているようです。
  その結果誕生した子どもの多くが傷害を持っていたり、幼くして夭折する事態が多発した。
  特に、冒頭で紹介したカール5世以降下顎前突症の人物が多くなったといわれています。
  ちなみに、カール5世は不正咬合により食事は丸のみであったと伝えられています。
                           (この項ウィキペディアより引用)

 絵画を鑑賞していると、絵に隠された画家の思いや時代背景などが分かり、
 望外の勉強ができるときがあります。
 一族の繁栄を維持し、巨大な権力とそれに伴う莫大な富を守り、
 次世代に継承するために近親婚をつづけたハプスブルグ家の家訓はあまりにも犠牲が大きく、
 失ったものが多すぎたのではないでしょうか。
          (2018.12.7記)  (つれずれに…心もよう№83)


 参考:拙ブログ2018.2.13付 【雪中の狩人 ピーテル・ブリュゲール(父)】
        2017.11.9付 【楽園追放 禁断の木の実を食べて楽園を追放される】


 






 

 

 

 

 

 

 

 


最後のキタシロサイ なぜ絶滅した

2018-03-29 08:00:00 | つれづれに……

最後のキタシロサイ
なぜ絶滅した。
あの巨大な体が、高齢のため筋肉が衰えて立てなくなった。
大きな体の割には小さな目が、
とてもかわいらしい。
その目がケニアの大地に広がる青い空をみつめている。
雲一つない空の向こうに、彼が見ていたものは何だったのか。

       (マサイの人々とキタシロサイのオス「スーダン」)    APF PHOTO/TONY KARUMBA

罪深い人間。


 この渇いた大地の最後の種族になってしまったことに、悔し涙を流していたのか。
もう再びこの大地を風を切って走ることはできないだろう。
スーダンがそう思ったとき、太い首のあたりにかすかな痛みを感じた。
やがて心地よい痺れと痙攣が全身を覆い、サイは静かに目を閉じる。
かつて、俺たちの仲間たちはこのアフリカの大地を、
地響きをたてわがもの顔に駆けていた。
朦朧として意識の薄れていく中で、
最後の一頭になったオスのキタシロサイ・スーダンは生涯を終わった。

 朝日新聞(3/22)によると、
安楽死したオスのキタシロサイは45歳の高齢だったが、その重い体重を支えるにはあまりに歳を取りすぎていた。2頭のメスのキタシロサイが生存しているが、最後のオスがいなくなったことで、絶滅は避けられなくなった。キタシロサイはアフリカ中部に広く生息していたが、角がベトナムや中国などアジアで主に漢方薬として売られ、 密猟が横行するなどして激減した。
         (つれづれに……心もよう№78) (2018.03.28記)


始祖鳥は飛んだか

2018-03-24 08:00:00 | つれづれに……

始祖鳥は飛んだか
 中国東北部、遼寧(りょうねい)省。
 白亜紀。
 このあたり一帯では、羽毛をまとった様々な姿の「羽毛恐竜」が、
 所狭しと走り回っていた。
 この地で続々と発見された彼らの化石によって、
 恐竜と鳥の間のミッシングリンクに光が当たり、
 鳥が恐竜から進化したことが明らかになった。
        (朝日ビジュアルシリーズ 週刊地球46億年の旅 №26より引用)

  
  約1億5千万年前のジュラ紀、私たち人類が生まれる前の遥か昔の話です。

   ちなみに旧人類のネアンデルタールが出現したのが約50万~30万年前くらいです。
       そして我々現代人と同じグループの現生人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられています。
  
   話しを始祖鳥に戻します。
   嘴(くちばし)に歯を持ち、羽毛で覆われた形態は爬虫類には見られない形態だ。
   果たして彼らは空を飛ぶことができたのだろうか。
   というより私は小さい時から
      「始祖鳥」という鳥の祖先なのだから当然空を飛んでいたと思い込んでいた。
       しかし、学界では「飛べる」、「飛べない」はずっと長い間論争になっていた。

   始祖鳥について
    始祖鳥は、体長約50㌢でドイツで化石が見つかった。恐竜に似て歯を持っているが、
    恐竜とは違い羽毛や翼があった。「最古の鳥=始祖鳥」といわれていたが、飛べたかどうかは
    わかっておらず滑空程度しかできなかったのではないかという見方もある。
   
       フランスチームの論文
    始祖鳥の骨の特徴を現在の鳥の約70種類を比較検討した結果、骨の断面の多くを空洞が占め、
    当時の小型恐竜などと比べると軽量化が進んでいたことが判明。
    短い距離を羽ばたいて飛ぶグループに近いことが判明。
    (下図は研究チームが発表した想像図)
    
 (始祖鳥が羽ばたいて飛ぶ様子・想像図)

 想像の翼
    約1億5千万年前のジュラ紀という想像を超える長い時間の中で、
    絶滅した恐竜の時代を経て、哺乳類の時代が訪れ、
    20万年ぐらい前現生人類が出現した。
    長い時間の中で、絶滅した種、
    そして今、絶滅の危機にさらされている種。
    永い地球の歴史からすれば、進化の頂点に立っている人間もまた
    何時絶滅の危機にさらされるか誰にもわからない。

    他の生物には及びもしない人間の知恵が
    絶滅へのボタンを押してしまうかもしれない。
    いやいや、きっと
    人間の英知は今よりもさらに豊かな社会を創造するために
    将来に向って「成熟」の階段を登っていくだろう。

    始祖鳥のニュースを読みながらそんなことを考えた一日でした。
     
       (2018.3.23記)       (つれづれに……心もよう№77)
    

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


誰も笑わないから

2018-03-06 22:00:37 | つれづれに……

    
     誰もいない

 

 誰も笑わないから

 壁を背中にして

 一人で笑ってみる

 正面のガラスに映った顔

 笑っているはずの顔

 歪んでいる

 午後の光の中で妙にそこだけが明るい

 透明な大気の中へ吸い込まれていく私の影

 誰もいなくなった部屋の中で

 笑い声だけが漂っている

                 (2018.3.5記)      (つれづれに……心もよう№75)