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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

太宰治 情死行 ④ 入水情死行 無頼派作家太宰治の死

2021-08-08 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ④ 入水情死行 無頼派作家太宰治の死

         6月13日深夜から未明にかけて、太宰と富栄は行方をくらました。
   富栄の部屋には、線香の香りが漂い、
   部屋にはそれぞれが書いた遺書が残されていた。

   しかし、遺体はなかなか発見されず、報道が新聞各社を賑わすようになったのは、
  16日朝刊からだった。
  梅雨時の雨で、玉川上水は水かさを増し、濁流が渦をまいていた。
  このことも、遺体発見を遅くさせる要因になったのだろう。
     
  (周囲を雑草に覆われた上水を、蓑を着た人たちが長い竹竿をもって捜索をおこなっている)
  
  生前、太宰はエッセイの中で次のように書いている。
  私は殆んど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も零に近いと自覚して、
  幼少より今迄すごして来ました。ですから私はむしろ厭世主義といってもいいやうなもので、
  餘り生きることに張合ひを感じない。ただもう一刻も早くこの生活の恐怖から逃げ出したい。
  この世の中からおさらばしたいといふやうなことばかり、子供の頃から考えている質でした。
                                (「わが半生を語る」より引用
)
  このエッセイは昭和22(1947)年11月頃に書かれたもので、
  この時期は、「人間失格」の執筆がはじまる約
5カ月前に書かれたもので、
  およそ8カ月後には太宰は富栄と共に不帰の旅路に立つことになる。
  
  太宰の死への願望(と言っていいのかどうか私には解らないが)は、
  太宰の初期短編小説「葉」
にも表現されている。
  死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。
  着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着
  物であろう。夏まで生きていようと思った。
                                 (「葉」冒頭より引用)
  初期短編・第一創作集(昭和11年6月刊行)『晩年』の最初に収録されているのが「葉」である。
  創作の中の一文であるが、「正月にもらった
反物が麻地だったから、着物に仕立てて夏に着る
  ように夏まで生きていよう」。
  〈生きていくための理由がなんと単純な理由なのだろう〉と私は思った。
  太宰のように破天荒な無頼派作家を名乗る者にとって、「死」はいつでも身近にあり、
  死のうと思えば、生と死の境目にある壁を簡単に乗り越え、
  この世に未練を残さず逝ってしまう。
  生きることへの苦悩や辛さや切なさを背負い、
  これらと戦いポジティブに生きようとしないで、
  簡単に死を選んでしまう。

  いただいた
麻の反物を眺めながら、
  「夏までは生きてみよう」と簡単に「死の時期」を伸ばしてしまう。

  太宰の言動から推測すれば、富栄と出会うずっと以前から「死への願望」を持っていたようだ。
  度重なる女性遍歴と心中未遂。
  薬物依存、夜ごとの飲酒、結核による吐血で極度に衰弱していく生活環境とは別に、
  この時期、太宰の小説家としての名声は高まっていく。
   昭和22(1947)年 没落する旧家の悲劇を主題にした「斜陽」を発表。ベストセラーになり、
           作家としての地位を確固なものにし、放送、映画、
           舞台などに作品が登場するようになる。 
           この頃から太宰は不眠症と肺結核で極度に健康をそこなっていく。
        太宰の妻・島津美知子『回想の太宰治』によれば、
        「被害妄想が昂じて、むやみに人を怖れたり、住所をくらましたりする日常」
        が始まっていく。
        一方、太宰を巡る女性関係ももつれた糸のように、整理のつかない関係になっていく。
        1月 太田静子の訪問を受ける。
        2月 神奈川県下曽我に太田静子を訪ね、5日間滞在。
        3月 山崎富栄と識り合う。
        7月 小料理屋「千草」の二階に仕事部屋を移す。
        8月 病状悪化自宅にひきこもる。
        9月 この頃より仕事部屋を富栄の部屋に移す。
         11月   太田静子に女児誕生、「治子」と命名。
 
   
      富栄の部屋でしたためられた認知證。11月12日 静子の代理人(弟)に乞われ「治子」と命名する。
                            (新潮日本文学アルバム・太宰治より)
   昭和23(1948)年 
        1月 喀血。以後、身体極度に衰弱し、しばしば喀血。
        6月 13日夜半、山崎富栄と入水。
                                  (つづく)


     (つれづれに……心もよう№119)     (2021.8.14記)
  

 

  

 

 


太宰治 情死行 ③ 生活の乱れと女性遍歴

2021-07-30 06:30:00 | つれづれに……

 太宰治 情死行 ③生活の乱れと女性遍歴
  作家として世間的な名声を得た現実とは裏腹に、太宰の私生活はすさんだ生活の連続だった。
  
太宰の人生の女性問題を初めとする乱脈ぶりに驚かされる。
  年譜から抽出してみる。
       (無味乾燥な年譜ですが、どうか読み飛ばさないで眼を通し、太宰の人生をなぞって欲しい)

  大正14(1925)年 16歳 青森中学校在学 
              宮越トキが行儀見習い女中として実家・島津家に住み込む。
  大正15・昭和元(1926)年 17歳 
               芥川龍之介に心酔する一方、女中のトキに恋心を抱き苦しむ。
  
昭和2(1927)年 18歳   青森中学卒業 官立弘前高校入学 芥川自殺に衝撃を受ける。
              青森の花柳界に出入りし、芸妓・紅子と馴染になる。
  昭和4(1929)年 20歳   創作活動のかたわら紅子との逢瀬をつづける。
              カルモチンを多量に嚥下し、第一回自殺未遂事件を起こす

   昭和5(1930)年 21歳   東京帝大仏文科入学  共産党のシンパ活動に参加。
                10月 芸妓・紅子(小山初代)出奔 分家除籍を条件に結婚を認められる。
                初代は一端青森に帰る。その間に、銀座カフェーの女給田部シメ
                子と鎌倉七里ガ浜で薬物心中を計り、シメ子は絶命、自殺ほう助罪
                に問われる。
                                              12月 小山初代と仮祝言
   昭和6~7(1931~32)年   22~23歳 シンパ活動を続け官憲に追われ、頻繁に住居を変える。青森
               警察から出頭を求められ、以後非合法活動から離脱。
   昭和10
(1935)年 26歳 大学卒業は単位不足でできず、新聞社入社試験にも失敗、鎌倉山で縊死
             を図り、未遂に終わる。
             急性盲腸炎の手術後、腹膜炎を併発し鎮痛剤パビナールを射ち、習慣化
             する。
  昭和11
(1936)年 27歳  パビナール中毒治療の為入院。入院中に妻初代、姦通事件を起こす。
  昭和12(1937)年 28歳     初代の過失を知り、水上温泉でカルモチン心中を図るが未遂。
             初代と別れる。
    昭和13(1938)年 29歳   石原美知子と見合い。
    昭和14(1939)年 30歳      石原美知子と結婚(媒酌人・井伏鱒二夫妻)
 
     比較的安定した生活を続ける。だが一方で太田静子と恋愛関係に陥る(昭和16年頃)。
     太宰は神奈川県の山荘「大雄山荘」に疎開中の静子に会いに行く(昭和19年頃)。
     静子太宰の子を宿す(昭和22年冬)
 同年初夏 生まれてくる子の相談に三鷹の太宰宅
     を訪れる。
 
  昭和22(1947)年 38歳 5月24日三鷹の太宰を訪れた静子は〈山崎富栄〉と鉢合わせする。
              この日が、生きた太宰を見た最後となった。11月太田静子に女児誕生。
              9月頃より仕事部屋を富栄の部屋に移す。
 
昭和23(1948)年 39歳  1月上旬 喀血 進退極度に疲労し、しばしば喀血。
               6月13日 夜半富栄と玉川上水に入水(住まいから5~6分の処)。

          法名 文綵院大猷治通居士
(ぶんさいんたいゆうちつうこじ)
                      
綵院→文章を生業とするもの 
                    大猷治通→(作家として)道を究める。
                   『治』は太宰の本名・津島修治から採った。

  年譜の中から、あえて文学活動をカットし、太宰の生活の乱脈ぶりを表現してみた。
   30代に入って文学界で名声を得るようになり、
  特に35歳以降の活躍は目を見張るものがある。
  だが、長年の不摂生で、肉体的にボロボロになり、女性関係も行き詰まりを迎えていた。
  この太宰を献身的に、命がけで支えていたのが、山崎富栄だった。
  私は富栄の献身的な支えがなかったなら、
  太宰の命はもう少し短かったのではないかと思っている。

       太宰が選んだ仕事場近くの玉川上水は、
  偶然に選ばれた場所だったのかと書いた(②)が、
  この稿を起こしている今は、
  富栄との情死行を決行する頃は、肉体的に衰弱し、
  遠出のできない太宰は近くの玉川上水を選ばざるを得なかったのではないかと思う。
                               
                                                                                                                           (つづく)
    次回 ④ 情死行 遺体発見とその後の太宰と富栄 

  
 (つれづれに……心もよう№118)   (2021.7.29記)

 

 

 

 

 


太宰治 情死行 ② 最期の太宰治・玉川上水

2021-07-26 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ② 最期の太宰治・玉川上水
玉川上水
 前回にも触れたが私が東京近郊を走る玉川上水を歩いたのは、
 およそ2年前のことだった。玉川上水路散策が目的ではなく、
 三鷹の禅林寺にある太宰の墓を訪ねるためだった。
 禅林寺と玉川上水は近く墓参の帰りに、玉川上水に行った経緯があった。
   
  閑静な三鷹の住宅地を縫うようにして流れる上水路は、川沿いに木々が生え緑地の散歩道として
  近隣の住民の散策路でもあった。
  木陰の道を歩きながら、水かさの少ない浅い流れの水路を眺め、
  どうしてこんな浅い水路を太宰は死出の旅路の情死行に選んだのか、私は理解できなかった。
   疑問の解消は、事件当時の新聞記事を読ん時だった。


  13日の深夜、もしくは未明に太宰と愛人富栄が行方をくらまし、
  騒ぎが大きくなったのは14日の午後だった(①を参照) 。
  
新聞各社が報道したのは、16日だった。
  
             (朝日新聞 昭和23年6月16日付)
     上段中央 遺体捜索風景、その左 富栄の部屋に飾られた二人の写真(和服姿の富栄とバーのス
    タンドで足を組んでいる太宰)。 
              左二段目 捜索願に提供された富栄、その下しかめ面をした太宰。
    死出の旅路の支度をした富栄の部屋に残された写真や、遺書の一部まで朝日が掲載できたのは、
    「14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸部の部員が、新聞連載小説「グッド・バイ」の
    打ち合わせに偶然来ていて、太宰の失踪騒ぎに遭遇した」(①参照)からだと思う。

    作為のない嘘
     記事のサブタイトルに「梶原悌子氏によれば、14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸
     
部の部員が新聞連載小説「グッド・バイ」の打ち合わせに偶然来ていて、
     太宰の失踪騒ぎに遭遇した、
」、とあるがこういう記事の書き方は誤解を招くもとにな
     る。いかにも太宰が「書けなくなった」と遺書を残したように読者は解釈するだろう。
     だが、記事の全文を読んでみると、記事の最後に、絶筆「グッドバイ」という小見出しがあり、
     ドンファンの主人公・田島が妻あての遺書の中で、
     「小説が書けなくなった。人の知らぬところに行ってしまいたい」と書く場面があり、
     太宰が自分の遺書として書いたわけではない。
     また、太宰の遺書の中には具体的な情死行の理由も見当たらない。
     もうひとつ、記事の大見出しには『太宰治氏情死』とある。
     16日発行の新聞だから、記事内容は15日の締め切り時間前の出来事を記載した
     ものであるが、遺書が発見され、捜索願が出されたにせよ、15日の時点で「太
     宰治氏情死」というタイトルはいかがなものだろう。
     人の生死にかかわることであり、道行きの女性がいたと思われる状況で、
     断定的なタイトルは性急に過ぎる。
     三鷹署が入水自殺と断定したのは16日。
     状況証拠のみで断定記事を書くことの危険性を、私たちは過去の報道から容易に抽
     出することができる。
     読者が読んで誤解するような記事は許されない。このような記事を「作為のない嘘」という。
     週刊誌などがしばしば使う「常套手段」だ。

    話を本題に戻します。
                   私が玉川上水を訪れた時に抱いた疑問を、ノンフィクション作家・梶原悌子も
     次のように述べている。
     『いま玉川上水は雑草に覆われ、その流れはわずかでしかない。
     二人を呑み込んで多数の人々による捜索が五日間も続けられたとは想像もできない』
     当時の玉川上水の状態を新聞記事から抽出してみよう。

     『二人が入水したとみられる現場は、川幅はせまいがひどい急流で深いところは一丈五尺もあ
     り、落ちると死体も上がらぬ魔の淵』(読売)

     『(玉川上水は水深二メートル幅十二メートルの急流で、川壁に洞穴が無数にあり死体発見は
                  相当困難なものとみられる)』(毎日)

    十六日には三鷹署も二人が上水に入水自殺したものと断定し、捜査のために浄水場水門をしめ、減
    水してくれるように水道局に依頼したほどだったが、朝から雨は激しく降り続き、水は濁って捜索
    は難航した。

    また、作家・野原一夫氏は
     『回想・太宰治』の著書の中で捜索の日のことを次のように述べている
   『「この川は人喰い川というんだ、入ったらさいご、もう死体は絶対に揚がらないんだ」と
    太宰さんは散歩の途中、上水の流れを見ながら言っていた。「川のなかが、両側に大きく
    えぐれていてね、死体はそのなかに引き込まれてしまう、おまけに水底には大木の切り株
    なんかがごろごろしていてそれに引っかかる」』
    この散歩がいつの頃の出来事なのかわからないが、回想が本当だとすれば太宰の死への願
    望が如実にわかる一文であり、太宰は偶然にもこの上水を死での旅路に場所に選んだこと
    になる。
     はたして、偶然に選ばれた「死に場所」だったのだろうか。
    二度にわたる心中未遂事件を経て、三度目の富栄との情死行で、
    太宰は玉川上水の水底に沈んだ。
    作家として世間的な名声を得た現実とは裏腹に、太宰の私生活はすさんだ生活の連続だった。
                                       (つづく)
       次回 太宰治 情死行 ③ 最期の願い
       (つれづれに……心もよう№117)            (2021.7.25記)
 
 


太宰治 情死行 ① 桜桃忌に寄せて

2021-07-08 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ① 桜桃忌に寄せて 

 死に急いだ無頼派作家 太宰治
    
           写真1                    写真2
      (写真1)  昭和21年秋、東京銀座のバー・ルパンにて  (撮影・林忠彦) 
      (写真2)
 昭和23年4月、三鷹の自宅にて。左より長女園子、太宰、次女里子。                                   
             太宰の多くの写真が、神経質で太宰の苦悩が表情に現れているような写真で
     私は好きになれなかった。
     この二枚は例外的な写真だ。
     新潮日本文学アルバムに掲載された写真で、
     私が好きな写真である(見つけるのに苦労した二枚である)。
     
                      小説家水上勉はエッセイ『苦悩の年鑑』で二枚の写真について次のように書いている。
      酒房ルパンでの、太宰さんの屈託のない明るいお顔を拝見していると、それから一年半た
      って、太宰さんにあんな死が訪れようとは、誰も思っていまい。ルパンの写真には、まっ
      たく、その後一年半の無茶苦茶な酒びたりの修羅は想像できないのである。(…略…)
      縁先ににわとり二羽を入れた金網の四角い鶏舎があって、六歳の園子さんがおかっぱで立
      ち、太宰さんはいっさいの里子さんを抱いて、園子さんの方を向いて笑っておられる。二
      十三年四月とあるから、亡くなる二カ月半前だろう。
      エッセイの最後は再びこの二枚の写真に触れて次のように結んでいる。
      ルパンの木椅子にあぐらをかいておられる写真と、二羽のにわとりの入った金あみ籠のあ
      る縁先で、ふたりのお嬢さんと笑顔でしゃがむ太宰さんの写真を見ていると、太宰さんの
      つかのまの平穏と安息が想像されて、眼がうるむ思いのするの私だけではあるまい。


 昨年も雨だった「桜桃忌」。
 今日6月19日は「桜桃忌」。
 梅雨のさなかの年に一度の「桜桃忌」は雨に降られる日が多いとか。

桜桃忌と誕生祭
 
 
1948年のこの日、6月13日に自殺した作家・太宰治の遺体が発見された。
  13日に失踪した日も、遺体が発見された日も雨が降っていて、
  玉川上水は水かさを増し、水流は激しく濁流となって流れていた。

  6月13日、太宰治が戦争未亡人の愛人・山崎富栄と玉川上水に入水心中し、
 6日後の19日に遺体が発見された。
 また、19日が太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、
 三鷹市の禅林寺で供養が行われる。
 その名前は桜桃(サクランボ)の時期であることと晩年の作品『桜桃』に由来している。

  太宰治の出身地・青森県金木町では、
 生誕90周年となる1999年から「生誕祭」に名称を改めた。
 親族にとって太宰の情死は「痛ましい事件」であり、
 6月19日を遺体発見に由来する「桜桃忌」として偲ぶよりも、
 同じこの日を「太宰が生まれた日」として在りし日の太宰を偲びたい、
 という思いが親族にあったのではないか。


     6月13日の午後、二人は太宰が仕事部屋にしていた小料理屋「千草」の2階の6畳間から、
    筋向いにある山崎富栄の下宿先に移る。
 遺書をしたため、死出の旅支度を終わったのはその日の深夜だった。
 太宰は愛人山崎富栄と共に、二人の住まいから5分ほどの玉川上水に身を投げる。

 梶原悌子の記録文学『玉川上水情死行』から引用します。
 太宰と富栄の家出を最初に知ったのは野川アヤノであった。
 アヤノは富栄が部屋を借りていた家主で、
 14日の昼近くなっても富栄が起きてこないのを不審に思った。
 二カ所の雨戸も閉じられたままだった。
 声を掛けても返事がないので二階に上がり部屋の戸を開けると、
 整理された室内には線香の匂いがこもっていた。
  部屋の隅にある本棚の上に和服姿の富栄の写真と、
 バーのスタンドで足を組んだ太宰の写真が並べられていた。
 驚いたアヤノは筋向いの小料理屋「千草」に走り、店の女主人増田静江に様子を伝えた。

 
 発見された二通の遺書は、太宰の妻あての封書と、
 二人連名の小料理店「千草」宛の便せんだった。

 翌朝15日は朝日新聞だけが「太宰氏家出か」と第一報を奉じた。
 なぜ、朝日新聞のスクープ(?)なのか。
 梶原悌子氏によれば、14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸部の部員が
 新聞連載小説「グッド・バイ」の打ち合わせに偶然来ていて、太宰の失踪騒ぎに遭遇した、とある。
 しかし、この時点で太宰自殺を報じるには、遺書という状況証拠があるのみで確証に乏しい。
 当時、すでに売れっ子作家だった太宰を14日時点で、
 「自殺」「心中」という内容で報じるにはあまりにセンセーショナルな出来事だった。
 記事はたった15行ほどで、「…家出か」と、憶測記事にせざるを得なかった。
 しかも同行者と思われる女性の名前を山崎晴子と間違えている。
 15日朝刊の締め切り間際だったのか、いずれにしても偶然に立ち会えた太宰氏失踪に、
 新聞社側の動揺ぶりが推測されます。
 朝日新聞1948年6月15日朝刊の記事
    北多摩郡三鷹
   町下連雀一三作
   家太宰治氏(本名
   津島修二(四〇)は
   十三日夜同町内の
   山崎晴子さん(三
   〇)方に美知子夫
   人と友人にあてた
   遺書らしいものを
   残して晴子さんと
   二人で行方をくら
   ませていることが
   十四日わかり、同
   日夫人が三鷹署へ
   捜索願いを出した。(梶原悌子著 玉川上水情死行より引用)

     記事は15行というので、再現してみた。(実際の記事は縦書き)

 当時の玉川上水は現在とは違い、水かさもあり、水深も深かった。
2年ぐらい前に私が訪れた時、水勢は弱く、浅瀬を流れる水を眺めながら
太宰はなぜこんなところに身を投げたのかと不思議に思った。

 玉川上水は江戸の人口増加に伴い、多摩川から江戸に水を供給するための上水路で、
多摩川羽村市取水口から四谷まで高低差92.3メートル、
全長43㎞に及ぶ距離を1年で完成したというから、
近辺住民の労力負担を思うと、大変な事業だった。
新聞記事によると、
当時の玉川上水路は水深2メートル、幅2メートルの急流だった、とある。
昭和40(1965)年に利根川の水が東京に引かれると、
その役割も終わり、現在の流れになったようです。

 二人を呑み込んだ急流で、五日間も大勢の人々が捜索に関わったことなど、
現在の流れからは想像できません。濁り水が流れ梅雨時の玉川上水は水量が増し、
捜査は難航し、遺体発見は19日を待たなければならなかった。
                                (つづく)
  
(次回はシリーズ「三陸日記」⑦「新しい命」をアップします)


    (2021.7.7記)               (つれづれに……心もよう№116)

 

 

 


 


江戸の感染症 ② 感染症対策

2021-04-03 06:30:00 | つれづれに……

江戸の感染症 ② 感染症対策
  前回でも触れたが、鎖国政策をとっていた江戸幕府。
 長崎・出島を通じて当時の先進国・ポルトガル、オランダ、イギリス、中国の船が、文明とともに
 インフルエンザやコレラが侵入してきた。
 当時の医療技術はウイルスによる感染症に成す術を持たなかった。
 感染症の特効薬やワクチンもなかった時代の不安と恐れは、
   前回に紹介した絵が如実に語っている。
 感染を防ぐ唯一の方法は江戸時代も現代も「人との接触を避ける」ことだった。
 既にこの時代には、
 感染者の隔離や接触の制限などの対応は存在したようである。
 人が集まる銭湯、髪結い床、芝居小屋、遊郭などでは、
 人が来なくなり商売が成り立たなくなる。
    現代のような「時短」「営業自粛」などの要請はなかったが、
 景気は悪化し、経済活動は停滞し、
 その日暮らしの多い人たちはたちまち生活困窮に陥ってしまう。

 コロナ禍と同じ状況が、江戸の街を不安と焦燥が襲っていた。

       

(図1)                                                                 (図2)
   
 図1
  【麻疹流行年数・一松斎芳宗 1862(文久2)年】(国会図書館デジタルコレクション蔵) 
  右上に麻疹流行の年が列挙してある。(平均20~30年に一回の流行)
    1650(慶安3)年
    1690(元禄3)年
    1730(享保15)年
    1753(宝暦3)年
    1776(安永5)年
    1803(享和3)年
            1824(文政7)年
               1862(文久2)年
  ワクチンもなく医療技術も低く、成す術もなく神に祈る人たちが描かれている。
 
 図2 歌川芳員画 幕末の浮世絵【諸神の加護によりて良薬、悪病を退治す】都立中央図書館蔵
    画面左下 やっつけられて悲鳴を上げているのは、疫病たち。退治している武装集団は
    海外から輸入された西洋医学による薬たち。瑞雲に乗った集団はお稲荷さんや神田大明
    神など庶民たちの神々が疫病退治を応援している。幕末に書かれた絵ですが、ここでは
    怪しげな民間療法の記述は姿を消し、薬が登場しているところに時代の息吹を感じま
              す。
    
   『御救金の支給』
 生活の基盤を失い、生活苦に陥った江戸庶民を対象に『御救金』を支給した。
 これは、感染の有無にかかわらず困窮者を対象に一律に支給された。
 無差別で一律10万円というばらまき人気取り支給ではない。
 
 現代の制度の『持続化給付金』が最も近いが、
 その財源は政府の補正予算と予備費でまかなわれた。
 一方『御救金』の財源は江戸の町会所(まちかいじょ)という一種の共同蓄積制度だった。
 寛政年間(1789年以降)にはこの町会所という一種の自治制度に近いものが制度化された。
 
 町人たちの積立金ををもって運営された自治組織で、
 現代に例えると自助でも公助でもない「共助」のシステムだった。
 町人からの積立金を預かるとともに、感染症流行時には給付金支給
 の窓口になったのが町会所だった。また積立金の一部を貸し付けに
 回すことで利殖をはかり、積立金の増資にも寄与している。
 積立金を資本に大量の米を買い入れて備蓄米とし、飢饉、火災、水
 害時には、御救米(おすくいまい)として町人に支給した。町会所は江戸
 災害時の食糧危機を未然に防ぐ役割も果たしていいた。
(歴史家・安藤優一郎氏) 

 『御
救金』の実践

   1802(享和2)年、町会所が感染症(インフルエンザ)流行を理由に御救金をした最初の年である。
   この年の3月、長崎から感染が始まり、感染の拡大は江戸へ。
   感染の流行に伴って生活困窮に陥る者が増加し、社会不安が波紋のように広がる。
   町奉行所は感染の有無に関係なく「御救金」を支給する。
   町人人口約50万人の内半数越えの28万8441人を対象に、
        独身者 …… …… ……  銭300文
        二人暮らし以上の家庭 …… 一人当たり銭250文と
   対象は「その日稼ぎの者」で、棒手振(ぼてふり)など、その日暮らしの日銭を稼ぐ、
   貧しい物売りや職人などが対象となる。稼ぎの少ない人々にとって感染症の流行はすぐに
   生活困窮に繋がる。
   八百八町と称された江戸の町には260程の役場があり、
   各町に置かれた名主によって自治運営されていた。
   各町の行政事務は町奉行所から名主に委託されたため、町役人とも呼ばれた。
   名主は小さな自治体の首長のような役割を持ち、名主の家が役場のような役割を担っていた。
   対象者のリストアップは、
   町奉行所の依頼を受けた町会所を治める町役人の行政事務となる。
   250文~300文の「御救金」は、現在の3000円~5000円ぐらいになるそうです。
   生活困窮者一人に対する給付金ですから、そこそこの給付だったのでしょう。
   狙いは感染症対策というよりも、
   社会の安定を計り、人心の不安を和らげるカンフル剤としての役割であったようです。

   十数年前の天明の飢饉で餓死者など多くの犠牲を出し、生活困窮に陥った人々が米屋や
   商家を襲い、数日間江戸の町は無政府状態に陥ったといわれています。
   当時の老中・田沼意次はその責任を問われ失脚を余儀なくされました。
   同じ轍(わだち)を踏まないように「御救金」で、生活困窮者へのカンフル剤としたようです。

 
 迅速な対応は小さな政府(自治組織)ゆえの対応か
   現代の場合は行政の執行は、閣議を経て国会の承認を得て決定し
   執行というのが一般の段取りで、
   政府の暴走を避けるためには仕方のないシステムなのでしょう。

   さて、上記の享和2年の『御救金』の場合はどうであったか。
   名主が奉行所から該当者の調査を命じられたのが三月十七日、
   早くも翌日の十八日には、「その日稼ぎの者」のリストアップは終了し、
   町会所は対象者に『御救金』の給付を始めている。
   十二日後の二十九日には給付が完了する。
   一日当たり二万人以上に給付した計算になる。

   次の事例は、約20年後の文政4年(1821)のインフルエンザの流行の時である。
   やはり、経済が低迷し困窮者が続出し、社会不安が増大した。
   一人当たりの給付金は前回と同じで、対応の早さが際立っている。
   「その日稼ぎの者」は29万6987人で前回より8千人多かったが、この時は
   わずか7日間で給付が完了している。
   一日平均42,
426人になる。
   これを260の名主の役場で担当するとなると、
   一人の名主で1日約163人に支給することになる。
   対応可能な人数です。
   このような迅速な対応は、
   細分化された自治組織が有効に機能したことを物語っている。
   組織は次のような仕組みになっている。
   町奉行所→町会所・名主(首長)→役場
   役場には町代(ちょうだい)・書役(かきやく)という現代の行政官のような者がいて、
   煩雑な行政事務を担当していた。
   人別改めといった戸籍事務も含まれ、
   町人たちの生活実態はよく把握されていたようだ。

   『御救金』、『御救米』という迅速な対応が江戸の町の人々を、
   社会の混乱から救ったことは間違いない。

   緊急一時宣言が解除されたとはいえ、コロナ感染が沈静化したわけではなく、
   むしろ増加の傾向も窺われ、第四波到来と警鐘さえ鳴らされている。
   政府が頑張り、医療従事者が瀬戸際で頑張ってもコロナ禍は収束しない。
   生まれ育った故郷を大切にする気持ちがなければ、コロナ感染を他人事と考えずに
   自分のこととして捉えなければ感染は収束しない。
   緊急一時宣言が解除されても、全てのタガがはずされたわけではない。
   段階的緩和期間を経て、感染者の統計上の数字が減少し、
   安全が確認されなければ、再拡大の危険性を増大させることを、
   一人ひとりが自覚しなければならない。
   
   政府分科会の指標は「必要な対策は、ステージ2以下」だと、その目安を示しているが、
   感染拡大は、増加傾向にある。
   
   桜の花が満開を迎えた。花見の自粛を政府や自治体が求めても、
   上野の山は花見客で混雑。聖火のリレー会場も人の群れが三密の要請を
   絵空事にしてしまう。

   友人が言った。
   「大都市は故郷を捨てたよそ者の集まりだから、こういう処をコロナ族のウイルスは好んで
   潜むのだよ。竹馬の友が存在しない集まりだから、意志の決定がなかなか取れないのだ。
   俺一人ぐらいは……と思う人の集団がいる街なんだな」と。
   当たらずとも遠からずの言葉に、なんだかうすら寒い風が吹いたような気がして
   マスクを掛け直した。

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   3月30日 コロナ再拡大鮮明。新規感染者 全国で増加。
          まん延防止措置 大阪府(政府に)要請へ。
                   夜の人出 3割増し 週末 大阪・名古屋・福岡も増加傾向。
                      (朝日新聞・一面トップ記事)
     3月31日 昨日と打って変わってコロナニュースの記事が少なく、
         関連記事でお茶を濁している。(まん延防止措置の政府対応を待っているのか)
         〇 厚労省23人 深夜まで会食 時短営業要請中 課長更迭へ。
           (野党は待ってましたとばかりに菅総理を責めるが、総理が謝罪してどうなるの。
          国政を預かる議員や官僚の皆さんに緊張感が欠如しているんだよ)
         〇 長野・聖火リレー一部無観客
           到着式典、善光寺近くの沿道を無観客に。(到着式典の無観客は初めて)
         〇 宅急便が急増 20年度 3社最多見込む。
              (「風が吹けば、桶屋が儲かる」コロナ禍のもと営業活動のままならない業種が
          悲鳴を上げている。「巣ごもり需要」で思わぬ好成績を更新する企業もある)
           〇 パルスキオシメーター(血液中の酸素飽和度を測る機器) 生産力20倍に。
           コロナで品薄、他のメーカーも増産体制に入った。当面、医療機関や自治体への
          供給を優先。
                                        (朝日新聞)
    4月1日 〇 まん延防止 大阪に適用へ。政府今日にも決定。(一面トップ)
            「まん防」は2月に施行された改正特別措置法で新設され、適用は初めて。
            緊急事態宣言を防ぐため、私権制限を可能とし、感染を抑えるための仕組み。
            「ステージ3(感染急増)」相当であることが要件。
         〇 関西解除1カ月で 急拡大「第4波」に危機感。官邸、慎重姿勢を一転
         〇 厚労省集計 異変株感染者1200人に 専門家「今後も拡大予想」
         〇 厚労省の大会食 誰も止めず
              午後9時以降も注文■マスクはずしたまま
           〇 鳥取県職員8人 送別会で感染
           ほとんどマスクをせず、カラオケで大声を発していた。
           (厚労省も鳥取県職員も、自分たちを何ものだと思っているんだ。
           私の友人がボソリと言った。「あいつ等、成り上がり者の馬鹿殿が、
           自分たちは天上人だと思っているんだよ。だから、何をしてもいいんだとうぬ
                                     ぼれているんだ。公僕という自覚がないんだな
」。
           相変わらず歯に衣着せぬ発言だが、
           異を唱える理由もなく私は黙ってうなずいた。 
    4月2日 〇 大阪・兵庫・宮城 まん延防止 5日からの31日間 (一面トップ) 
            「まん防」の初適用で、4月5日から大型連休の終わる5月5日までの31日間。
                                     諮問分科会の尾身茂会長は、高齢者へのワクチン接種が順調に進むことを
           前提に「この6月までが正念場」と訴える。
             施行者や関係者の思いがなかなか正確に伝わらずに、望むような結果が出せず
          に野党との間にギクシャクした関係が続く。言葉が足りない、不適切な言葉を
          使用しひんしゅくを買う場合もしばしばあり、コロナ禍で疲れ切った流れが
          政府や民衆の間に流れている。湿った火薬が徐々に燃えてきて、場揮発寸前にあ
          るような危険な状態を感じる。
        〇 大阪市聖火リレー中止へ調整(一面)
          苦渋の発言・大阪吉村知事。「大阪市内に不要不急の外出自粛をお願いすること
          になる。大阪市内の聖火リレーは中止すべきだ」。
          府内18市町村を走る聖火リレーの中止は、施政のリーダーとしては当然の判断
          だ。
             〇 「まん延防止」手探り。(2面
)
          中心となる対策は、飲食店などへの罰則付きの営業時間の短縮命令。だが、
          すでに時短営業なっている地域も多く、これで感染拡大を抑え込めるのか
          不安の声も聞こえる。     
                                      
(朝日新聞)                                   

        30日からのコロナの報道を、追いかけてみました。
       見えてきたのは、打つ手の無くなった政府と混迷する社会不安。
       勇気と決断をもって対処しなければ、コロナに負けてしまう。
       一般民衆もまた感染拡大を甘く見すぎていたのではないか。
       感染拡大の責任を政府に押し付けるのは虫が良すぎる。
       政府と社会の構成員の責任はヒフティヒフティなのだ。

                                       (おわり)
       (つれづれに…心もよう№113)        (2021.4.2記)


江戸の感染症 ① 感染症に魑魅魍魎を見る

2021-03-26 06:30:00 | つれづれに……

江戸の感染症 ①感染症に魑魅魍魎(ちみもうりょう)をみる
                     
                           ※ 魑魅魍魎 = 人に害を与える化け物の総称。
                             また、私欲のために悪だくみをする者のたとえ。
                             「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。
                             「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。
                                 (三省堂 新明解四字熟語辞典より)

  『人類と感染症』
   緊急事態宣言が21日で全面解除になる。
 東京、神奈川、埼玉、千葉の4都道府県への宣言は2度の延長を経て、
 2カ月半で終了することになる。
 リバウンドが懸念される中の宣言解除だから、解除後も自粛しながら、
 当面は感染の状況を把握しながら日常生活を続けることが肝要と思う。

   人類の歴史は、戦争と感染症の歴史でもある。
 戦争は科学技術を飛躍的に向上させ、
 船も、飛行機も、兵器類のすべてを進化させた。
 究極の発明は、火薬の爆発力を飛躍的に発展させ、原爆を発明したことだろう。
 同じように、感染症も医術に携わる人たちのたゆまぬ努力と研究があり、
 医術の進歩もまた感染症の暗闇の中から一条の光を見出すような人類愛と、
 時によっては自己犠牲と危険な人体実験の末に
 ウイルスや細菌の感染症の蔓延から、人類絶滅の危機を救ってきた。

   『感染再拡大の危険に立たされている』
 ウイルスは心地よい宿主を探し、寄生し仲間を増殖していく。
 宿主に憑(と)りついたウイルスは、憑りついた宿主の生命を奪い、
 次から次へと新しい宿主に憑りついていく。
 やがて同種のウイルスが蔓延し、何度か感染の再拡大を経て宿主に耐性ができてくるころには、
 ウイルスは変容し変異株として、宿主を侵食しはじめる。
 感染再拡大(リバウンド)が始まり、
 コロナ禍の蔓延する中、私たちは今、緊急事態宣言が解除されたとはいえ、
 感染症の対応を誤ってしまえば、取り返しのつかない瀬戸際に立たされている。

 『百万都市・江戸の感染症』
   百万都市といわれる江戸時代にも、人々の生命を脅かし、
   社会の混乱を引き起こした感染症が何度も発生した。

 コロリ退治の絵「虎列刺退治」1886年 (図1)         『麻疹退治』落合芳幾 画 1862年(図2)                   
   

  図1・1886(明治19)年の図ですが、
    江戸時代のコロリ退治のイメージをよく捉えているので掲載しました。
    1862年(文久2年)に麻疹とともに大流行し、
    全国で56万人もの患者を出したといわれている伝染病がコレラ。
    
「コロリ」と呼ばれ、「虎烈刺」「虎列拉」「虎列刺」などの漢字が当てられました
    貌は虎、胴体は狐、狸の大きなオチンチンに潰されている感染者が哀れ。
    明治の中頃になると感染症対策として消毒という概念が生まれていたのでしょう。
    戦(いくさ)姿の人がコロリ退治をしている、これは当時の風刺画なのでしょう。
    なぜ、「虎」なのか。
    急激な症状の悪化と、感染の早さが1
日に千里を走るとされた虎を連想させるからだそうです。
    当時の医学技術では、原因不明の病で、コロリと死んでしまう怖ろしい病のイメージが強く、
    「妖怪【虎狼狸(コロリ)】の仕業に違いない」という話も流布されたようです。
  図2・1862(文久2)年
        麻疹(はしか)流行によって被害にあった風呂屋などの職業の人々が麻疹神を退治しているところ。
    上部にはしかによい食べ物と悪い食べ物や行動が列挙されています。
    入浴ははしかに禁物だったようです。

    
天然痘・麻疹(はしか)・インフルエンザ・コレラなど、過密都市ゆえに、疫学の未発達の時代に
    感染症が発生すれば、人々は得体のしれない「魔性」の勢にして、不安を増幅させていったよう
    だ。
      図3 麻疹送出し之図   図4『項痢(コロリ)流行記』 

                             

    図3 中央にいるのは麻疹を擬神化した「麻疹神」。全身に赤い発疹が見える。
        水飴や汁粉など麻疹に良いとされた食べ物たちが麻疹神を桟俵にのせて
      “神送り”しているところ。この時に流行したのが「はしか絵」と呼ばれるもので、
       お守りのような役目があったようだ。おそらく、
      家の中の目立つ場所に貼って注意を喚起したのだろう。
      感染しても軽くすむおまじないや、
      予防・心得、食べて良いもの悪いものなどが書いてある。
      ただし、医学的に実証されたものではなく、
      伝聞や巷で囁かれている民間療法的な情報を載せているものがほとんどのようだ。
      【落合芳幾 画 1862(文久2)年)】
 

    図4 コレラの大流行で
死者が続出し、あまりの数に大混乱する江戸の火葬場のようす。
        1858年(安政5年)の『項痢(コロリ)流行記』(仮名垣魯文 著)の口絵に描かれた。
        棺桶が積み重なっている。
                1822(文政5)年にはコロナの発生が記録に残されています。
        おそらく、長崎・出島に出入りするオランダやポルトガル船が感染源となるのでしょう。

                        この頃、外国船が頻繁に訪れ(漂流、密輸、水や薪などを補給)、幕府は度重なる異国船の
        侵入に「異国船打払令(1825年)」などを出し、外国船の侵入に神経をとがらせていた。
        シーボルト事件(1828年)も、外国に対する警戒の要因となっただろう。

       唯一外に向けて開かれていた長崎・出島は当時の先進国であるポルトガル、オランダ、イ
       ギリス、中国船などの異国文化の香りのする貿易港であったが、感染症のウイルスも
       人や物を媒体として侵入してきた。

       
コロリが日本にはじめて入ってきたのは1822年(文政5年)だそうです。
       それから6年後の1858年(安政5年)にコロリが発生したときには3年にもわたり西日本を
       中心に大流行、ついに箱根を超えて江戸の町でも猛威をふるい数万人を超す死者が出たと
       いわれていますが、文献によっては箱根を超えなかったともいわれている。

       人々の命や生活を脅かし、社会崩壊をも起こしかねない感染症は、
       何度も江戸の街を襲ったが、その対策はどうであったのかを次回述べてみたい。

     (つれづれに……心もよう№112)      (2021.03.23記)

 

  

 


    

 


  

 


新年のあいさつ 子どもたちの未来へ

2021-01-03 06:30:00 | つれづれに……

新年のあいさつ
 子どもたちの未来へ
 
  穏やかな朝が、
  筑波連邦の峰からゆっくり登る初日に象徴されるような、
  安心して住める社会でありますようにと思う元旦でした。

 経済活動を続けるにあたり、
 無駄をなくし能率を追求するのは大切な要因である。
 私たちはそうして便利さを追求してきた。

 より早く、より遠くまで走る新幹線。
 より短時間で国境を越え快適な旅を保証する飛行機。
 高速道路の拡充は車社会の発達とともに、
 流通機構をも変え経済システムそのものも変えてきた。

 私たちは、百科事典や辞書を開く習慣を過去の記憶におしやってしまった。

 インターネットは実に簡単に知りたい情報を提供してくれる。
 ツイッターは、顔を持たない匿名性により、
 多くの人に受け容れられたが、
 責任の所在があいまいなために、無責任な発言も多く見られた。

 言葉が軽くなり、
 誠意のこもった熱意のある言葉が少なくなったように思われる。
 それは、生身の人間が発する言葉ではなく、
 電波を介して届けられる送り手と受け手の一方通行の言葉である。
 メディアを媒体とした言葉も渇いた言葉だ。

 
便利さゆえに、失われたものも多い。
 「人を思い
やる気持ち」
 「家族のためにお母さんたちが費やした家事の時間」、
 「少子高齢化」に伴う家族機能の崩壊。
 便利さゆえに私たちは「大切なもの」を失ってしまったのではないか。
 なければ無くても
 不自由しないものをどんどん捨てていってしまうと心が渇いてしまう。
 大切なものはおカネでは買えない。
 目で見ることもできない。

 失われたものの大切さを再認識し、
 私たちが関与してきたこの社会を、
 未来の担い手である子どもたちに手渡すとき、
 子どもたちに失望されない社会を創ることは、
 私たち大人の務めではないか。

 雪中に遊ぶ孫たちの写真を眺めながら、
 思いを新たにする新年の一日でした。
 
 今年も、よろしくお願いします。

      (つれづれに……心もよう№111)   (2021.1.1記)


姉の認知症

2020-12-11 06:30:00 | つれづれに……

  姉の認知症

      姉の認知症に気づいたのは10年以上も前のこと。
   ご主人(義兄)と二人暮らしの姉。訪れた玄関には宅配の弁当が二つ。
  「んっ?」。料理が得意の姉がなぜ宅配の弁当をと、私は不思議に思う。
  遠方から訪ねた私に、お茶を淹れようとする。だがどこかぎこちがない。
  急須から出てきたものは白湯だった。
  「ぼくがお茶入れるから、○○は座っていていいよ」
  「あら、そうですか。すいません、お父さんお願いします」
  私が姉の認知症に気づいた出来事でした。

  それから2~3年たち、症状はどんどん進んで行った。
  「財布が盗まれた」とパトカーを読んでしまう。
  徘徊も始まり、泥だらけになって帰ってくる。
  暴力的な行為も増えた。
  でも、ご主人は姉を施設には入れたくないと姉を支えて頑張った。
  もう、とっくに老老介護の限界を超えていた。
  「〇〇さん(私のこと)、人間はあまりに長生きしてはいけなんだ。
  生きてるだけで誰かに迷惑をかけてしまうから」。
  哀しい述懐である。
  
  義兄の母は
  103歳まで生きた。気丈で死ぬまで毒舌は止まなかった。
  その姑に姉は嫁としてよく仕えた。
  姑が亡くなって、ほっと一息。
  「お父さん、これから二人でゆっくりしようね」
  夫婦に安らぎが訪れた。
  しかし、ホッとしたのか間もなく姉は認知症を発症した。

  嫁いだ娘の介助にも限界があり、施設入所をみんなで話し合った。
  自分の妻の面倒を見ることに意地を張れば、娘たちにも迷惑をかける。
  同時に介護の限界も感じた義兄は、渋々入所を承諾し、
  自分の妻の面倒を見られなくなった自分が情けないと、目を潤ませた。
  義兄はバスを乗り継ぎ、妻のホームへの訪問を欠かさなかった。

  それから数年が過ぎ、義兄に癌が発見された。
  末期がん。余命を宣告された。
  だが、気丈な義兄は、体調のいい時には妻のいるホームを見舞っていた。
  余命を生き抜き、文字どおり眠るように、
  嫁いだ娘ふたりに看取られて、
  妻と二人の思い出の残る自宅での静かな旅立ちだった。
  私たち夫婦が見舞った翌朝のことだった。
  家族葬が営まれ、
  故人を送るのに、とても穏やかな野辺送りになった。

  

  一時間半、高速道路を走って、今ではもう私の名前さえ忘れてしまった姉を見舞う。
  娘たちの名前さえ記憶のかなたに埋もれてしまったのに、
  「お父さんはどうしたのかね。このごろ全然来ないのよ」と何度もつぶやく姉は
  今年、87歳になった。

  コロナ禍のもと、面会禁止になっているホームで姉は今日も
  「私のお父さん、どこへいったのかねぇ。お父さんはのんきだからねぇ」と、
  一人呟いているのだろうか。


  (2020.12.10)          (つれづれに……心もよう№110)

 

 


新型コロナウイルス ⑥ 発生から東京アラートまで

2020-06-06 18:18:38 | つれづれに……

新型コロナウイルス ⑥ 発生から東京アラートまで 
1月  6日……中国武漢で原因不明の肺炎発生 厚労省が注意喚起
       隠蔽があったのか。異変に気付いた医療従事者が処罰されたり、
       言論封鎖行われたことは事実のようです。
1月16日……その10日後 日本国内で初めて感染者確認。 武漢に渡航した中国籍の男性でした。
2月13日……国内で初めて感染者死亡。
3月  9日……専門家会議「3密」の重なりを避けてと呼びかけ。
      この頃から事態は深刻になって来たようです。
3月24日……東京五輪・パラリンピック1年程度延期に
3月27日……安倍首相 全国すべての小中高校に臨時休校要請の考えを公表
4月  7日……7都道府県に緊急事態宣言
        「人の接触最低7割極力8割削減を…」コロナ感染を抑制しようとする安倍首相の貌を
         多くの人達はそれほど真剣にうけ止めていなかったように思います。
          しかし、3月29日にはコメディアンの志村けんさんが亡くなったあたりから、
         『「新型コロナウイルス」の感染力が非常に強く、感染死亡者は「納体袋」に入れられたまま遺
         族との最後のお別れもさせてもらえず火葬され、遺骨となって初めて遺族のところに帰る』
         という報道に接し、敏感な人たちはこのウイルスの容易ならざる危険性を感じていたことでしょ
         う。

4月16日   …… 「緊急事態宣言」全国に拡大。13都道府県は「特定都道府県」となる。
       感染者が日ごとに増加し、私たちの生活や経済活動も自粛や制約で窮屈になりました。
       「3密」を回避するために市民生活や経済活動にも大きな変化や問題が浮かび上がって
       きました。
        後から判明したことですが、実はこの時点で、感染ピークは峠を越えていました。
       緊急事態宣言が感染の抑制に貢献したことを認めながら、感染のピークは4月1日ごろで
       宣言前であったことを明らかにしました(政府専門家会議5月29日公表)。
4月18日……国内の感染者 1万人を超える。(クルーズ船除く)
5月 4日……緊急事態宣言 5月31日まで延長
      専門家会議の提言では、新たな感染者の数が限定的となった地域では再び感染が拡大しないよ
      う長丁場に備えて「新しい生活様式」に切り替える必要があるとして具体的な実践例が示され
      ました。
       感染防止の3つの基本 移動に関する感染対策 日常生活 買い物について 食事について
       娯楽・スポーツ等に関すること 冠婚葬祭 働き方のスタイル
      などなど具体的な例を挙げて細かな提言がされました。
      例えば「感染防止の3つの基本」とは、
    ①身体的距離の確保
    ②マスクの着用
    ③手洗い

  • 人との間隔はできるだけ2m(最低1m)空ける
  • 遊びに行くなら屋内より屋外を選ぶ
  • 会話をする際は可能な限り真正面を避ける
  • 外出時、屋内にいるときや会話をするときは症状がなくてもマスクを着用
  • 家に帰ったらまず手や顔を洗う できるだけすぐに着替える、シャワーを浴びる
  • 手洗いは30秒程度かけて水と石けんで丁寧に洗う(手指消毒薬の使用も可)

※高齢者や持病のあるような重症化リスクの高い人と会う際には体調管理をより厳重にする
  というように、各項目とも細かい提言が示されています。

 
5月  7日……国内感染者 1日の人数が100人を下回る。
               感染者数が減少してきて、少しだけ先に灯りが見えて来たようです。

       5月 4日には大相撲・夏場所が中止。
                    5月20日には、夏の全国高校野球の中止が決定されました。
       「可哀想だ」という心情派もいるようですが、全国から人が集まり、
       「三密」は避けられない状況を考えれば仕方のないことと思う。

      多くのプロスポーツのイベントが中止や延期になり、コロナ感染の状況が
        容易ならざることであることを物語っています。

5月14日……緊急事態宣言39県で解除 8都道府県は継続(北海道 埼玉 千葉 東京 神奈川 京都 
                          大阪 兵庫)
                         部分的とはいえ4月7日に、最初の宣言発令、
       それに続いて4月16日に全国に拡大されて初めての宣言介助でした。
       解除の目安は「
直近1週間の新規感染者数の合計が10万人当たり0.5人未満程度」などの目
       安を示しました。この時初めて「10万人当たり0.5人未満」という目安が提示されました。
5月25日……緊急事態宣言解除(全国)
       緊急事態宣言全国解除で、やっと先が見えてきたのだろうか。
       窮屈な「3密」生活から解放され、人が動き出す。
       経済活動も徐々に回復の日地をたどり始めました。

       これで、利用客が徐々に戻ってくれば……
       かすかに見えた灯りに希望を託す人達……
       一方で、人が集まれば、感染の危険も増加すると、不安がよぎり、
       マスクは外出時の必携品になりました。
6月 2日……東京アラート発令
       東京都の感染者が連日2桁になり、感染拡大した悪夢の日が再び来るのではないかと
       不安になりました。北海道は第2波ではないか、北九州市の市長は第2波の到来ですと
       テレビに向かって沈痛な面持ちで語りかけました。

       小池都知事は
「感染症防止と経済社会活動の両立を図っていく目安となる7項目のモニタ
       リング」の発表をしました。
       
① 新たな陽性者数が1週間平均で 1日あたり20人未満であること。

       ②感染経路不明が50%未満であること。

        ③前の週と比べた陽性者の割合が1未満であること
                                                                             (以下省略)

         感染防止か、経済活動かという二者択一の問題ではなく、
   どちらが破綻しても社会は成り立ちません。

   東京都内では2日、新たに34人の感染が確認され、
   5月14日以来19日ぶりに一日の確認が30人以上になりました。
   都は、感染状況の悪化の兆候が見られるなどとして、
   警戒を呼びかける「東京アラート」を初めて出し、
   都庁舎とレインボーブリッジを赤く点灯させました(NHKニュース)。

  
                                    (写真はNHKニュースから)   
やむに止まれぬ苦渋の選択の「東京アラート」です。
不要不急の外出を避け、生活の自粛をしてきた善良な市民が沢山います。
灯りを求めて誘蛾灯の瞬く「夜の街」へ今すぐ遊びに行かなくてもいいのではないか。
一日も早く、「東京アラート」が解除されることを願っています。
レインボーブリッジは一日も早く、本来の虹色に回帰することを願っています。
                                                                                                         

   (つれづれに…心もよう№107)       (2020.6.5記)
 

 



  
       
       
       
   

 

 

   




新型コロナウイルス ⑤ 100年前のパンデミック・スペイン風邪

2020-05-27 06:00:00 | つれづれに……

新型コロナウイルス 
   ⑤ 100年前のパンデミック スペイン風邪
 新型コロナ
  世界の感染者数 531万4625人……500万人を超えたのが
   4月 3日に100万人を超え
     15日200万人に
     28日300万人
     5月10日400万人……そして5月21日、ついに500万人を超えた。
 わが国では25日、新規感染者が減少傾向にあることを受けて、
 緊急事態宣言の全域解除になった。
  国内の感染者数(24日午後9時半現在) 1万7369人 
               死者     851人
   歩んでいくトンネルの先に、わずかな光が差してきた。
   しかし、新型コロナウイルスを巡っては、
           全身の血管に炎症が起きる「川崎病」と似た症状との関連が疑われるなど、
           新たな報告も出ています(WHO)。
           感染の過程でウイルスが変容したのか。
   要はこのウイルスに関してはいまだに、不明な点が多い。
   特効薬さえ開発されていない。
   感染拡大を抑え、感染者を隔離するのが、当面の対策なのだろうか。

         新型コロナウイルスの概要を見て来ましたが、
    100年前の「スペイン風邪」の状況を見てみましょう。

100年前(1918~1920年) スペイン風邪・パンデミック
 
発生はスペインではなく、
アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされています。
当時は第一次世界大戦の真っ最中で、
アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。
欧州に派遣されたアメリカ兵とともに「スペイン風邪 」も
世界中にばらまかれたといわれてます。

 歴史を顧みればトランプ氏が、「中国が新コロナウイルスをまき散らした」などと
自分への非難の矛先をかわすような中国批判などできるわけがないのです。


さて、アメリカ・カンザス州から発生した「A型インフルエンザウイルス」がなぜ、
「スペイン風邪」といわれるようになったか。
1918年は第一次大戦のさなかであり、
欧州各国やアメリカなど大戦参加国では報道管制が敷かれていました。
そのため当時中立国であった「スペイン」を経由して、
報道が「スペイン発」として発信されていました。
アメリカ陸軍がばらまいた感染症ウイルスがいつの間にか、
「スペイン風邪」と称されるようになったといわれています。
正確には「アメリカ風邪」というべき所を報道の発信元スペインの名が冠されたのです。
スペイン側からすれば理不尽なことなのでしょうが、
当時の国際間の国力の力関係もあって戦のどさくさに紛れて、「スペイン風邪」と
なってしまったようです。
 ただし、当時の日本での俗称は、「流行性感冒」として報道されていました。

(スペイン風邪に罹患したアメリカ・カンザス州の陸軍病院・ウィキペディアより)

 そのスペイン風邪。
 全世界で死者 …… 2000万~4500万人
日本国内の死者 …… 40万とも45万人ともいわれています。
   最初に示した「新型コロナウイルス」の規模と比べ、感染拡大の規模が
   桁違いであることがお分かりと思います。

当時の報道は次のように伝えています。
 感冒のため一村全滅 (福井県九頭竜川上流山間部)
 各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」(朝日新聞)
 商工業は休業。学校は休校 (岩手日報)
 処理能力を超えた火葬場 (神戸)
啓発ポスターは次のようなものがありました(朝日新聞4/24)。
テレビやンターネットのない時代、新聞やラジオ啓発ポスターという方法で情報を流しました。
 
   

悪性感冒・           汽車電車人の中ではマスクせよ     「テバナシ」に咳をされては
病人はなるべく別の部屋に       恐るべし「ハヤリカゼ」のバイキン             堪えない 「ハヤリ カゼ」はこん
                                  なことからつる                  
                       外出の後はうがい忘れるな
                       マスクをかけぬ命知らず!
 
 新聞報道は次のようにも伝えています。
  患者に近寄るな 咳などの飛沫から伝染 今が西班牙(スペイン)風邪の絶頂(1918.10.25付・朝日)
       航海中に死者続出(米国から日本へ向かう船内での感染を伝える記事)
  政府が呼びかけた対策は、マスク着用、うがい励行、室内の喚起や掃除の徹底、等々。
  「芝居、寄席、活動写真には行かぬがよい」
  「電車などに乗らずに歩く方が安全」

  なんだか、100年前の「スペイン風邪」は、
  現在の「新型コロナウイルス」感染拡大対策とほとんど同じようです。
  
  日本では一次流行期 …… 1918年8月~19年7月 
      二次流行期 ……  19年9月~20年7月
      三次流行期 ……   20年8月~21年7月 
               国内の罹患者は約2380万人 死者は48万人と推定されています。

 100年で世界は当時と比べ、地球規模でグローバル化が進み、
 
科学技術や医学技術は格段に進歩しているが、基本的な対策は当時と大差のないことが分かります。
 ワクチンの進歩をのぞけば、感染症対策はほぼ変わらないですね。

 緊急事態宣言が全国で解除され、私たちの生活も、
 経済活動も徐々にではあるが回復の道を歩み始めた。

 しかし、専門家の間では、
「新型コロナのワクチンができるか、多くの人が感染することで集団免疫を獲得するまでは、終息は難しい」のではないかと、警鐘を鳴らす人もいる。
全面解除されたとはいえ、
私たち一人ひとりが感染予防者であるという自覚を持つことが必要なのではないか。
       (つれづれに…心もよう№106)         (2020.5.26記)